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熊野/那智・妙法山阿弥陀寺

所在地−−和歌山県東牟婁郡那智勝浦町南平野
本尊−−阿弥陀如来
宗派−−真言宗高野山派

2007.10.23参詣

 熊野・那智大社の南25町(約3q弱)、那智三峰のひとつ妙法山(標高740m)の山頂近くにある。弘法大師修行の地と伝え、真言宗に属する。かつて女人禁制だった高野山と違って、女人を受け入れたため「女人高野」とも呼ばれた。

 今ほとんどの人は、寺のすく下まで通っている那智スカイライン(無料)を車で往来しているらしいが、熊野巡礼最後の霊地ということで山道を歩く。片道・約1時間半。
 那智・青岸渡寺の鐘堂横から入る参詣路(これも熊野古道の一部)は、鬱蒼たる山林の中を細い山道が続き厳しい。那智・大門坂は昔の苔生した古道という面影をなくしているが、ここの山道は訪れる人も少ないためか苔生した石畳・石段が続く。半分以上が自然石による石段路で、途中に古い道標・町石(ちょうせき)が残る。
 風もほとんど通らす、途中に休む所もなく、ひたすら歩くだけ。中近世はもっと厳しかったと思えるが、その難路を浄土を求めてひたすら歩いたであろう、古人の熊野詣を偲ばせる山道である。

妙法山阿弥陀寺−山道 妙法山阿弥陀寺−山道 妙法山阿弥陀寺−山道 妙法山阿弥陀寺−古道標
妙法山への参詣路(熊野古道の一部) 「古い道標」
左:妙法山頂、
右:大雲取駆け抜け路とある
妙法山阿弥陀寺−経路図 那智・妙法山参詣路略図
 @〜B:往路
 C〜E〜@:復路

※阿弥陀寺
 縁起によれば、
 『大宝3年(703)、唐・天台山の蓮寂上人がこの地に渡来して心仏不二の妙法を感得した。そこで妙法蓮華経を筆写して今の奥の院の地に埋め、立木に釈迦如来像を彫って安置したため、妙法山と呼ばれた。その後、弘仁6年(815)弘法大師が熊野行脚の折、山頂で真言の秘法を修されたところ、群霊が集まってきて一本のシキミを供えた。これが当山を一名・樒山(しきみざん)と称する由縁である。そこで大師は、山腹に一宇を創建し阿弥陀如来像を安置し、万霊回向の道場とされたので「阿弥陀寺」と称した』
とあるが、これはひとつの伝承と受け止めるべきであろう。

  入手した資料から勘案すれば、妙法山とは法華経信仰からきたもので、平安の頃、法華経を信じる法華経行者・優婆塞(うばそく、在家の信者)らが集まる修行の場だったところ(その残滓が「奥の院」)へ、中世になって浄土信仰が入り、阿弥陀如来を本尊とする阿弥陀寺が建立されたというのが事実らしい。ただ鎌倉初期に法燈国師(1207〜98)再興ともいうから、それ以前からあったと思われるが、寡聞にして詳細不詳。

 那智信仰の本流は熊野権現信仰であり、また観音の補陀洛浄土にもたとえられているが、そのなかにあって妙法山は寺伝に
 『当山は貴賤男女を選ばず、骸骨を我山に納め、卒塔婆を建立し、石塔を立て、念仏修善して無常菩提を祈る。是れ諸仏久世の道場なり』
というように阿弥陀信仰(死者信仰)を本旨とする寺院であり、海の浄土を目指す補陀洛山寺に対して、山の浄土=死者の山ともいえる。

 今、多くの人は西国三十三番第一番札所としての青岸渡寺には来るものの、番外別院である当寺にまで足を伸ばす人はないし、こんな寺があることすら知られていない。しかし、かつての巡礼者は当寺まで足を伸ばし、
 『熊野路を ものうき旅と思ふなよ 死出の山路で 思ひ知らせん』
とのご詠歌を詠い、来世安穏を祈ったという。

妙法山阿弥陀寺−参道
阿弥陀寺・参道
妙法山阿弥陀寺−本堂
阿弥陀寺・本堂

◎妙法山の梵鐘
 阿弥陀寺山門を入るとすぐ左に鐘楼がある。世にいう「妙法山のひとつ鐘」で「無限の鐘」ともいう。紀伊国続風土記には
 『亡者の熊野参りといふ事を伝へて、人死するときは幽魂必ず当山に参詣するといふ。いと妖しき事なれど、眼前に見し人もあり』
とあり、俗信では
 『人が死ぬとき、枕飯三合が炊ける間に、死者は枕もとのシキミの枝を杖として熊野の妙法山に詣でて、この鐘をひとつだけ小さく撞いてから冥土への道をたどる。故に、この鐘は人なきに鳴る』
という。 ご詠歌の
 『空海の教えの路は ひとつかね 弥陀の浄土へ ともに南無阿弥』
にいう“ひとつ鐘”である。

 鐘楼の傍らにサクラの古木がある。桜の美しさをたたえて、ある作家は
 『桜の下には死者が埋まっている』
といったが、この桜は、冥土へ向かう多くの死者達を見送ったことであろう。
 今の鐘には「延宝3年3月』の銘が入っている(1675、4代将軍家綱の頃)

