トップページへ戻る
宗像大社へリンク

宗像大社/中津宮
福岡県宗像市大島
祭神--湍津姫命
                                                      2017.07.23参詣

 中津宮は、宗像大社の北西約11kmに位置する大島の最高峰・御嶽山(H=224m)の東山麓に鎮座し、
 御嶽山の頂上には、中津宮の奥宮と呼ばれる御嶽神社が鎮座し、その傍らに御嶽山展望台がある。
 また、島の北側・岩瀬海岸には、約48km先にに位置する沖ノ島に鎮座する神(田心姫)を拝礼する沖津宮遙拝所がある。

 
大島へは、宗像大社の北西約3km弱、小さな岬の基部にある神湊(コウノミナト)港渡船ターミナルから渡島する。海上約7km、フェリーで25分程度。

 
大島遠望

大島・中津宮等位置図 
 
(参考)沖ノ島
(神湊港ターミナル展示を転写)

※中津宮(世界文化遺産構成要素)
 島の東南中央に位置する大島港渡船ターミナルに上陸し、前の道を左(西)へ進んだ右手に鳥居が立つ。

 頂いた参詣の栞には、
  「天照大神からお生まれになった宗像三女神は、北部九州から朝鮮半島へと続く海の道『海北道中』にそれぞれ鎮座されました。
 長女の田心姫神は沖ノ島(沖津宮)に、次女の湍津姫神は大島(中津宮)に、三女の市杵島姫神は田島(辺津宮)に天降りました。この三宮を総称して宗像大神と申します。

 中津宮は古代より、大島最高峰の御嶽山の東麓を鎮座地としており、現在の境内地を含む周辺では弥生式土器・勾玉・須恵器・銅製指輪・滑石製の形代(カタシロ、人型・馬形・舟方)などが出土しています」
とある。

 中津宮は宗像三女神の一・湍津姫神を祀る社だが、宗像三女神の出自・鎮座由緒等については、別稿・宗像大社参照。

◎社殿等

 道の横に立つ一の鳥居を入って参道を進み、二ノ鳥居を入り小さな太鼓橋を渡った先の石段の上が境内。

 境内正面に拝殿(切妻造・妻入り、昭和3年改築)が、その背後、透塀に囲まれた中に本殿(流造)が鎮座する。

 本殿について、参詣の栞には 
 「現在の本殿は、辺津宮本殿より12年古い永禄9年(1566)、大宮司・宗像氏貞公によって再建されたものです」
とあるが、その存在を示す史料の初見は江戸前期の正保元年(1644)という。




 
社殿等配置図(栞より転写)

中津宮・一の鳥居 
 
同・二ノ鳥居
 
同・参道石段
 
同・拝殿
 
同・本殿
 
同・社殿側面

◎境内末社
 ・境内右--示現社(小祠) 国玉社 松尾社
 ・境内左奥--御衣代社 御嶽社
 ・境内左--前戸社
 何れも鎮座由緒・祭神名等不明。


示現社・国玉社・松尾社 
 
御衣代社・御嶽社
 
前戸社

 なお、参詣の栞によれば、一の鳥居の右・牽牛社の辺りに、天満宮・大歳社・恵比須社・須賀社があるというが、参詣時気がつかず不参詣。

※御嶽神社(御嶽山展望台)
 中津宮背後に聳える御嶽山(H=224m)山頂に鎮座する小さな神社。

 中津宮背後から登頂路(細い山道)があるが、今回は中津宮下から小型マイクロバスで細道を通って展望台に至ると、その小広場の傍らに御嶽神社の鳥居が立つ。

*由緒
 資料によれば、
  祭神--湍津姫命荒魂・天照大御神
  由緒
   「この御嶽神社は、宗像大社中津宮の摂社であり、中津宮の奥宮として古くから人々の信仰が厚いお社であります。
   宗像大社に奉斎されている田心姫神・湍津姫神・市杵島姫神は、畏くも皇祖・天照大神の御子神でおはせられます。
   この皇祖・天照大神と湍津姫命(中津宮奉斎)の二柱を祀る御嶽神社は、遠く天文・弘治年間(1532--1657)の頃より『嶽祭』の名で盛大にお祭りがおこなわれていたことが記されています」
という。

*社殿
 展望台広場の一画に立つ鳥居を入り、石段を登った山頂付近の一画を平らに切り拓いた処に、拝殿と本殿が前後して並び立つが、雑木林に囲まれた狭いところ故、全体を見ることはできない。


御嶽神社・鳥居 
 
同・石段 

拝殿正面 

本殿正面 
 
本 殿

*御嶽山祭祀遺跡

 御嶽神社が鎮座する山上に残る御嶽山祭祀遺跡は、7世紀末頃から9世紀にかけての遺跡で、中津宮祭祀の原点であって、8世紀頃に山麓に下り里宮としての中津宮が創建されたと思われる。

