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宗像大社/辺津宮
福岡県宗像市田島
祭神--市杵島姫
                                                              2017.07.24参詣

 延喜式神名帳に、『筑前国宗像郡 宗像神社三座 並名神大』とある式内社・三社の一。

 当社は、JR鹿児島本線東郷駅の北(やや西寄り)約4km強、宗像市中心市街地の西北部にある宗像山の北東山麓、釣川左岸に鎮座する。
 なお当社は、釣川左岸に鎮座する辺津宮と、その南西方(宗像山北山腹)にあって辺津宮祭祀の原点とも目される高宮祭場とから構成される(下図・全体位置図)

 
辺津宮全体位置図(ネット資料に加筆)

※辺津宮(世界文化遺産構成要素)
 辺津宮(ヘツミヤ)は、宗像大社を構成する三社(沖津宮・中津宮・辺津宮)の一社だが、当社のみが九州本土の宗像市に鎮座し、何時でも参詣できるという地理的条件からか、宗像三社の惣社的位置にある。

 境内に、当社の創建由緒・時期等に関する案内は見えず、代わって「祭神について」との案内には、
  「当大社は、天照大神の御子神
    田心姫神・タキツヒメ(沖津宮) 湍津姫神・タギツヒメ(中津宮) 市杵島姫神・イチキシマヒメ(辺津宮)
の三女神が、日本書紀に伝えられているように、天孫降臨にさきだち、天照大神の御神勅を奉じて鎮座されました。
 この九州北辺の要衝の地に三柱の女神が勅祭された意義はまことに尊く、道主貴(ミチヌシノオミ)の別称が示すように、国民道の祖神として歴代の皇室を守護され、国家鎮護の御神徳を発揮され、今に至っております」
と、宗像三社の創建について記している。

 また、「史跡 宗像大社境内」との案内には
  「宗像大社は、沖津宮・中津宮・辺津宮の三宮から成り、宗像三女神を奉斎している。
  ここに祀られている宗像大神については、記紀・風土記にも詳らかにのべられおり、沖津宮にある沖ノ島からは、古墳時代から平安時代にかけての貴重な祭祀神宝(国宝)が多数出土している。
  また、宗像大神を奉祀する宗像氏は、古代の有力な氏族であり、中世には、院庁、鎌倉室町両幕府らと関係を持ち、戦国期にもその地位を守り抜いた豪族であった。
  境内の概要は、現存する天正6年(1578)の造営絵図により推定できるが、現境内もなおよく当時の形状を保っている。
  文部省 昭和46年4月22日史跡指定」
とある。

 宗像大神は、アマテラスとスサノオの天の安川での誓約(ウケヒ)によって成りでた三柱の女神の総称で、アマテラスが下した神勅をうけて宗像の地に天降ったとされる。

 しかし、これは神話上での話であり、宗像信仰の原点は、沖ノ島に今も残る古代祭祀遺跡にみるように、朝鮮半島へ至る航路(海北道中)の安全を祈願する神マツリであって、それが神話とと結びついたのが、当社を含む宗像三社ともいうことができる。

 宗像信仰の原点が沖ノ島での神マツリであるように、当社の原点も、辺津宮南西に位置する高宮祭場における古代の神マツリで(高宮祭場に残る下高宮遺跡からの出土品は沖ノ島のそれと類似するという)、そんな神マツリの場を山麓に遷して里宮としたのが現在の辺津宮であって、その造営は8世紀頃ではなかったかという。

 なお、宗像大社の由緒・祭神等については、別項・宗像大社参照のこと。

◎社殿等
 当社へは北側(正確には北西方)から入る。
 一の鳥居・二ノ鳥居を入った先が境内で、神池に架かる太鼓橋を渡った先に神門が建つ。
 神門から左右に伸びる廻廊に囲まれた中が本殿域で、神門・拝殿・本殿は北西方を向いて一直線に並ぶ。
 この方向は遠く沖ノ島に相対するもので、当社祭祀が沖ノ島の古代祭祀に直結したものであることを示唆している。

 今の社殿配置は江戸時代のそれとほとんど変わっていないが、当時は神仏習合時代ということから、田島宮社殿古絵図(17世紀中頃)によれば、本殿の周りには経堂・塔・鐘楼など神宮寺関係の堂舎が建ち並んでいる。


