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織 幡 神 社
福岡県宗像市鐘崎224
主祭神--武内大臣(武内宿弥)・住吉大神(筒之男三神)・志賀大神(綿津見三神)
相殿神--天照大神・宗像大神・八幡大神・壱岐真根古臣
                                                                2017.07.24参詣

 延喜式神名帳に、『筑前国宗像郡 織幡神社 名神大』とある式内社だが(宗像郡の式内社は当社と宗像三社のみ)、明治10年(1877)、宗像大社の境外摂社となったという。
 なお、辺津宮ても末社75社中の一社として祀られている。 
 社名・織幡は“オリハタ”と読む。

 宗像市の北西、玄界灘に突きでた小さな岬・鐘ノ岬の突端にある小山・佐屋形山(サヤガタヤマ・H≒50m)の中腹に鎮座し、宗像大社の北(やや東へ振れる)6kmほどに位置する。
 なお鐘ノ岬は、東の響灘と西方に広がる玄界灘との境目に突きでた岬で、すぐ目の先にある地島(ジノシマ)との間の海峡(約1.8km)は古来から海の難所として知られていたという。

 
佐屋形山
 
対岸の地島
 
鐘ノ岬と地島間の海峡

※由緒
 参道に立つ案内には、
  「平安初期、朝廷の年中儀や制度などの事を書いた“延喜式”の中に、日本中の神社が記してあります。
  織幡宮は、筑前19社の第二番目に記され、宗像郡内でも、宗像大社に次ぐ神社として記録されています。
  その昔、文字をもたない時代から、古代の人々は、山の神・海の神・岬にも神霊を感じて航海安全を『ちはやぶる神の岬』として祈った時代もあったと思われますし、織幡宮は武人・武内宿弥を鎮護国家の備えとして、交通要衝・鐘崎に祀ったといわれています。
 古文書に、元禄8年(1695)社殿造営、元禄16年(1703)拝殿成就と記され、古い歴史がしのばれます」
とある。

 当社の創建にかかわって「宗像大菩薩御縁起」(鎌倉末期)なる古文書には、次のようにある(大略)
 ・神功皇后出兵の時、一人の老翁が「御長手」を捧げて現れ、我は天照大神の御子で“高磯強石将軍”(タカイソゴウセキ)なりと名乗った。この強石将軍とは今の宗像大菩薩である。
 ・武内大臣は赤白二流の旗を織り持ち、宗像大菩薩(強石将軍)の御手長(御長手のこと)に取り付け、これを軍の先頭に掲げ、宗像大菩薩ほか河上・住吉・諏訪・高良・武内の神々が大将となって、それぞれ艫舳に立ち、安曇の磯良を舵取りとして新羅に向かって出陣した。
 ・新羅に渡った宗像大菩薩が、武内大臣が織り出した赤白二流の旗を付けた御手長を振り下ろし、藤大臣(高良玉垂命)が竜宮から借りてきた乾珠を海に入れると海は陸地となり、喜んだ敵兵が船を下りて此方へ攻めてきた時、宗像大菩薩が御手長を振り上げ、藤大臣が満珠を海に垂れ入れると、忽ち潮が満ちてきて、敵兵は悉く溺れ死んだ。
 ・宗像大菩薩が振り下ろし振り上げた御手長は、潮の干満を自由に操る乾珠・満珠とともに、我が軍を勝利に導く“神のシルシ”であった。
 ・凱旋の後、宗像大菩薩は、筥崎に白旗・赤旗を立て置いた。その後、根本影向之地である息御嶋(オキノミシマ・沖の島)に御手長を立て置いた。これ即ち、異国征伐の旗杆(竿)で、三竹の瓶中に増減することなく成長する不思議な竹である。

 また続けて
 ・金崎織旗(幡)大明神は本地如意輪観音で、垂迹は武内大臣の霊神である
 ・神功皇后朝鮮出兵の時、(武内大臣が)赤白二流の旗を宗像大菩薩の御手長に付けられた故に、神明垂迹の時「織旗」(織幡)の名字を得られた。異族襲来の海路を守護するため、海辺に居られるのだ
とある。
 なお、長手(手長)とは、宗像神社史(上巻・1966)に、「長い幡竿」・「長妙(ナガタエ)の約語で、長い旗」とあるように、長い布を旗竿に付けたもので、神が依り憑く依代(ヨリシロ)ともいう。

 また、明治初年の資料・神社覈録(1870)には、
  「続風土記に云、武内大臣の神霊を祀るよし云伝へたり。社のある山は、鐘崎の民家を去ること五町計り艮(ウシトラ・東北)の方にあり。
 山のかたはらに神廟あり。相伝て曰、武内宿弥此山の佳境なるを慕ひて、われ死なば神霊はかならず此地にやすんずべしとのたまふ。蓋し異賊襲来の災を防がむためなりとぞ。
 これにより、後人、此地に祠を立つといふと伝へり」
とある。