 昭和22年の発掘調査によれば、沖ノ島の露天祭祀(8~9世紀)とよく似た須恵器・土師器等の祭祀土器、あるいは人や馬あるいは舟を模した滑石製形代(カッセキセイ カタシロ、ミニチュア祭具)が多数出土していることから、
 沖ノ島と同じく、九州北部と朝鮮半島を結ぶ航海の安全を祈願する神マツリ(露天祭祀)が行われていたと推測されるという。

形代(資料転写)

 今の御嶽山全体は雑木林で覆われていて、祭祀遺跡らしきものをみることはできない
 (当御嶽山祭祀遺跡・沖ノ島の古代祭祀遺跡・田島の下高宮遺跡は、その出土遺物が殆ど同じで、共通の祭祀がおこなわれていたと推測される) 


◎牽牛社・織女社

 中津宮一の鳥居を入ってすぐ、参道沿いに流れる天の川をはさんだ左右の崖の上に、左に織女社(織姫)、右に牽牛社(彦星)の小祠が鎮座する。

 参詣の栞には、
  中津宮七夕祭は少なくとも鎌倉時代まで遡ることができ、大島は七夕発祥の地といわれています。
 「正平年中行事」(1346)には、『七月七日 七夕虫振神事』(タナバタムシフリシンジ)とあり、境内にある牽牛社・織女社に参籠し、水に映る姿によって男女の縁を定める信仰があったと記されています。(以下、続風土記などにみる記録は中略)
 これらの信仰は大陸から伝えられたと考えられていますが、商人によって都へ伝えられ書物に登場したようで、中津宮の七夕信仰が古くより中央に知られていたことを物語っています。
 今日では、8月7日(旧歴7月7日)の夜に、島を挙げての七夕祭が斎行され、島民をはじめ多くの篤信者が島に渡って夜遅くまで賑わいをみせています。
とある。

 
織女社・鳥居
 
織女社・社殿
(鳥居上の斜面に鎮座)
 
牽牛社
(崖の上にあり、登り道不明で、
全体の実見は不能)
 
牽牛社・社殿

 今、七夕といえば、願い事を書いた短冊をつけた笹を立てて願い事の成就を願う祭り(特に女の子の祭り)というのが一般の理解だが、これは中国での星祭りや乞巧奠(キッコウデン)といった伝統風俗が伝来して日本のそれと習合したもので、吾が国には古くから旧歴7月7日におこなわれる吾が国独自の民俗習俗があったという。

 これについて、古人は次のようにいっている
*折口信夫--水の女(1927)
 ・川や池・湖の辺に湯河板挙(ユカワタナ)を作って、その棚には神の嫁となる村の処女(機織姫・タカバタツメ)が居て、神の衣を織りながら神の訪れを待ち、聖婚して神の御子を生むとの信仰があった
 ・タナバタツメとは、棚で神衣を織っている女ということで、その意味では銀河の織女星はタナバタツメであり、年に一度訪れる彦星を待つ点もそっくりである
 ・それが、藤原・奈良時代の漢文学かぶれした詩人・歌人を喜ばし、中国の風習を取り入れて楽しんだであろう(大要)

*五来重--宗教歳時記(1982)
 ・中国渡来の七夕祭をまず受け入れたのは中国趣味の貴族文人たちで、
 ・それが庶民の間に一般化したのは江戸時代の寺子屋教育によるもので、人々は芋の葉に溜まった露を集めて墨をすり、短冊に願い事を書いて笹に結びつけた
 ・しかし、わが国での7月7日は“盆初めの日”というのが本来の姿で、この日、庭先に青竹を立てて棚を作り、茄子や胡瓜・西瓜などの初物を供えて、帰ってくる祖先の霊をもてなしたといわれ、それがお盆の精霊棚に連なったという
 ・中国伝来の七夕と日本の民族伝承としてのタナバタの相違は、日本ではこの日を“お盆の初めの日”としていた点にある
 ・そこでのタナバタとは祖霊祭であり、祖霊を作神とする日本人の神観念からいえば、農耕感謝と豊作祈願の祭りであった(大要)

 今の七夕祭りは新暦の7月7日に行われるのが一般で、月遅れでおこなわれる8月15日のお盆とは一月以上離れているため、七夕が盆初めの日といってもピンとこないが、旧歴では一週間の間隔しかなく、七夕祭がお盆行事と一連のものであって、この日から人々はお盆の準備を始めるとともに、精進潔斎して祖霊を迎えたという。

