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観世音寺(太宰府)
福岡市太宰府市観世音寺5丁目
本尊--聖観音座像
                                                         2017.07.24参詣

 西鉄太宰府線・西鉄五条駅の北西約600mに鎮座する古刹で、太宰府政庁跡の東約500mに位置する。
 宗派 天台宗
 弘法大師・空海が帰朝後、上京するまでの約1年半、当寺に滞在したという。

※縁起
 当社で頂いた縁起には
  「観世音寺は、天智天皇(在位:668--72)がその9年(670)頃に母・斉明天皇(在位:655--61)の追福祈願のために発願され、寺の運営資金となる封の施入や伎楽の移送、銅鏡の鋳造などからみて、朱雀元年(686)年頃に一応の完成をみました。
 しかし、寺の性格が当初の追福の目的から鎮護国家へと変更されたため、本尊・不空羂索観世音菩薩の決定などが遅れたらしく、正式発足に当たる供養は天平18年(761)のことでした。
 その後は、太宰府の大寺(府大寺)として西海道(九州)の僧統の中心となりました。(以下略)
とある。

 当寺の建立には時間がかかったようで、続日本紀・元明天皇・和銅2年(709)2月1日条に
  「筑紫の観世音寺は、近江の大津宮で天下を統べられた天皇(天智)が、後岡本宮で天下を治められた天皇(斉明)のために、誓願して基をおかれたところである。
 その後、年を重ねながら、今に至るまでまだ造営が終わっていない。・・・速やかに造営を遂げるようにせよ」
と、完成を急ぐようにという詔がある。

 だが、天智崩御後の壬申の乱(672)勃発など諸般の事情から、造営は遅遅として進まなかったようで、
 ・元正天皇・養老7年(723)--詔して、僧満誓を筑紫に遣わして観世音寺を造らせた
 ・聖武天皇・天平17年(745)--玄昉法師を派遣して筑紫の観世音寺の造営に当たらせた(実態は配流)
とあるように、その完成までには長い時間(75年ともいう)を要したといわれ、当寺の竣工時期についての記録はないが、聖武天皇・天平18年(746)頃ではないかという。

 しかし、
 ・朱鳥元年(686)--太宰観音寺 二百戸 丙戌年(686)施 筑前国百戸 筑後百戸 (大同元年牒-806、神社寺院への封戸施入記録)
 ・大宝元年(701)--太宰府観世音寺の食封は、大宝元年から(溯って)計算すると満5年になるので、これを停止し、食封に準じた物を施入するように、との処分を下した(続日本紀)
   (一般に寺には食封は施入しないが、勅による場合には5年に限るという規則があったという)
との記録があり、寺としての結構は少しずつながら整いつつあったともいう。

 嘗ての当寺は、七堂伽藍を備えた大寺だったといわれ(右古絵図)、その最盛期は8世紀頃ではなかったかという、

 今、広い境内に金堂・講堂・鐘楼の堂舎がのこるものの、他は南側入口(観世音寺との石柱が立つ)からの参道沿いに南大門跡・中門跡・塔跡といった礎石が散在するだけで、西の大寺「府大寺」(西の政庁・太宰府にある大寺)と称えられた面影はない。




 
観世音寺・入口
 
同・金堂
 
同・講堂

◎宝蔵
 境内東に建つ収蔵庫、昭和34年(1959)建造

 蔵内に16躰の仏像(国重要文化財)を収蔵する。
 ・聖観音座像--旧講堂本尊 木造 H=3.21m 治歴2年(1066)
 ・馬頭観音立像--旧講堂在 木造 H=5.03m 平安後期作
 ・不空羂索観音立像--旧講堂在 木造 H=5.17m 貞応元年(1222)復興
 ・十一面観音立像--旧講堂在 木造 H=4.98m 延久元年(1069)
 ・十一面観音立像--旧講堂在 木造 H=3.03m 仁治3年(1242)
 ・阿弥陀如来座像--旧金堂本尊 木造 平安時代作
 ・十一面観音立像--旧金堂在 木造 平安時代作
 ・四天王立像(4躰)--旧金堂在 木造 平安時代作
 ・大黒天立像--旧金堂在 木造 平安時代作
 ・吉祥天立像--旧金堂在 木造 平安時代
 ・兜跋毘沙門天立像--旧金堂在 木造 平安時代
 ・地蔵菩薩立像--旧金堂在 木造 平安時代
 ・地蔵菩薩半跏像--旧金堂在 木造 平安時代

 なお、上記以外にも
 ・聖観音立像--旧金堂在 木造 平安時代作 現講堂本尊
 ・阿弥陀如来立像 --旧講堂在 木造 平安時代作 九州国立博物館に寄託
がある。

 今回の旅で当寺を訪れたのはこの仏像を拝観するためで、広い室内に巨大な仏像が並んでいるさまは壮観といえる。


観世音寺・宝蔵 
 
宝蔵内陣(一部)
(参詣の栞より転写)
 
馬頭観世音菩薩立像(栞より転写)

◎梵鐘--国宝(昭和28年指定)
 本堂前、少し離れた処に鐘楼があり、古びた梵鐘が吊り下がっているが、木立に囲まれていて分かり難い。
 傍らの案内には
  「この梵鐘は京都妙心寺の鐘(戊戌年-698の銘あり)と兄弟と云われ、その古さに於いても亦優秀さに於いても正に日本一と称せられ、糟屋郡多多良で鋳造されたと伝えられています。
 菅公の詩に『都府楼纔看瓦色 観音寺只聴鐘聲』とあるのはこの鐘であります」
とある。

 菅公の詩とは、太宰府に流された菅原道真の詩・不出門(門を出でず)の一節で、そこでの菅公は
  「都府楼(太宰府政庁)は僅かに瓦の色が見えるだけで、観音寺は只鐘の声を聴くだけ」
と、自由に動けない吾が身を嘆いている。

 
鐘 楼
 
梵 鐘

◎戒壇院(不参拝)
 当寺の境内左手に戒壇院があり、嘗ては筑紫戒壇院とよばれ観世音寺の一院だったようだが、今は臨済宗に属し観世音寺とは別の寺となっている。
 戒壇院とは、出家者が正式の僧尼となるために必要な戒律を授けるために設けられた施設で、天平勝宝7年(755)唐から鑑真が来朝し、翌8年に奈良・東大寺に設けたのが始まり。
 当戒壇院は、天平宝宇5年(761)に下野薬師寺とともに設けられたもので、「天下の三戒壇」の一つと呼ばれたという。

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