 これらからみると、当社は、神功皇后の朝鮮出兵に際して、宗像大神が敵兵を翻弄した長手(旗竿)に取り付けた赤白二流の旗を作ったという武内宿弥の功績を称えて創建されたとなるが、これは神話上での話であり、これを以て当社創建の由緒とするには疑問がある。


 当社が鎮座する鐘ノ岬は、玄界灘と響灘の接点(境界)に位置し、特に鐘ノ岬と沖の地島(ジノシマ)との海峡は潮流が激しく浅瀬や暗礁の多い難所であって、萬葉集に
  「ちはやぶる 金の岬を過ぎぬとも 我は忘れじ 志賀の皇神(スメミマ)(1230番・読み人知らず)
   [意訳--恐ろしい難所である金(鐘)の岬は過ぎたけれども、これからも、志賀の神(当地の西南約30kmにある志賀島に坐す綿津見三神)が海の守護神であることを忘れずに、絶えず祈りを捧げていこう]
とあるように、海難事故の多発海域として知られていたという。

 そんな海の難所に突きでた岬にある佐屋形山は、50mそこそこの小山とはいえ、玄界灘・響灘を生活の場とする海人たち(鐘崎の地は鐘崎海人の根拠地で、鐘崎海女発祥の地という)にとっては航行・漁労の目印となる山であり、そこに鎮座して海上での安全を守護するとともに、海陸の境界に坐して外界からの悪霊・邪霊の侵入を遮る塞ノ神(サイノカミ・道祖神)的神格をもつ神に対する素朴な信仰に始まったと思われ、社頭の案内が「ちはやぶる神の岬云々」というのも、これを示唆する記述かと思われる。

 そんな素朴な自然神信仰の場に、神功皇后伝承における功臣・武内宿弥が加上されたのが現在の当社であって、武内宿弥を外敵防御・国家鎮護の神として奉斎するのも、古代の塞ノ神的神格を受け継いだものともいえる。

 当社の創建年次を示唆する確たる史料はないが、
 ・嘉祥3年(850)7月甲辰   筑前国織幡神に従五位下を授く(文徳実録)
 ・貞観元年(859)正月27日  従五位下織幡神に従五位上を授く(三代実録)
 ・元慶元年(877)12月15日  筑前国従五位上織幡神に正五位下を授く(同上)
との神階綬叙記録があり、9世紀に当社があったことは確かいえる。

[追記]
 宗像三社・織幡神社・許斐神社(宗像市王丸・祭神:宗像三女神他)の五社を総称して宗像五社という。

※祭神
 当社祭神は、冒頭に記すように、武内大臣(武内宿弥)・住吉大神(筒之男三神)・志賀大神(綿津見三神)を祀っているが、延喜式には一座とあること、続風土記に武内宿弥の神霊を祀るとあることから、本殿中央に祀られる武内大臣を以て主祭神とみるべきであろう。

 武内宿弥は、景行・成務・仲哀(神功皇后)・応神・仁徳天皇に仕えたという超長寿の人物で、蘇我・巨勢・平群・紀・波多氏など古代ヤマト朝廷で活躍した豪族の始祖という。
 特に、当社由緒にあるように神功皇后の新羅出兵、帰国後の応神即位に際して特段の功績があったとして、古代ヤマト朝廷最大の功臣とされる。

 当社刊のパンフには
  「主祭神の武内大臣は武内宿弥とも呼ばれ、神功皇后を助け三韓出兵を行った武人。
  大臣は、征伐後鐘崎に上陸され、歴代天皇にお仕えし、寿命が尽きる時、鐘崎に戻ってこられ昇天(鎮座)されたとされています」
とある。
 しかし、これらは全て神話伝説上での話であり、いま、武内宿弥は伝説上の人物としてその実在は否定されている。

 本殿内に併祭されている住吉大神(筒之男三神)・志賀大神(綿津見三神)は、いずれも海の神・航海の神であり、航海・漁労の守護神として祀られたと思われ、それは当社本来の祭神(航行・漁労守護神)の流れをひくとも推測される。

 相殿神・天照大神以下4神の奉祀由緒・時期等は不明だが、
 末尾に祀られる壱岐真根子命(イキノマネコ)とは、壱岐国壱岐郡(長崎県壱岐市)を本貫とする壱岐氏の先祖といわれ、
 新撰姓氏録に
   「右京神別(天神) 壱岐直 天児屋根命九世孫 雷大臣之後也」
とある雷大臣(イカツチノオオオミ・神功皇后が神託を伺ったとき審神者・サニワを務めた中臣烏賊津使主と同一神)の御子で、神功皇后新羅遠征のとき、父・雷大臣とともにこれに従い、帰国後、壱岐島に留まり壱岐氏の祖となったという。

