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宗 像 大 社
辺津宮--福岡県宗像市田島
祭神--市杵島姫神
中津宮--福岡県宗像市大島
祭神--湍津姫神
沖津宮--福岡県宗像市沖ノ島(不参詣)
 祭神--田心姫神 
                                                               2017.07.23・24参詣                                 

 延喜式神名帳に、『筑前国宗像郡 宗像神社三座 並名神大』とある式内社。
 平成29年(2017)7月9日、「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群」(宗像大社三社を含む8ヶ所)として世界文化遺産として認定された。

 当社は、
 ・九州北西部・宗像市田島に鎮座する辺津宮(ヘツミヤ・海岸より約3kmの内陸部)
 ・その北西約11kmの大島に鎮座する中津宮(ナカツミヤ)
 ・その北西約48km、玄界灘の真っ只中の沖ノ島に鎮座する沖津宮(オクツミヤ)
の三社によって構成され、三社はほぼ一直線に並ぶ(右位置図)
 なお、この軸を逆に延ばすと、朝鮮半島の釜山辺りに達するという。

 ただ、古代の祭祀遺跡が残る島として知られる沖ノ島は、神の島として神聖視され、一般人の上陸が禁止されているため、沖津宮の参詣はできない。
 (5月27日の大祭時のみ人数を制限して入島を許していたが、世界遺産登録に伴い2018年から一般人の入島は禁止するという)

宗像大社・位置図

※由緒
 宗像大社公式HPには、
  「ここ宗像の地は、中国大陸や朝鮮半島に最も近く、外国との貿易や進んだ文化を受け入れる窓口として重要な位置にありました。
 日本最古の歴史書といわれる日本書紀には、『歴代天皇のマツリゴトを助け、丁重な祭祀を受けられよ』との神勅により、三女神がこの宗像の地に降りられ、おまつりされるようになったと記されています」
とあり、
 当社配布の参詣の栞・「宗像大社」には
  「天皇の祖先神の御子神である田心姫神・湍津姫神・市杵島姫神の宗像三女神は、天照大神の命令(神勅)によって宗像の地に降臨されました。
 その神勅は『あなたたち三女神は、大陸との要衝である玄界灘に降臨し、歴代天皇を守護奉りなさい。そうすれば歴代天皇があなたたちを祀るでしょう』との意で、宗像三女神は皇室・国家の守護神として、中津宮(沖ノ島)・中津宮(大島)・辺津宮(九州本土)の三宮に鎮まりました。(以下略)
とある。

 ここにいう神勅とは、書紀6段・一書1に
  「乃以日神所生三女神 令於筑紫洲 因教之曰 
   『汝三神 宜降居道中 奉天孫 而為天孫祭』也」
とあるのを指し(古事記には無し)、当社では三宮ともに、その拝殿の奥に右の神額が掲げられている。

 その読みについて、
 ・前段--乃ち日神の生(マ)せる三柱の女神を以て 筑紫州(ツクシノクニ)に天降りまさしむ 因りて教へて曰(ノタマ)はく
 ・後段前半--汝ら三柱の神よ 宜しく 道の中に降り居まして 天孫を助け奉(タテマツ)りて
までは異論はないが(岩波文庫版による)、後段末尾については、従来から
 ①天孫に祭(イツ)かれよ
 ②天孫の為に祭かれよ
との2っの読みがあり、

 当社では、「汝三神 宜しく道中に降居して 天孫を助け奉りて 天孫に祭かれよ」と読んで、
  「大陸との交通の要所である玄界灘に降臨して歴代天皇を守護奉り、歴代の天皇から篤い祭祀をうけよ」との意である、という(神宝館掲示説明板)。 
 