辺津宮・社殿配置図(現在)
(ネット資料に加筆)
 
 
田島宮社殿古絵図
トレース図(ネット資料に加筆)
赤:神社関連、黄:仏閣関連

 今の辺津宮は釣川河口から約3kmほど上流に位置するが、古くは、田島宮社殿古絵図に『馬場之末 御前之浜(オマエノハマ)云』とあるように、当社付近まで海が迫っていたといわれ、
 筑前国続風土記拾遺(1827頃)に、辺津宮が所在する田島村について、
 ・往昔、此村は江海の浜にして、東南北の三方は皆潮水たたへて、田島川の上、土穴・稲本村等の辺りまで遠く入海なり
 ・此村のみならず近村にも、田圃の字に浦或は嶋を以て名とする地、今も多し
とあるように、当地一帯は低湿地であったという。
 嘗ての当社が『海濱』と書いてヘツミヤと称したのは、そんな低湿地(海浜)に突きでた丘陵先端の麓に位置することからという。

 
辺津宮・一の鳥居
 
同・二ノ鳥居
 
同・太鼓橋

 神門を入った境内中央に拝殿(切妻造・妻入り)が、その奥、透塀に囲まれた中に朱塗りの本殿(五間社流造)が北面(正確には北西方-沖ノ島を望む)して鎮座する。
 現本殿は、天正6年(1578)、宗像大宮司氏貞の造営で、現拝殿は、天正18年(1590)、領主・小早川隆景の再建という。
 縦に長い拝殿の奥に、「神勅 奉助天孫而 為天孫所祭」と謹書した額が掛かっている。


同・神門 
 
同・拝殿
 
同・本殿
 
同・社殿側面
 
同・拝殿内陣
 
神勅の額

◎末社
 本殿の左右(東西)と背後(南)に、略同形の社殿を有する末社が並ぶ。
 「末社由緒」との案内には
  「御本殿周辺の23の末社は、延宝年間(1673--81)に整備されたものです。
  これは当時、宗像郡全域及び鞍手郡・遠賀郡・糟屋郡の一部に鎮座されていた75社108神を此の所に元宮としてお祀りしたもので、神郡・宗像の地に祀られた神社のすべてが宗像大社を御本宮として仰いだ信仰の姿を今に伝えています」
とあり、江戸時代前期頃に宗像郡内に散在した小社を集め祀った小祠という。

 末社23社は、いずれも単独社ではなく、一つの社殿に数社が合祀されている(下写真の中・右)
 南側・東側の末社は西側のそれと略同形であり、写真は割愛する。

 
末社(西側)

末社内の一社 
 
左社に合祀されている神社名

※高宮祭場

 辺津宮本宮の南南西約500mに残る古代の祭場遺跡(下高宮祭祀遺跡、右図の赤点線内)
 辺津宮南西方の宗像山(H≒50m)の北側中腹の高所に位置し、辺津宮境内右手(西側・門あり)から祭場への参道が伸びる。

 現地に案内表示はみえなかったが、資料には
  「宗像大神御降臨の地といわれています。社殿が未だ創建されない悠遠のいにしえ、この地で祭祀がおこなわれ、敬虔な祈りが捧げられたのであります。
 現在でも、1日・15日の月次祭をはじめ、春秋の大祭には、本殿に先がけてお祭りされており、全国でも数が少ない神籬(ヒモロギ)・磐境(イワサカ)の古代祭場であります」
とあり、

 三宮共通の参詣の栞(簡単すぎて余り役にたたない)には、
  「社殿を有さない日本固有の祈りを今日に伝える、全国でも稀な古代神籬祭場です」
とある(神籬・磐境--社殿を有しない仮設的な祭祀施設)。 

高宮祭場・位置図

 資料は「高宮祭場は宗像大神降臨の地」というが、
 ・筑前国風土記・宗像郡条
   宗像大神が天降って埼門山(サキトヤマ)に居られたとき、青蕤の玉・紫の玉・八咫の鏡を表(シルシ・御神体)として三つの宮に納め、隠れたもうた(大略)
 ・宗像大菩薩縁起(鎌倉末期)所載の三所大菩薩最初影向地事条
   宗像大菩薩、室貴六嶽(ムロキノムツケタケ)に着あり、・・・その後、三所の地に御遷座あり(大略)
とあるように、宗像三女神は六が嶽から三つの宮へ遷ったとの伝承があるという。