 当社の七夕祭りは、中国伝来の風習を踏襲した一般的なものらしいが、正中年中行事には「七夕虫振神事」とあり、虫振との語が入っている。
 この虫振が何を意味するのかは不明だが(ガイドさんに尋ねてもご存じなかった)、臆測すれば、虫振とは田畑の害虫を追い払う虫追いであって、嘗ての七夕祭は単に竹を立てての祭りというより、豊穣を願う農耕儀礼だったのかもしれない。

 なお、七夕祭発祥の地というのは各地にあり、大阪・交野市にある織物神社も発祥の地と称している。

※沖津宮遙拝所(世界文化遺産構成要素)
 境内に案内板等は見当たらないが、資料によれば
  「沖津宮遙拝所は、遠く沖ノ島(沖津宮)を望み参拝するために建立されました。
 沖津宮は、この遙拝所から約48km先の沖ノ島にあり、天照大神の御子神(宗像三女神)のおひとり田心姫(タキリヒメ)を祀っています。
 沖ノ島への上陸は、今も守られている禁忌によって厳しく制限されていて、通常は渡島できません。
 また、沖ノ島の古代祭祀遺跡からは約8万点の奉献品が発見され、全てが国宝になっています」
という。

 遙拝の対象である沖ノ島は、宗像信仰の原点である神ノ島であり、古くから
 ・上陸前の海中での禊ぎ
 ・女人禁制
 ・不言様(オイワズサマ)--島内で見聞きした一切を語ってはならない
 ・島内から、一木・一草・一石など一切を持ちだしてはならない(御神水は別)
 ・牛馬など四本足の動物を食べてはならない
など厳しい禁忌があって一般人の自由な渡島が禁止され(今は宗像大社神主一人が交代で常駐という)、今までは5月27日(明治38年の日本海海戦の日)の一日だけ希望者の上陸が許されていたが(禁忌厳守)、世界遺産登録に関連して2018年からは禁止するという。

 これらの禁忌によって自由に往来できないことから(特に女人禁制)、代わって、遠く沖ノ島を望み遙拝するために設けられたのが当遙拝所で、明治初年写しという「沖津宮遙拝所図」(作成時代不明)をみると、
  「河口に面した高台上に、広場を囲むように遙拝所、大祭時の奉幣使詰舎、神官詰所、神饌所といった建物」
が描かれており(ネット資料)、その当時、奉幣使を迎えての祭祀がおこなわれていたことが伺われる。

◎社殿等
 当遙拝所は、大島の北側海岸(岩瀬海岸)に面した崖の上にあり、海岸から石段を登った上に遙拝所社殿が鎮座する。
 なお、石段下に立つ石碑には「澳嶋拝所 寛延三年正月十一日(オクツシマハイショ)とあり、遙拝所が江戸中期頃(寛延3年:1750)にはあったことを証している。

 
遙拝所全景
 
同・海岸側より
 
石碑・澳嶋拝所

 社殿正面の扉を開き背面の窓を開くと、遠く沖津宮が見とおせ、中津宮参詣の栞には、
  「春秋の大祭時には扉を開け、遥か沖ノ島を拝しながら、中津宮大祭が斎行されます」
とある。

 
遙拝所社殿
 
遙拝所社殿

 因みに、現遙拝所社殿の造営は昭和8年(1933)という。

 石段を上った右に、石祠一座が鎮座している。
 社名等の案内はないが、ガイドの言では「正三位社」(ショウサンミシャ)という。

 正三位社が如何なる社かは不詳だが、江戸中期、沖ノ島を訪れた靑柳種信(1766--1836)の「瀛津嶋防人日記」(1794)との古書に、
  「風待ちの大島で毎日禊ぎ、船出の日を占ふ。
 沖ノ島上陸後七日間 禊ぎの後 正三位社(志賀の神を祀るといふ)に詣り 八日目に大神の神に詣る。
 毎朝禊ぎ 正三位社に詣ることは その後も同じ。大神の宮には常に詣ることなし 神威を畏れてなり」
とあり、沖ノ島にも志賀神を祀る正三位社との社があったことがわかる。 

正三位社

 これによれば、正三位社とは志賀の神(綿津見三神)を祀る社という。
 綿津見(ワタツミ)三神とは海の神・航海の神であり、宗像大神と同じ神格を持つことから、沖ノ島に祀られてもおかしくはないが、その神を祭る社が、如何なる由緒で正三位社と呼ばれたのかは分からない。
 因みに、正三位社は沖ノ島・大島(当社)の他にも辺津宮でも末社として祀られており、宗像大社と何らかの関係がある社であるのは確かだが、詳しいことは分からない。

トップページへ戻る]  [宗像大社へリンク