神勅の額

 この読みについて、西郷信綱はその著・古事記注釈(2005・ちくま学芸文庫版)
 ・而為天孫所祭とは、「天孫に祭られよ」と訓むのがよく、「天孫のために・・・」と訓むのはまずいと思う
 ・“為”は“于”・“於”と同じで、例えば「毎年為八岐大蛇呑」を“八岐大蛇に呑まる”と訓むのに準ずべきで
 ・解釈が混乱するのは、「天孫のために・・・」と訓むせいである
 ・最後の“所祭”の訓みは、イツカレヨではなく、マツラレヨであって、宮廷の祭る所となれと解したい
 ・そうだとすれば、沖ノ島の遺品が宮廷からの献物である、ということが文献状からもほぼ見透せることになる
として①の読みとすべきだという。

 この解釈について一介の素人が云々はできないが、個人的には、神勅が天降る三女神への命令であることからみて、②の“天孫を助け、天孫の為に祭をおこなえ”と解するほうが素直な訓みかと思われる。

 宗像大社は、この神勅により天降った宗像三女神を祀る神社として創建されたというが、それは神話上での話であって、これを以て当社創建由緒とするには疑問がある。


 宗像信仰を神話から離れてみるとき、その原点は、古来から神ノ島と呼ばれてきた沖ノ島に残る古代祭祀遺跡に求めることができる。
 資料によれば、沖ノ島の祭祀遺跡は4世紀後半頃から9世紀にかけて続いた遺跡で、その祭祀形態から大きく4形態、
  Ⅰ期・岩上祭祀(4世紀後半~5世紀) →Ⅱ期・岩陰祭祀(5世紀後半~7世紀)
     →Ⅲ期・半岩陰・半露天祭祀(7世紀後半~8世紀前半) →Ⅳ期・露天祭祀(8世紀から9世紀末)
と推移したといわれ、そこでの祭祀は社殿を設けてのそれではなく、岩上・岩陰・露天での磐境(イワサカ、巨石・巨樹・山などの自然物を神の依代として行われた神マツリの場)を中心とした祭祀であったという(沖津宮社殿の造営は江戸中期・17世紀という)

 九州北部から朝鮮半島へ至る海路の中程に位置する沖ノ島は、半島航路を往き来する海人にとっては、航路を指し示す指標であるとともに、航行安全の守護神が坐す島として崇拝の対象であって、それが宗像信仰の原点といえる。

 辺津宮・中津宮の創建時期を示す確実な史料はないが、
 “むなかた電子博物館紀要・第4号”所載の“中世の宗像神社と鎮国寺”(2012・花田勝広)には、辺津宮周辺の考古学的調査や中世の資料・絵図面等を検討した結果として、
 ・飛鳥時代以前(6世紀)には現在のような社殿はなく、現辺津宮の南西にある高宮(下高宮祭祀遺跡、現高宮祭場)の辺りで沖ノ島での祭祀と同じような磐境(イワサカ)祭祀がおこなわれたと思われ
 ・沖ノ島での祭祀が恒常的でないため、通常は高宮祭祀が替わりとして機能したのではないか
 ・辺津宮の成立に関する正確な史料はないが、
   宗像社造営代々流記(鎌倉中期)--宝亀7年(776)・人皇39代光仁天皇之御宇宝亀7年(776)拜所を改築した
   宗像大菩薩縁起(鎌倉末期)--天応元年(781)・光仁天皇御宇天応元年辛酉、宗像大神から大宮司氏男に託宣が下され、驚いた氏男は己の屋敷を社壇とし、茅草を葺いて大神を奉祭した
   宗像宮創造記(室町初期)--天応2年(782)・光仁天皇の御宇 勅を以て造宮を為す
などの史料があることから、
 ・それまで高宮丘陵で奉祀されていたが、8世紀後半頃、高宮の裾・内陣の辺り(現辺津宮西南の辺り)に三神を合祀した小型の社殿が造られたと推測され、その後、現在地に九間社という大型の本殿が造営されたと思われる
とあり(大要、私見加筆)、辺津宮の創建(社殿造営)は8世紀末頃ではないかという。

