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大 神 神 社
(式内・大神大物主神社)
奈良県桜井市三輪
祭神--大物主神
配祀神--大己貴命・少彦名命
                                                                2010.07.26参詣

 延喜式神名帳に、『大和国城上郡 大神大物主神社 名神大 月次相嘗新嘗』とある式内社で、大和国の神奈備山・三輪山をご神体として、その西麓に鎮まる、わが国最古の神社の一つとして知られる。

 社名は“オオミワ オオモノヌシ”と訓む。“神”を“ミワ”と訓むことについて、神がもつ神格のうち“人間に恐怖の念を抱かせるような魔性をもった対象”を、古く、“ミワ”と呼んだのではないかといわれ(記紀と三輪山伝承-神奈備・大神・三輪明神1997収録)、それは、オオモノヌシがもつ祟り神としての神格にも通じる。

 JR桜井線・三輪駅の東約600mに鎮座する本社・大神神社を中心に、その周辺および三輪山麓を南北に通る“山辺の道”沿いに点在する摂社12社(内2社は奈良市子守町)、末社21社、雑社7社の計41社から構成される(大神神社史・1975)
 なお江戸後期の古絵図によれば、これらの摂末社に加えて、三輪山の麓に位置する本社の左下(北)に三重塔をもつ“大御輪寺”(現大直彌子社)、右手(南)に“平等寺”および関連堂舎が見え、神仏習合の時代には神仏混淆の聖地だったことが窺われる。 

大神神社/社殿配置略図
大神神社本社及び主要摂末社・略図
大神神社/江戸時代古絵図
江戸時代古絵図(1830)

※三輪山
 三輪山は、奈良盆地の東南・桜井市の東部に独立して聳えるなだらかな円錐形の山で、標高467.1m(初瀬川よりの比高・約400m)、周囲16km、面積約350ha。

 当山は、神社成立以前から神が降臨する聖山・神が籠もる聖山として崇拝された代表的な“神奈備山”・“神の山”であり、この神奈備信仰・神体山信仰が大三輪信仰の原点であり、その神の山を遙拝する里宮が大神神社といえる。

 三輪山への祭祀が何時頃から始まったかははっきりしないが、山麓の祭祀遺構から出土する祭祀土器からみて、最大限さかのぼっても4世記中頃(崇神・崇仁朝か)、5世記後半(雄略朝か)に神マツリがなされたのは確かで、その最盛期は6世記とみられるという(弥生時代からの集落遺構が出土するが、そこから祭祀遺構・祭祀土器などは出土しないという)
三輪山遠望
三輪山遠望(大鳥居近くより)

 因みに、崇神紀に登場する大物主神の子・太田田祢子(オオタタネコ)の出身地・茅渟県(チヌノアガタ)陶邑(スエムラ)での須恵器生産の始まりは5世記前半頃とみられ、陶邑産の祭祀用須恵器が三輪の地に現れるのは5世記中頃から後半にかけてで、太田田祢子を祖とする三輪君(後の大神氏)は、5世記後半の雄略朝のころから三輪山の祭祀に係わったと推測されるという(以上、神社と古代王権祭祀・2009)

*追記
 昔から三輪山は、神体山であることを理由に禁足地とされてきたが、五来重氏は、
 「三輪山が一般の人が入ってはならぬ禁足地であったが、これを神体山だからとしたのは寛文6年(1666)の寺社奉行裁許定書であって、必ずしも信仰を表したものではない。
 私はここが禁足地になったのは、この裁許定書にある『むくろ谷』のような葬地があったためと考えている」(石の宗教・2007)
として、禁足地となったのは三輪山が神の山・神体山であるからではなく、亡骸を投げ捨てる葬地だったからという。
 古くは、死体(むくろ)を山中等に投げ捨てることは一般庶民がとりうる通常の死体処理法だったというから、それを防止するために禁足地としたというのも一理あるが、はたしてどうだったかははっきりしない。