妙法山阿弥陀寺−鐘楼
鐘楼
妙法山阿弥陀寺−ひとつ鐘
妙法山のひとつ鐘

 なお枕飯とは、死後すぐの死者の枕もとに供える飯をいう。各地に、死者は死後すくに善光寺をお詣りして帰ってくるとの俗信があり、枕飯は、その時の弁当だという。
 枕飯には、通常の竈ではなく臨時に屋外に作った竈で炊くなど禁忌作法が多く、一椀に盛られた高盛りの飯に箸を一本挿すのが通例という。
 日常生活で、一膳飯・高盛飯・一本箸を不吉として忌むのはここから来ているという。 

◎応照上人火生三昧跡(おうしょうしょうにん かしょうさんまいあと)
 本堂脇の林中に方2mほどの石の囲いがあり、傍らに宝篋印塔2基が並び、『応照上人の火生三昧跡』といわれる。火生とは、生きながら己の身を焼き浄土へ往生しようとする行為・焚(焼)身自殺で、火定三昧(かじょうさんまい)ともいう。

 「法華験記」(法華経行者の善事をまとめた著書、作者不明だが叡山の一僧という、平安末期)には、
 『熊野那智山の沙門応照は、仏道の究極をきわめんとして山林樹下に住し、人事雑事を避け、法華経を繰りかえし読んでいたが、読むごとに、薬王品にいう「喜見菩薩(薬王菩薩ともいう)が己の身を灼いた」ことに感銘随喜し、遂に自分も菩薩の如く焚身して仏に供養せんと思い立ち、五穀・塩・甘味を断ち、松葉を噛んで食事とし、雨水を呑み、心身共に清浄に保って焚身に備えた。焚身に際して、紙衣を着、香炉を持ち、薪上に結跏趺坐し、西方を臨んで「この身をもって法華経に供養し、頭は上方の諸仏に供養し、足は下方の世尊に捧げ奉る、云々』と唱え、口に法華経を誦し、心には三宝を念じて火を付けた。
 やがて身体は燃え上がったが、いつまでも経を誦する声は絶えず、乱れることがなかった。立ちのぼる煙は沈壇を焼くような芳香を発し、吹く風は妙なる音楽のようであった。灰となった後も余光が残り、その光で山野は明るく輝き、名も知らぬ珍鳥が数百羽集まり、鈴のような声でさえずりながらあたりを飛び回った。これが日本最初の焼身である』(大意)
とある。

 ベトナム戦争のとき一僧侶が焼身自殺をおこない世界に衝撃が走ったが、あれは抗議のための自殺であった。対して応照のそれは、生身のわが身を一本の蝋燭・聖火と替え、心身共に仏に捧げ尽くす行為であり、それは、己一身の浄土往生を図るというより、一切衆生の罪過を償おうとする利他行でもある。

妙法山阿弥陀寺−火生三昧跡
火生三昧跡
妙法山阿弥陀寺−火生三昧跡・拡大
同・拡大
妙法山阿弥陀寺−火生三昧跡・花
火生跡一帯には
青い花が咲いていた

◎大師堂
 本堂裏手の谷を下った処に『大師堂』がある。杉の大樹と シキミの樹林に囲まれて薄暗いが静謐な雰囲気がただよっている。
 堂内には弘法大師42才の像が安置され、“厄除け大師”として信仰されているという。42才は男の厄年とされるからであろう。ただ、弘法大師の年譜には、大師が熊野に入ったという記述はない。
 各地の寺院に「弘法大師が滞在されて云々」という伝承があるが、それに類するものであろう。大師堂の傍らに六地蔵が並び、坂の下には籠堂(こもりどう)が建っている。。

妙法山阿弥陀寺−大師堂1 妙法山阿弥陀寺−大師堂2
妙法山阿弥陀寺−六地蔵
坂道と籠堂 大師堂 六地蔵

◎奥の院
 奥の院へは大師堂への坂道手前から右に入る。入口に立つ苔生した石碑には「従是奥の院 八丁」とあり、少し行った先で釈迦如来が迎えてくれる。奥の院本尊・釈迦如来に因むものだろうが、地元篤志家による建立という。

 奥の院への山道は、往路からみて山を越えた手反対側に位置する。往路のような厳しい石段は少ない(奥の院の前後には急な石段あり)ものの、起伏の多い杣道には石塊と木の根が多く、つまずかないよう足許を見て歩くだけで周りの風景を見回す余裕はない。
 途中に見晴台があり、“富士山最遠望地点”(標高320m)とある。極寒期には運がよければ遠く富士山が見えるという。 

 『奥の院』は妙法山の最高峰・樒山最勝峰の頂きにある。よじ登るともいえるような急に石段を登った、猫の額のような狭い平地に建つ小さなお堂である。
 堂内には小祠が安置され、木彫りの仏像が納められている。胸の前で合掌した姿で、白木の木目が綺麗な縞模様を呈している。縁起にいう「蓮寂上人手彫りの釈迦如来像」であろうが、立木から彫りだしたという伝承が納得できるような、素朴な像である。

妙法山阿弥陀寺−奥の院道標 妙法山阿弥陀寺−奥の院本堂 妙法山阿弥陀寺−立木仏
奥の院への入口に立つ道標 奥の院・本堂 伝・立木仏

 今、奥の院には誰もいないし、訪れる人もなさそうだが、かつての巡礼者は、ご詠歌
 『ここも旅 またゆく先も旅なれや 鳥は池辺の木に宿る 魚は月下の波にふす 人はなさけの袖の下 我には宿る家もなし いづくの土に 我やなるらん』
を唱え、“極楽行きの血脈(けつみゃく)”のお札をうけて、大雲取越の難路を辿ったという。

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