 なお、中津宮がある大島について、最高峰・御嶽山山頂(H=224m、中津宮奥宮の御嶽神社あり)での遺跡調査(平成22年)によれば
 ・土師器や須恵器などの土器類とともに、人や馬・舟などを模した滑石製の形代(カタシロ)など、8世紀から9世紀にかけてと推定される祭祀遺物が多数出土し
 ・その出土遺物が沖ノ島出土の祭祀遺物(Ⅲ末~Ⅳ期)とよく似ており、特に舟方形代が出土することからみて
 ・御嶽山頂上には、沖ノ島と同じく、航行の安全を祈願する神マツリの場があり、
 ・そこは、簡単に渡島できなかった沖ノ島の遙拝所的祭場ではなかったかという。
 これら御嶽山頂上の祭祀遺跡からみて、これが大島での神マツリの始まりで、現中津宮は山頂での祭祀場を麓に下ろした里宮であって、その時期は9世紀以降かと思われるが、確たる資料はない。

 なお、本居宣長の著・古事記伝(1798)には
  「辺津宮の社田嶋村にあり。社は西北に向ひ立ちたまふ。古へは神ノ湊の東六町にあり。今も其跡を神の幸屋敷と云ひて、田嶋より半町許へだてたり。
 後深草天皇の建長年中(1249--56)、大宮司長氏の時、神の告によりて田嶋に撮し奉ると云伝ふ」
とあり、現辺津宮は13世紀中頃に海岸に近い辺りから遷ってきたというが、これの傍証となるものはない(今、幸屋敷なる地名は見当たらない)


 国史にみる宗像三神としては
 ・書紀・応神天皇41年--阿知使主(アチノオミ)等呉より筑紫に至る。時に宗像大神 工女等を乞はすこと有り。故 兄媛を以て宗像大神に奉る
 ・履中天皇5年3月--筑紫に居します三柱の神(宗像三神)、宮中に見えて言(ノタマ)はく。「何ぞ我が民を奪ひたまふ。吾 今汝に懺(ハヂ)みせむ(恥を与える)」とのたまふ。是に(シカシ) 祷(イノ)りて祠(マツ)らず
 ・雄略天皇9月春2月--凡河内直香賜(オホシカワチノスクネ カタブ)と采女を遣わして 宗像神を祠らしめたまふ
とあるが、この時代(5世紀)は高宮丘陵を中心とした磐境祭祀の時代であろう。

 その後の記録として
 ・大同元年牒(806)--宗像神 十七戸(封戸授与)
 ・承和7年(840)4月丙寅--勲八等宗像神に五位下を授く(続日本後紀)
 ・嘉祥3年(850)10月辛亥--筑前国宗像神に従五位上を授く(文徳実録)
 ・仁寿3年(852)2月辛酉--筑前国宗像神に正五位下を授く(同上)
 ・天安元年(857)10月丙寅--筑前国正四位下勲八等宗像神に正三位を授く(同上)
 ・貞観元年(859)正月27日--筑前国正三位勲八等田心姫神・湍津姫神・市杵島姫神に従二位を授く(三代実録)
 ・  同      2月30日--筑前国従二位勲八等田心姫神・湍津姫神・市杵島姫神に正二位を授く(同上)
 ・天元2年(979)2月14日--藤原純友凶乱和平の後 正一位勲一等の階に登る(符宣抄所収太政官符)
などがあり、9世紀初頭までには現在みるような宗像大社の社があったのは確かといえる。


◎祭祀氏族
*宗像氏
 一般に、当社の祭祀に携わったのは宗像氏(胸形・胸肩・宗形・宗方とも)といわれるが、それは
 ・古事記--この三柱の神は、胸形君等のもちいつく三前の大神なり
 ・書紀6段・本文--其の十握剣は是スサノオの物なり。故、此の三柱の女神は悉に爾が児なり、とのたまひて、スサノオに授けたまふ。此則ち、筑紫の胸肩君等が祭る神、是なり
との記述による。