※磐座
 三輪山は、全山樹木に覆われ、その中に神が降臨・鎮座する依代(ヨリシロ)である“磐座”(イワクラ)が点在する。
 しかし、全山を神奈備山・神山とする信仰上の制約から調査が行きとどかず、その全容ははっきりしない。

 資料によれば、禁足地を除いても25ヶ所を数え、それらが、おおきく禁足地から山上に至るライン沿い、山の神遺跡からのライン沿い、桧原神社からのライン沿いおよびその周辺に点在している。
 なお、これら三輪山中の磐座以外にも、山麓の大神神社境内周辺の“磐座神社”・“桧原神社”・“祓戸社”・“夫婦岩”などに磐座が存在するが、いずれも辺津磐座群に属する磐座という。

 禁足地内の磐座は大きく3ヶ所に別れており、“奥津磐座”(オクツイワクラ・頂上付近)、“中津磐座”(ナラツイワクラ・中腹)、“辺津磐座”(ヘツイワクラ・山麓付近)と呼ばれているが、一般の実見は不能。
 これを調査した大場磐雄氏(考古学者)
  「調査の結果、拝殿直後から頂上まで一直線上に3箇の起伏があって、その各頂上に露出した自然石にたいして、上から奥津・中津 ・辺津と呼び習わしている。はたして古代からの信仰対象であったかどうかは決定しかねるが」
として、辺津磐座のすぐ下から出土した祭祀施設をあげて、
  「これらは、単なる偶然とはいわれず、これらの磐座を対象として三輪山の神をお祀りし、祭具などをそのまま埋納したのだろう」
という(日本の神々4・1985)

 この磐座信仰が何時頃からのものかは不明だが、大三輪神鎮座次第(1226・鎌倉中期)
 ・奥津磐座--大物主神--神代期
 ・中津磐座--大己貴命--孝昭天皇(第5代)の御世(伝BC475--393)、大己貴命の和魂とされる大物主神とは別に、その本体である大己貴命を中津磐座に奉齊
 ・辺津磐座--少彦名命--清寧天皇(第22代)の御世(伝480--84)、神託により少彦名命を辺津磐座に奉齊
という(詳細下紀)

 この奉齊時期は、書紀の記述を史実とみた時代の風潮をうけたもので、今の知見からみて、これをそのまま認めることはできないが(例えば、孝昭天皇の実在は疑問視されている)、上記したように、三輪山信仰の始まりが4世紀中頃とすれば、実在がほぼ確実視される崇神朝の頃とみることができるかもしれない(確実には5世紀後半の雄略朝の頃か)

 時期不明とはいえ、その時々の要請によって、これら磐座の前に神籬(ヒモロギ)を設けて祭祀がなされたと思われ、この磐座信仰が当社の原点であろう。

※由緒
 当社発刊の冊子・“三輪明神縁起”には、
  「この神さま(オオモノヌシ)の思し召しにより、その御魂(幸魂-サキタマ・奇魂-クシタマ)を三輪山(三諸の神奈備)に永くお留めになり、それ以来、今日まで三輪山全体を神体山として奉斎してきた。
 それ故に、本殿を持たない、上代の信仰のかたちをそのままに今に伝えている我が国最古の神社である」
とあり、

 当社公式HPには
  「遠い神代の昔、大己貴神(オオナムチ、大国主神と同じ)が自らの幸魂(サキタマ)・奇魂(クシタマ)を三輪山にお鎮めになり、大物主神(オオモノヌシ、詳しくは倭大物主櫛𤭖魂命・ヤマトノオオモノヌシ クシミカタマ)の御名をもってお祀りされたのが始まりであります。
 それ故、本殿は設けず、拝殿の奥にある三つ鳥居を通して三輪山を拝するという、原初の神祀りの様が伝えられており、誠に最古の神社であります」
とある。