 壱岐真根子に関して、書紀・応神9年条に次の説話がある(大略)
 ・武内宿弥を筑紫に派遣して、人民を監察させた
 ・その時、宿弥の弟・甘美内宿弥(ウマシウチノスクネ)が、天皇に「兄には天下を狙う野心がある。筑紫を割いて取り、三韓を従わせたら天下を取ることができる、といっている」と告げた
 ・それを信じた天皇は、使いを遣わして武内宿弥を殺すことを命じた
 ・その時、武内宿弥と瓜二つの容貌をしていた壱岐真根子が身代わりとなって自殺し、使者を欺いた
 ・その後、武内宿弥は密かに都に帰り、天皇の前で弟・甘身内宿弥と対決し、盟神探湯(クガタチ)によって身の潔白を証明した

 姓氏録によれば、壱岐氏は中臣氏の一族となるが、本来の壱岐氏は壱岐島を本貫とする卜部(ウラベ)であって、壱岐卜部・対馬卜部・伊豆卜部などとともに都に呼ばれ、朝廷祭祀を所掌する中臣氏の配下として亀卜を以て朝廷に仕えたことから、中臣氏系図に組みこまれたとする説もあり(壱岐氏系図によれば、雷大臣の次の世代に中臣宗本家と壱岐氏に分かれたとある)、それが本来の姿と思われ、
 それを傍証するものとして、姓氏録には
  「左京神別(諸蕃) 伊吉連 長安の人・劉揚雍より出る也」
ともあり、壱岐氏は渡来人だともいう(壱岐卜部が所掌する亀卜は中国・朝鮮からの伝来という)

 その壱岐真根子命が当社祭神に配されるのは、真根子が武内宿弥の身代わりとなったという説話によるもので、嘗ての当社は真根子の後裔である壱岐氏が神主として祭祀にかかわったという。

※社殿等
 道路突き当たり(その先は海岸)の右手に一の鳥居が、参道の先に二ノ鳥居が立ち、長い石段(150段ほど)を登った上が境内となる。

 境内正面に拝殿(千鳥破風向拝付き切妻造、妻入り))が、続いて本殿(流造)が鎮座する。

 
織幡神社・一の鳥居
 
同・二ノ鳥居

同・石段(後半部分) 
 
同・拝殿
 
同・本殿 

 境内には末社数社が鎮座する。
  本殿の右(東側)--簡単な覆屋のなかに小祠2宇(右:恵美須社、左:海社)が、
  本殿背後(北側)--右:須賀社  左:合祀殿らしいが社名等不明
  その鎮座由緒・祭神名などは不明。


左:海社、右:恵美須社 
 
須賀社
 
社名不明

※その他

◎鐘ヶ岬の沈鐘伝承
 一の鳥居を入ったすぐの左側(西側)に巨大な岩塊(右写真)が鎮座する。
 傍らの案内・『沈鐘と巨石』には
  「昔の人は、金埼は鐘崎で、ここには海の向こうの国から来た釣鐘が沈んでいる、と語りつぎ信じてきた。
   宗像興氏や黒田長政などが、その権力にまかせてこの釣鐘を引き揚げようとしたが失敗に終わった。
   ところが、大正8年(1919)に山本菊次郎なる人が、万金を投じてこれを引き揚げることに成功した。
   しかし、姿を現したのは釣鐘ではなく、このような巨石であった。人々はがっかりしたが、今でも本当の釣鐘は海底に沈んでいるとの思いを捨てかねている」
とある。
 各地に残る沈鐘伝承の一つだが、 この伝承が地名・鐘崎の由来ともいう。

 

◎海女立像
 沈鐘巨岩の参道をはさんだ反対側に若い海女の像が立つ(右写真)
 傍らの案内「海女発祥の地 鐘崎」には、
  「ここ鐘崎は 古来風光明媚 海路の要衝として万葉の古歌に詠われ 沈鐘の伝説で名高い。
 先祖は鐘崎海人と呼ばれ 進取の気性に富み 航海術に秀で 各方面で大活躍した。
 特に潜水の技術に優れた鐘崎海女は 西日本の海女発祥の地として有名である。
 ここに石像を建立し 功績をたたえ 航海の安全と豊漁を祈る」(筑前鐘崎海女保存会)
とある。 

 ガイドの話では、嘗ては数百人居た海女も、今では老女2人だけと減少し、気が向いたら潜っているという(ただ、男性の海女が数十人居るらしい)

 また、二ノ鳥居を入ってすぐの左手奥に今宮社との石祠が鎮座するが、鎮座由緒・祭神等は不明。

◎恵比須神社
 鳥居左の高所に恵比須神社との小社が鎮座しているが、織幡神社との直接的な関係はないという。

 ガイドの話では、鐘崎海女達が出漁の前にこの社に詣でて、潜水中の安全を祈ったという。
 当社が他と変わっているのは、内陣には、普通吊されている鈴の代わりに、径20cm程の素木の丸太が横に置かれていて、海女達はこの横木を木で叩いて神様を呼び出しお祈りをしたという。

 
恵比須社・正面
   
同・内陣

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