 宗像氏とは、九州北西部・玄界灘沿岸一帯を根拠とした古代豪族で、海人(アマ)族を統括したという。
 その出自は不詳だが、新撰姓氏録には
 ・右京神別(地祇) 宗形朝臣 大神朝臣同祖 吾田片隅命の後也
 ・河内国神別(地祇) 宗形君 大国主命六世の孫・吾田片隅命の後也
とある。

 ここで宗像氏の始祖という吾田片隅命(アタノカタスミ)は記紀等には見えない神だが、先代旧事本紀に
 ・スサノオ8世の孫・阿田賀田須命 和迩君たちの祖
とある阿田賀田須命(アタノカタス)が吾田片隅命のことという。

 姓氏録に、阿田片隅命はオオクニヌシ(或はスサノオ)の子孫とあることから、宗像氏は出雲系の氏族となるが、それを傍証する史料として、古事記に
  「オオクニヌシ神、胸形の奥つ島に坐すタキリヒメ命を娶して生みし子はアジスキタカヒコネ神、妹タカツヒメ命 亦の名シタテルヒメ命・・・」
との説話がある。
 オオクニヌシには出雲以外の女神との婚姻説話が多く、これらの話は出雲の勢力がその地へ進出したことを示すともいわれるから、出雲系氏族の九州北部への進出を一概に否定はできないが、それを証する史料は見当たらず、地祇系の神別氏族には、その遠祖をオオクニヌシ(或はオオナムチ)に求めたものが多く、宗像氏もその一つとも思われる。

 これに対して、神名に“吾田”を冠することから、南部九州を根拠とした“隼人族”の流れではないかともいわれ(薩摩半島に吾田との地名があり、薩摩隼人族の本拠という)、宗像氏が九州北部を根拠とすることからみて(宗像郡の南東・鞍手郡が本貫地ともいう)、これが本来の出自かもしれない。

 古代神社の祭祀氏族は、その祭神の後裔氏族がこれにあたることが多いが(氏神社)、宗像大社の祭祀を所掌する宗像氏と祭神・宗像三女神の間に系譜上での繋がりはなく、宗像氏は当社の祭祀に携わるとはいえ、そこに祀られる宗像三女神は宗像氏の氏神ではない。
 なお、国史上での宗像氏は、書紀・天武天皇(后妃子女段)
  「次に胸形君徳善の女・尼子媛(アマコノイラツメ)を召して高市皇子を生まれた」
とあるのを初見とし、これにより天武13年(685)に宗像君は朝臣の姓を賜っている。

 これに対して、異説として、宗像氏は大海命(オオアマ)の子孫とする史料がある。
 これは、筑前国風土記逸文に宗像郡の地名説話として
  「西海道風土記に云 宗像大神 天から降り埼門山(サキトヤマ)に居られた時、青蕤(アオニ)の玉を以て奥宮の表(シルシ)とし、八坂瓊の紫玉を以て中宮の表とし、八咫鏡を以て辺宮の表とし、此の三つの表を以て御神体と成して三っの宮に納め置いて隠れ給ふた。因りて身形郡(ミノカタノコホリ)といふ。後の人改めて宗像といふ。その大海命の子孫が今の宗形朝臣等是也」
とある。
 この大海命とは記紀等には見えない神で正体は不明だが、同逸文に
  「一伝 天神の子は四柱有り、兄三柱神 弟大海命に教えて曰く・・・」
とあることから、大海命とは宗像三女神の弟神となるが、記紀等に三女神に弟神があったとの記述はなく、大海命とは三女神と宗像氏を結びつけるために創作された神であろう。