 また、近世になっての大和志料(1914・大正3)には、
  「大物主神に大己貴少彦名命の二神を配祀す。嘉禄2年(1226・鎌倉中期)11月16日、社家大三輪氏より官家に注進せし大三輪神鎮座次第に詳かなり。曰く
 当社古来宝殿無し、唯三箇鳥居有り。
 而して奥津岩座大物主神、中津岩座大己貴命、辺津岩座少彦名命、・・・蓋し大己貴命の幸魂奇魂鎮座するは当山是也。此大三輪大物主神是也。
 《これは全編の大綱にして、三神を祭ることを記し、就中大物主神は其の主神として神代よりここに鎮座するの義を示したるものなり》
 脇上池心宮御宇天皇(孝昭天皇)御世、神明吉足日命(エタルヒ)に憑くて曰く、吾は国造大己貴命也、大初、己命の和魂を八咫鏡に取り付け、名を大物主櫛甕玉命(オオモノヌシクシミカタマ)と申して大三輪の神奈備に鎮座し、瑞籬を造り斎き奉らしむ。焉(コレ)より神託に随い瑞籬を大三輪山に立て、吉足日命を遣わして大己貴命を崇斎せしむ。
 《この節は孝昭帝の世に神託により大己貴命を中津磐座に配祀せる由来を記せるものなり》
 磐余甕栗宮御宇天皇(清寧天皇)が大伴室屋大連に勅して、幣帛を大三輪神社に奉り、皇子無きの儀(皇子誕生)を祈禱す。時に神明宮能売憑いて曰く、天皇之を憂う勿れ、何ぞ天津日嗣絶えんや。上古、吾少彦名命と力を合わせ心を一にして天下を経営、皇孫を守り、人民を済う。其の所以に、今、少彦名命吾が辺津磐座に来り臨めり。吾及び和魂と共に能く敬祭すべしと。是に於いて、磐境を立て少彦名命を崇祭す。
 《この節は清寧天皇の御宇、少彦名命を辺津磐座に配祀の事歴を記せるものなり》」
とある(漢文意訳、《 》内は大和志料の原注)

 これらは主に、記紀・神代段にいうオオモノヌシの三輪山鎮座伝承及び出雲国造神賀詞(イズモノクニノミヤツコノカムヨゴ・716-奈良初期-初見)によるもので、
 書紀には、
  「一緒に国作りをしてきた少彦名神(スクナヒコナ)が常夜国に去られた後も国作りしてきたオオナムチ神は、出雲国に到って、『吾は葦原中国を皆砕き伏せて、今は従わないという者はない』と言挙げし、続けて、 『今、この国を治める者は吾独りだけだ。吾と共に天下を治めることができる者が、他にあるだろうか』といわれた。
 時に、不思議な光が海を照らして忽然と浮かんで来るものがあり、『吾があるからこそ、御前は大きな国を平らげることができたのだ』と告げられた。
 この時、オオナムチ神は尋ねて曰く、『では御前は何者だ』と。答えて曰く、『吾は御前の幸魂奇魂(サキタマクシタマ)だ』と。
 オオナムチ神が、『そうです。わかりました。貴方は私の幸魂奇魂です。で、どこに住みたいとお思いですか』と問われると、『吾は日本国(ヤマトノクニ)の三諸山(ミモロヤマ)に住みたいと思う』と答えられた。そこで宮をその所に造って、行き住まわせた。これが大三輪の神である」
とあり(講談社学術文庫版。以下同じ)、海を照らして依り来たオオナムチ神(オオクニヌシ)の幸魂奇魂を三輪山に祀ったという。