 ここでいう埼門山・室貴六嶽とは同じ山で、辺津宮東南方の鞍手郡鞍手町室木にある六ヶ嶽(ムツガタケ・H=339m)を指し、その山頂に鎮座する六ヶ嶽神社の由緒や鞍手町誌(1974)は、宗像大神は先ず六ヶ岳に天降り、その後三つの宮に遷座したという。
 なお、書紀一書3にも、宗像三女神は宇佐島に天降り、その後、海北道中に遷ったとある。

 案内が高宮を三女神降臨の地というのは、風土記にいう埼門山を高宮の地に充てたものだろうが、上記伝承からみて、三女神降臨の地というには疑問がある。(以上、別項・宗像大社参照)

 高宮祭場に残る下高宮祭祀遺跡からは、沖ノ島での露天祭祀期(8~9世紀頃)と共通する須恵器・土師器などの祭祀土器、あるいは人や馬・舟を模した滑石製形代(カタシロ、ミニチュア祭具)などが出土しており、辺津宮社殿造営以前のこの地が、磐境・神籬などを設けての神マツリ(露天祭祀)の聖地であったことを示している。

 出土品の中に舟形形代があることは、人々が航海の安全を祈ったことを示唆している。 当遺跡からの舟形形代出土数は不明だが、沖ノ島祭祀遺跡からは約200点の舟形形代が出土しているという。
 

 境内右手(西側)、高宮祭場との額があがる門を入ってすぐを左に進み、道なりに参道(石段あり)を進むと、木柵で区切られた祭場正面に出る。


奥宮祭場への門 
 
同・参道

同・祭場正面

 小石を敷き詰めた祭場は、低い石積みで4段に区画され、ここで神事がおこなわれるという。
 その奥、少し離れて、神事のとき降臨する神の依代(ヨリシロ)となる神籬(ヒモロギ)があり、注連縄を張った低い石積み区画の中に、神降臨の依代(ヨリシロ)となる樹木一本が立っているようで、古代の祭祀形態を今に残す貴重な神マツリの場だが、遠くてはっきりしない。


祭 場 
 
祭場・側面
 
神 籬(右手の石積部)

 当高宮祭場は、昭和30年に復元されたものという。
 また、この高宮祭場周囲が下高宮祭祀遺跡というが、雑木林に覆われた一帯にはその片鱗すら求めることはできない。

※第二宮・第三宮
 境内の南、細い道路をはさんで第二宮(テンニグウ)・第三宮(テイサングウ)との社が鎮座する。

 この2社は、第二宮が沖津宮の田心姫神を、第三宮が中津宮の湍津姫神を勧請したもので、当社刊の「むなかたさま」によれば、
 「この両宮の社殿は、かつてこの地にあった両宮の社殿が、中世以降、本殿背後の小社となっていのを、昭和の大造営(昭和49年-1974)において元の鎮座地である現在の地に復興したものです。
 これに際して、宗像三女神の御親神である天照大神を祀る伊勢神宮の別宮(伊佐奈岐宮・伊佐奈弥宮)の古社殿が、第60回式年遷宮後、特別に下賜されました」
とあり、社殿の様式は神明造。

 この2社の勧請時期は不明だが、16世紀頃の社殿配置想定復元図によれば、本宮境外・高宮祭場の東に2社別々に描かれていて、その頃には勧請されていたと思われる。

 今は改築中で、外から見て殆ど完成しているようにみえるが、境内には入れなかった。

 
第二宮(工事中)
   
旧第三宮(資料転写)
※神宝館
 境内左手奥に建つ建物で、沖ノ島祭祀遺跡から出土した遺物を中心に約8万点にのぼる神宝や文化財を収蔵展示している。昭和55年開館
 館内には、沖ノ島から出土した金製指輪・金銅製歩揺付雲珠・三角縁神獣鏡・祭祀土器など(いずれも国宝)や、足利尊氏奉納の鎧・石造狛犬(いずれも重文)などの文化財が展示されている。
 

神宝館正面

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