*水沼氏
 一方、書紀6段・一書3は
  「日神の生れませる三柱の女神は、葦原中国の宇佐嶋に降り居さしむ。今、海の北の道の中に在(マ)す。号けて道主貴(ミチヌシノムチ)と曰す。此筑紫の水沼君(ミヌマノキミ・ミズマノキミ)等が祭(イツキマツ)る神、是なり」
として、宗像三女神の祭祀氏族は水沼氏だという。

 水沼氏(水間とも)とは、筑後国三瀦郡(ミズマ・ミツマ、現久留米市三瀦町付近で、筑後川左岸一帯)を本貫とする古代氏族といわれ、書紀・雄略天皇10年条に
 「秋9月4日 身狭村主青(ムサノスグリアオ)等、呉の献れる二つの鵝(ガ・鵞鳥)をもて筑紫に到る。この鵝、水間君の犬に嚙(ク)はれて死ぬ。是に由りて、水間君、恐怖れ憂愁へて(畏れ憂えて)、自ら黙(モダ)あること能(アタ)はずして(黙っておれずに)、鴻(カリ・白鳥という)十羽と養鳥人(トリカソビト)を献りて罪をあがなふことを請す。天皇許したまふ」
とあることから、雄略天皇の頃(5世紀後半)に筑紫にいたことは確からしいが、その出自については
 [書紀・景行紀]
  ・次の后・襲武媛(ソノタケヒメ)は国乳別皇子(クニチワケ)・・・を生んだ、兄の国乳別皇子は水沼別の先祖である
 [先代旧事本紀・天孫本紀(物部氏系譜)
  ・饒速日命から14代・物部阿遲古連公(モノノベノアジコムラジキミ)--水間君等の祖
 [同・天皇本紀(景行天皇)
  ・景行天皇の皇子・武国凝別命(タケクニコリワケ)--筑紫水間君の祖
  ・  同       ・国背別命(クニセワケ)--水間君の祖
  ・  同       ・豊門別命(トヨトワケ)--三島水間君の祖
とあるように、大きく景行天皇系と物部氏系の2流があったようで、一書3がいう水沼氏がどの系統に属するのかは不明だが、諸資料では、物部阿遲古を水沼氏の祖とするもの(旧事本紀説)が多い。

 物部阿是古とは、継体天皇21年(527)夏に起こった筑紫国造・磐井の反乱を制圧した物部麁鹿火(アラカヒ)の弟(旧事本紀によれば従兄弟)とされる人物で、肥前国風土記・姫社(ヒメコソ郷条に
 「昔、此の川(筑後川)の西に荒ぶる神がいて、路行く人の半ばが殺されていた。祟る由を占うと『筑前の国宗像郷の人・珂是古(カゼコ)をして吾が社を祭らせよ云々』とあった。
 そこで珂是古なる人物を探し出して、神の社(姫社社)を建て、荒ぶる神(女神)を祀らせると、路行く人も殺されなくなった」(大意)
との伝承があり、この珂是古と物部阿是古は同一人という。

 水沼氏の祖が物部阿是古かどうかは不詳だが、北部九州には物部系氏族が多数居たといわれることから(○○物部と称したらしい)、水沼氏はこれら物部氏系氏族と結びつくことで大和朝廷と結びつき、宗像三女神の祭祀にかかわったものと思われる。
 (水沼氏は元々は筑紫君磐井に属していたが、その反乱に際して、早くから討伐軍である物部氏に与力することで、磐井没落後勢力を広げたともいう)

 この水沼氏と宗像氏との関係について、大和岩雄氏は、宗像三女神の祭祀権は6世紀末から7世紀前半頃に水沼氏から宗像氏へと移ったとして、
 ・雄略紀にみる水沼氏の伝承は服属伝承だから、中央政権が沖ノ島祭祀にかかわったのは雄略朝で
 ・その時期(5世紀後半)は沖ノ島の第Ⅰ期岩上祭祀から第Ⅱ期岩陰祭祀に移行する時期と略重なる
 ・宗像女神を祀る水沼氏は、筑紫君磐井の乱後、物部氏の支援をうけて三瀦郡から宗像郡へと進出し、宗像大社の祭祀に携わったが
 ・用明天皇2年(587)に物部宗本家が滅びたため、中央の後楯を失って衰頽し、代わりに鞍手郡(天正年間-1573--92以前は宗像郡に所属)を本貫とする宗像氏が7世紀初頭頃(沖ノ島祭祀Ⅲ期頃)に海岸部へ進出し、宗像大社の祭祀権を握ったのであろう、
という(大略、神社と古代王権祭祀・2009)