 これに対して、古事記には
  「オオナムチ(オオクニヌシ)とスクナヒコナと2柱の神並ばして、この国を作り堅めたまひき。然る後は、そのスクナヒコナ神は常世国(トコヨノクニ)へ渡りましき。・・・
 ここにオオクニヌシ神愁へて告(ノ)りたまはく、『吾独していかによくこの国を得(エ)作らむ。いづれの神と吾とよくこの国を相作らむ』と。この時、海を光らして依り来る神あり。
 その神言(ノ)りたまはく、『翌我が前を治めば、吾よく共に相作り成さむ。若し然らずば、国成り難けむ』と。
 ここにオオクニヌシ神『然らば治め奉(マツ)る状は奈何(イカニ)』とまをしたまへば、『吾をば倭の青垣の東の山上にいつき奉(マツ)れ』と答へ言りたまひき。こは御諸山(ミモロヤマ)の上に坐す神なり」
とあり、書紀と同じく、、オオクニヌシが、海を光らせて依り来た神を、その望みによって三輪山に祀ったという。

 これを愚考すれば
 ・両書とも、三輪山に鎮まる神は“海を照らして依り来た神”(以下「渡海神」という)であって、それがオオモノヌシ神とは明記していない。

 ・この渡海神について、書紀はオオクニヌシ神の幸魂奇魂(大国主の和魂-ニギタマ)というが、古事記には渡海神とのみあって、オオクニヌシの名はない。

 ・書記がいう幸魂・奇魂について、古事記伝(本居宣長・1798・江戸後期)
  「幸魂奇魂は、共に和魂(ニギタマ)の名にて、幸(サチ)(クシ)とは其の徳用(ハタラキ)を云うなり。・・・
 さて幸魂とは、字の如く、其の身を守りて幸あらする故の名なり。奇魂も、字の如くにて、奇霊(クスシキ)徳を以て、萬の事を知識(シリ)弁別(ワキマヘ)て、種々(クサグサ)の事業(コトワザ)を成さしむる故の名なり」
という。
 換言すれば、和魂とは神霊がもつ2様の働き(荒魂・和魂)の一で、和魂とは万物に恵みを与える穏やかな働きをもつ神霊で、それは又、日の光や雨の恵みなどの幸を与え豊かな収穫をもたらす幸魂と、霊妙で神秘的な働きで幸をもたらす奇魂の2つの働きに別けられるという。

 ・記紀で、オオクニヌシとオオモノヌシを同一神と明記するのは、書紀・神代段の末尾に
  「一書6にいう、大国主神は大物主神とも、また国作大己貴命(クニツクリシオオナムチ)ともいう。・・・」
とある一ヶ所のみで、他に同一神とする記述はない(古事記にはオオモノヌシの名は一切みえない)
 なお、書紀・国譲り段の終わり頃に
  「(国譲りを承諾したオオナムチは、「私は幽界の神事を担当しましょう」と述べて永久にお隠れになった。だからフツヌシ神はフナト神を先導役として方々を周り歩き平定し、従わない者を斬り殺した)
 この時に帰順した首長は大物主神と事代主神である。そこで八百万神を天高市に集め、この神々を率いて天に上り、その誠の心を披露した」
と、唐突にオオモノヌシの名が出てくる。
 ここでいうオオモノヌシをオオクニヌシとする説が多見されるが、直前に「オオクニヌシは永久にお隠れになった」とあること、オオクニヌシの子・コトシロヌシと並記されていることから、別神とみるのが妥当かと思われる。

 ・当社HPにいう倭大物主櫛𤭖玉命(ヤマトノオオモノヌシ クシミカタマ)とは、出雲国造神賀詞にいう
  「大穴持命(オオナモチ=オオナムチ)の申し給はく、『皇御孫命の静まり坐さむ大倭の国』と申して、己命の和魂を八咫の鏡に取り託けて、倭(ヤマト)の大物主櫛𤭖玉命と名を称(トナ)へて、大御輪の神奈備に坐させ、・・・」(延喜式祝詞教本・1959)
  (大穴持命が、この大倭の国こそ、皇孫命のお鎮まり遊ばさるべき国であると申されて、ご自身の和魂を八咫鏡に依り憑かせて、御霊代として、倭の大物主櫛𤭖玉命と御名を称えて、大三輪の社に鎮め坐させ・・・)
によるもので、神賀詞の正史上での初見は元正天皇・霊亀2年(716)という。
 祝詞教本の注記によれば、ここでいう櫛𤭖玉命とは“奇厳霊命”(クシイツチ又はクシイカツチ)の義で、𤭖(ミカ)は厳(イツ-おごそか)に通じるという。櫛は奇(クシ・霊妙)であるから、奇厳霊命とは“霊妙で厳かな霊力をもつ神”となろうが、もひとつはっきりしない。
 なお、櫛𤭖玉を櫛(クシミカタマ)と記す史料がある。甕(カメ)・卵・玉などの中空の器には神霊を宿るとされることから、櫛甕玉命とは“霊妙な神霊をもつ神”の意となり、櫛𤭖玉・櫛甕玉は同じことを指すとみてもいいだろう。

 ・上記の三輪明神縁起あるいはHPにいう由緒は、書紀にいう三輪山の神鎮座縁起をもとに創られたとおもわれるが、これらは古来からの三輪山神話と出雲神話、言い換えれば大和勢力と出雲勢力の一体化を図るために創られた伝承との感が強く、これを以て三輪山の神=オオモノヌシ=オオクニヌシとするには疑義ありともいえる。

 当社は、皇祖神・アマテラスが定着する以前には、大和朝廷からその守護神として重要視されていたといわれ、記紀にも三輪山の神の神威を語る伝承は幾つか記されている(神功皇后摂政前記・雄略6年条・敏達10年条・聖武紀天平9年条など)
 これらをみると、三輪山の神は大和政権の勢力拡大とともに、単に大和国一国の守護神から、国家の守護神へと成長していったのであろう、という(日本の神々4)

 なお、当社に関する正史上の記録として
 ・聖武天皇天平2年(730)--大神神戸 穀217斛(コク)7斗4升2合・・・大和国正税帳
 ・聖武天皇天平9年(737)4月
            --使者を遣わして伊勢神宮・大神神社・・・に幣帛を奉り、新羅国の無礼のことを報告・・・続日本紀
 ・平城天皇大同元年(806)--大神神160戸 大和5戸・摂津25戸・遠江10戸・美濃50戸・長州30戸 天平神護元年(765)・・・新抄格勅府抄
 ・文徳天皇嘉祥3年(850)10月--大神大物主神に正三位を授く・・・文徳実録
 ・  〃   仁寿2年(852)12月--大和国大物主神に従二位を加ふ・・・同上
 ・清和天皇貞観元年(859)正月--大和国従二位勲二等大神大物主神に従一位を奉叙・・・三代実録
 ・  〃      〃     2月--大和国従一位勲二等大神大物主神に正一位を奉叙・・・同上
 ・  〃      〃     7月--使を諸社に遣りて神宝と幣帛を奉る。従五位下藤原朝臣四時を大神社の使と為す同上
 ・  〃      〃     9月--大和国・・・大神神・・・に使を遣りて弊を奉り、風雨の為に祈りしなり・・・同上
などがあり、8世記には神社としての形態を整えていたことは確かといえる。

 また当社は、延喜式にいう臨時祭である祈雨祭85社及び名神祭285社に列し、国家の重大事・天変地異に際して時別の奉幣をうけた二十二社(1061制定)にも列している。

※祭神
  主祭神--大物主神(オオモノヌシ)
  相殿神--大己貴命(オオナムチ)・少彦名命(スクナヒコナ)

 三輪明神縁起には、
 「当社の神体山三輪山に鎮り坐す御祭神オオモノヌシ大神は、世にオオクニヌシ神(大黒様)の御名で広く知られている国土開拓の神さまであり、詳しくは倭大物主櫛𤭖玉命(ヤマトオオモノヌシ クシミカタマ)と申し上げます」
とある。