 なお、当社刊の「むなかたさま」との冊子(第三版・2014)には、
  「日本書紀には、このあと“一書に曰く”との注釈をつけて、三女神を祭る水沼君がまつるお宮があったと追記しています」
とある。
 しかし、宗像大社の他に三女神を祀る社があったとする資料はなく、この記述は、当社祭祀を宗像氏に一貫したい大社側の勝手読みでしかない(現地案内のガイドさんにも尋ねたが、一緒3の存在も知らないようで明確な返事はなかった)
 なお冊子は、書紀にいう「一書に曰く」を注釈というが、“一書に曰く”は本文とは異なる伝承を収録したもので、注釈・追記ではない。

※祭神
 今の祭神は
  沖津宮(オキツグウ)--田心姫命(タキリヒメ、多紀理毘女命)
  中津宮(ナカツグウ)--湍津姫命(タギツヒメ、多岐都比売命・田寸津比売命)
  辺津宮(ヘツグウ) --市杵島姫命(イチキシマヒメ・イツキシマヒメ、市寸嶋比売命、別名:瀛津島姫命-オキツシマヒメ)
となっているが(以下、神名はカタカナにて表記する)、記紀では、沖津宮・中津宮・辺津宮の順に
  古事記---タキリヒメ ・イチキシマヒメ ・タギツヒメ
  書紀本文--タキリヒメ ・タギツヒメ ・イチキシマヒメ
   同一書1及び3--イチキシマヒメ ・タギツヒメ ・タキリヒメ
   同一書2--イチキシマヒメ ・タキリヒメ ・タギツヒメ
とあるように、文献によって三女神の配置が異なっているが、記紀その他文献を検討した結果、昭和32年(1957)に現在の祭神(書紀本文に一致)に決定したという(日本の神々1・1984)

 宗像三女神とは、天の安川におけるアマテラスとスサノオの誓約(ウケヒ)によって生まれた御子で、その出自について、記紀の記述をまとめると、
 ①アマテラスがスサノオの持つ十握剣を折って噛み砕き、吹き出した狭霧の中から生まれた--古事記・書紀本文
 ②アマテラスがスサノオの持つ曲玉を噛み砕き、吹き出した息吹の中から生まれた--書紀一書2
 ③日神が自分の持つ十握剣・九握剣・八握剣を噛み砕いて生まれた--書紀一書1及び3
とあり、何れもアマテラスが己の持ち物、あるいはスサノオのそれを借りて(交換して)、それを物実(モノザネ・物事の元となるもの)として生まれたのが宗像三女神だという。

 宗像三女神の神格にかかわって、書紀一書3に、
  「三柱の女神を葦原中国の宇佐嶋に降らされた。今、北の海路(海北道中)の中においでになる。名づけて道主貴(ミチヌシノムチ)という」
とある。
 道主貴とは“道に坐す貴い神”ということで、当地では“九州北部から朝鮮半島に至る海路の途中・海北道中に坐して航海の安全を守護される貴い神”となり、朝鮮半島へ至る海路の中程にある沖の島に坐す神を指す。