 この縁起は、三輪山の神=オオモノヌシ=オオクニヌシというが、上記のように、記紀・神代段の記述等で見る限り、これが成立する根拠は薄い。

 記紀で、三輪山の神の名をオオモノヌシと記す初見は、古事記・神武天皇の正妃選びの段で、そこには、
  「三島湟咋(ミシマミゾクヒ)の娘・勢夜陀多良比売(セヤタタラヒメ)が美人であることを『美和の大物主神が見(ミ)(メ)でて』、丹塗矢(ニヌリヤ)に化して通い、その間に比売多々良伊須気余理比売(ヒメタタライスキヨリヒメ)が生まれた。
 神武天皇がこれを神の子であるとして娶り正妃とした」(大意)
とある(書紀では、事代主神と三島溝橛耳神の娘・玉櫛姫との娘・媛蹈鞴五十鈴媛命-ヒメタタライスズヒメが正妃とある

 そのオオモノヌシが、自ら名乗りをあげて登場するのが書紀・崇神天皇7年条で、
  「その頃、国中に疫病が流行り、民の死亡するものが半ば以上に及ぶようになった。それを愁えた天皇が神浅茅原(カムアサジガハラ)に八百万の神々を招いて占いをされた。
 このとき、『吾は倭国の境の内にいる神で、名はオオモノヌシ』と名乗る神が倭迹々日百襲姫(ヤマトトトヒモモソヒメ)に神縢りして、『吾を敬い祀れば、自然に平らぐだろう』と告げたので、それに従ったが収まらなかった。
 そこで、天皇は斎戒沐浴して神意を問うたところ、夢の中にオオモノヌシが現れ、『我が子・太田田祢子(オオタタネコ)に吾を祀らせたら、天下は平らぐだろう』と告げた。
 そこで、国中にオオタタネコを求めたところ、茅渟県(チヌノアガタ)の陶邑(スエムラ)から現れ、天皇に『吾はオオモノヌシとイクタマヨリヒメの子でオオタタネコという』と申し上げた(古事記には4代目の孫とある)
 喜んだ天皇は、オオタタネコをオオモノヌシを祀る祭主とし、長尾市を倭の大國魂神を祀る祭主として両神を祀らせ、別に八百万の神々を祀ったところ、疫病ははじめて収まり、国内は鎮まった」(大意・古事記もほぼ同じ)
とある。
 ただ、この条でのオオモノヌシは「倭国(大和国)の境の内にいる神」と名乗り、三輪山の神を示唆するものの、はっきりとは名乗っていない。

 これがはっきりするのは、崇神紀9年条で、そこには
  「その後、ヤマトトトヒモモソヒメはオオモノヌシの妻となった。しかし神は昼は来ないで、夜だけやってきた。
 それで姫が『お顔を見たいので、朝、もうしばらく留まってください』とお願いしたところ、大神は『もっともだ。明日の朝、貴女の櫛函に入っていよう。ただ私の形を見て驚かないように』と答えだ。
 明くる朝、姫が櫛函を開けてみると、麗しい小蛇が入っていたので、驚いて声を上げた。すると大神は恥じて人の形になり、『貴女は私に恥をかかせた。今度は私が貴女に恥をかかせよう』といって、大空を飛んで御諸山(三輪山)に帰って行った」(大意)
とあり、ここで始めてオオモノヌシが三輪山の神であると記されている(以下、モモソヒメが死んで、大市の箸墓に葬られた経緯が記されている)

 ただ、これは書紀にのみ記す伝承で、古事記(崇神記)には、
  「美しいイクタマヨリヒメのところに、夜毎に、名も知らない麗しい男が通ってくるうちに姫は妊娠した。
 それを怪しんだ父母が『男の身元を知るために、男の衣の裾に麻糸を刺せ』と教えたので、そのようにして翌朝みると、麻糸が鍵穴から外に伸びていたので、それをたどっていくと三輪山の神の社まで続いていた。
 そこで、その男が三輪山の神・オオモノヌシで、生まれる子が神の子であることがわかった」(大意)
とある。

 また、これ以降の伝承として、
 ・雄略天皇6年7月3日条--天皇が少子部蜾蠃(チイサコベスガル)に「三輪山の神を見たいので、人よりも力が強い汝が行って捕らえてこい」と命じた。スガルは三輪山に登って大きな蛇を捕らえてきて天皇にお見せした。大蛇は雷のような音をたて、目をキラキラと輝かせたので、斎戒していなかった天皇は畏れ入って目をおおい、ご覧になることができずに殿中に隠れてしまわれた
というのがある。

 この伝承あるいは上記ヤマトトトヒモモソヒメの伝承などからみると、三輪山の神の正体は蛇であることがわかる。
 蛇は水神であり雷神とも連なることから、これらの伝承は、三輪山の神がオオモノヌシとして人格化する以前の原初的な姿を示すもので、そこでの三輪山の神は、水を司る豊穣の神として人々から崇敬されていたと思われる。

※社殿等
◎大鳥居・一の鳥居・二の鳥居
 JR三輪駅に近づくと、西側の家並越しに聳える大きな鳥居がみえる。国道169号線沿いに立つ“大鳥居”(明神鳥居)で高さ42m、笠木の長さ41m、銅板造。昭和59年(1984)、昭和天皇の御親拝を記念して立てられたという。

 今の表参道がこの大鳥居からはじまることから、これが一の鳥居と思われているが、本来の“一の鳥居”は大鳥居の南、国道から東へ一本入った細い道沿いにひっそりと立ち、その脇に『当国一の宮 官弊大社大神神社』との石柱が立つ。一の鳥居を入った先、大神教本院の左側を抜けると表参道へと通じる。

 表参道の突きあたりに立つのが“二の鳥居”で、ここから神社境内へ入る。神額には“三輪明神”とある。

大神神社/大鳥居
大神神社・大鳥居
(奥に見える山が三輪山)
大神神社/一の鳥居
同・一の鳥居
大神神社/二の鳥居
同・二の鳥居

◎社殿
 当社には本殿はなく、〆柱を入った先・境内中央に“拝殿”が西面して建ち、その左に勤番所・神饌殿、右に勅使殿・神楽殿の殿舎が並ぶ。

 拝殿の奥は“三ッ鳥居”を距てて禁足地となっている。申し出れば拝殿脇まで入り、三ッ鳥居を拝することができる。

 現在の拝殿は、寛文4年(1664)徳川4代将軍家綱の再建によるもので、国指定の重要文化財。

 拝殿は、桁行九間(約21.5m)・梁行四間(約7.3m)・切妻造・檜皮葺の建物(H=9.3m)で、正面中央柱間三間には千鳥破風を持つ入母屋造・妻入・檜皮葺の向拝が張り出し、その先端は唐様破風で飾られている。

社殿等配置図
大神神社/〆柱と拝殿
大神神社・〆柱と拝殿
大神神社/拝殿
同・拝殿

同・拝殿側面図

 当社に拝殿が建造された時期は不詳だが、平安末期の“奥儀抄”(藤原清輔・1014--77)には、ある人の言として、
  「みわの明神は社もなくして、祭の日は茅の輪をみつ(3ッ)つくりて、いは(岩)のうへ(上)におきて、それをまつる也」
とあって、未だ社殿(拝殿)はなかったことを示唆するが、
  「旧記によれば、文保元年(1317・鎌倉後期)造営ありて、足利氏の治世に幾度かの修繕を加えられ・・・」
との資料もあり(日本の神々4)、11世紀末(平安末期)から鎌倉期にかけて造営されたと思われる。