 この道主貴と呼ばれる宗像三女神について、折口信夫は
  「海北の道主貴と総称される宗像三女神は実は神ではなかった。神に近い女、神として生きている神女なる巫女であった」
といい(水の女・1927)
 大和岩雄は
  「巫女・神女とは斎姫(イツキヒメ)のことで、イチキシマヒメの“イチキ(イツキ)”は“斎”(イツキ)である。
  記紀では、イチキシマヒメを書によって沖津宮(書紀一書1・2・3)・中津宮(古事記)・辺津宮(書紀本文)それぞれの祭神としていることからも、宗像三女神は海北道中の沖の島(斎島・イツキシマ)で神祀りをする巫女(イツキ姫)が神格化され、三つの宮に割り当てられたものと考えられる。
 イツキ島(斎島=沖の島)の本来の神は道主貴であり、その神を祀るイツキ姫が神になったのである」
という(神社と古代王権祭祀・2009)
 宗像三女神の原点が神を祀る巫女というのは、神勅にいう“為天孫所祭”(天孫のために神マツリをなせ)の趣旨に通ずるといえる。


 上記したように、宗像三女神はアマテラスの神勅をうけて筑紫国に天降ったという(一書1)が、一書3には、三女神は先ず宇佐嶋に天降り、そこから海北道中の沖ノ島に遷ったという(上記)

 ここでいう宇佐嶋については諸説があるが、大分県東國東郡(国東半島)の北にある姫島とする説が有力で、この島が瀬戸内海から周防灘を通って朝鮮半島へ至る航路の要衝に位置することから、道主貴である宗像三神が天降った地とみてもおかしくはなく、宗像三女神は先ず豊前の姫島に天降り、その後、海北道中に遷ったというのも一概に否定はできないという(大和岩雄・前掲書)

 また、筑前国風土記(逸文)・宗像郡の項に
  「宗像大神が埼門山に天降ったとき、二つの玉と鏡を表(シルシ・御神体)として奥宮・中宮・辺宮に納め置いて、自らもお隠れになった。故に身形(ミノカタ)の郡といい、後の人は改めて宗像という」(大要・全文は上記)
との説話があり、
 また、宗像大菩薩御縁起(三所大菩薩最初御影向地事条)にも、
  「(宗像大神は)室貴六嶽(室木の六ヶ嶽)に御著(着の誤記か)あり、即ち神興村(カミコウノムラ)に著玉ひ、此の村に於いて初めて神威を輝かせり。故に神興村と号する也。 其の後三所の霊地に御遷座有り」
とある。
 ここでいう埼門山・室貴六嶽とは、辺津宮の南東方・鞍手郡鞍手町室木(16世紀までは宗像郡に所属)にある六ヶ嶽(ムツガタケ・H=339m)を指すという。

 因みに、六ヶ嶽は沖津宮・中津宮・辺津宮を結ぶ線を逆(南東方)に延ばした線上近くに位置し、その山上にある六ヶ嶽神社(祭神:宗像三女神)の社殿は宗像大社の方角を向き、その由緒には
  「宗像三女神は最初に六ヶ岳に降臨し、孝霊天皇(第7代)のとき宗像三所に遷座され、宗像大神となった」
とある(ネット資料)
 また、鞍手町誌(1974)にも
  鞍手神話は六ヶ岳神話といってもよい。私たちの先祖は六ヶ岳に宗像の女神が天降ったと考えていた
  山麓の六嶽神社の祭神はもちろん三女神である。土地の人は三柱様とよんでいる
  筑前国風土記逸文には『宗形の大神、天より降りて崎戸山に居まししとき・・・』とある。崎戸山(埼門山)は六ヶ岳のことである
  宗像神社末社記には前戸神社とある。室木は天正(1573--92)の田畠指出帳までは宗像郡に入れり
とあるという(むなかた電子博物館紀要第2号・2014)

 宗像三女神は最初から宗像の地に天降ったというが、一旦、宇佐嶋あるいは六ヶ岳に天降った後 現在地に遷ったという伝承があることを無視することはできない。

 今回の旅で参詣した辺津宮・中津宮については、別稿・辺津宮、別稿・中津宮に記す。

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