◎本殿について
 当社は古くから本殿はなかったというが、その有無について、神祇志料(1871・明治4)は、
 日本紀略(11世記後半~12世記初)・一条天皇長保2年(1000)7月13日条に、
  「奉幣廿一社  大神神社宝殿鳴動するに依る也」(6月16日条に「御卜、大和国城上郡大神神社鳴動するに依る」とある)
とあるのを取りあげて、
  「今神殿なく、ただ山に向ひて拜み奉るを深き故あることの如く云うは、誤りにして取るに足らず。
 されど、中古以来、神祇の祭奠甚く衰ふるに合わせて、神社も破損へるままに、自らかくの如くなりしものなる事著し」
として、古くは本殿があったという。

 これに対して、大和志料(1914・大正3)は、崇神天皇紀・7年12月20条に記す
  「天皇は三輪の神の宮に御幸されて宴を催し、『味酒 三輪の殿の 朝戸にも 押し開かね 三輪の殿戸を』と詠い、神の戸を開いてお出ましになった」
との記録を取りあげて、
  「ここでいう神宮は即ち拝殿にして、宴をここに設けられた後で、其の神門を開き三輪山に幸し給へるの儀なれば、当時宝殿なかりしこと明らかなり」
とし、また、日本紀略(11世記後半~12世記初)・一条天皇長保2年条に鳴動したという宝殿は、
  「拝殿を尊称せるものなるべし」
と正反対の判断をしている。

 この何れが史実なのかは判断できないが、いずれにしろ、当社は相当古くから本殿のない神社として崇敬されていたことは間違いない。

◎三ッ鳥居
 拝殿の奥、禁足地との境に立つ 鳥居(重要文化財)で、三ッ鳥居と称する(三輪鳥居ともいう)
 中央の本鳥居(明神型)の両側に脇鳥居(同)を連ねる三連式をした特異な鳥居で、その主要寸法は
  本鳥居の柱間--約2.4m  同高さ--約3.7m
  脇鳥居の柱間--約2.1m  同高さ--約2.7m

 中央の本鳥居には両開きの扉が付いているが、その前に御簾が掛けられていて、通常は見えない。ただ、元旦の午前1時から行われる繞道祭(ニョウドウサイ・御神火まつり)にのみ開扉され、それ以外は、祭祀に際しても御簾が巻き上げられるだけで、扉は開かれないという。
 脇鳥居には扉はなく、その左右に続く瑞垣と同じ透塀が設けられ、通り抜けはできない。

大神神社/三ッ鳥居
大神神社・三ッ鳥居
(三輪明神縁起から転写)
大神神社/三ッ鳥居・模式図
同・模式図(資料転写)

 三ッ鳥居という特異な形をとったことについては、社記に「古来一社の神秘なり」とあるだけで、その理由を記した史料はなく、また創立年代も不明。
 ただ、3基の鳥居を連ねた特異な形をとることについて、
 ・三輪山には主神・オオモノヌシの他にオオナムチ・スクナヒコナを祀るため、それぞれの祭神に対応する三箇の鳥居を一体として組み合わせた
 ・古く、三輪山を拝する拝場は祭神三座に対応して三ヶ所に別れていたが、それを一ヶ所にまとめた時、今の形になった
 ・中世の三輪流神道で、胎蔵界・金剛界・不二大日界を象徴するもの
などの解釈があるが、いずれも後世の解釈であって、本来の由緒がどういうものかは不明。

 しかし、大三輪神鎮座次第に、
  「当社、古来より宝殿無し。唯三箇鳥居有るのみ」
とあり、「平安時代あるいはそれ以前から、神(三輪山)を遙拝する神門として神聖視されてきたことは確か」だという(以上、大神神社1971)

 現在の鳥居は、明治17年(1884)に改築されたもので、昭和33年に解体修理されたという。
 なお、大阪市中央区の坐摩神社(イカスリ)にも、ほぼ同形の三ッ鳥居が立つが、祭神・由緒ともに大神神社との関連はみえない。

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