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河内(大縣郡)の式内社/天湯川田神社
大阪府柏原市高井田
祭神--天湯川桁命・天児屋根命・天日霊貴命

 延喜式神名帳に、『河内国大縣郡 天湯川田神社』とある式内社。社名は“アマノユカワタ”と訓む。

 JR関西線(大和路線)・高井田駅の西約600m、関西線と近鉄大阪線にはさまれた小丘(高井田公園)の上に鎮座する。

※由緒
 当社の創建由緒・年代等は不明だが、今、当社が鎮座している小丘上には後期古墳(方墳かがあったが、飛鳥時代末期頃に削平して鳥坂寺の塔が建造され、奈良末期には廃絶したという。
 昭和になっての塔跡の発掘調査などによると、塔が廃絶した跡地に、当社が勧請されたことが確認されるというから(柏原市史・1973)、現神社は8世紀末頃の造営遷座と思われる。
 当社の創建時期は、下記するように、当社が当地一帯に居住していた鳥取氏の氏神社とされることから、同氏の氏寺である鳥坂寺の建立とほぼ同時期に、寺に近接して創建されたとも推測され、とすれば、飛鳥末期から奈良前期頃の創建となるが、確たる時期は不明。
 また旧鎮座地についても、鳥坂寺に近接してあったと推測され、比叡の森にあったとの伝承もあるが、その場所は不明(式内社調査報告・1979)

 当社について、大阪府全志(1922)には
 「延喜式内の神社にして天湯川桁命(アマノユカワタナ)を祀れり。同命は鳥取氏の祖なれば、此の地方に住したる鳥取氏の其の祖を祀りしものならん」
とあり、鳥取氏がその祖神・アマノユカワタナ(天湯河板挙・天湯川田奈とも書く)を祀る社であることには、諸資料とも異論はない。

 社頭に掲げる案内には、
 「鎮座 人皇12代景行天皇38年9月(日本書紀)
      44代元正天皇 養老元年3月
      45代聖武天皇 天平元年3月
      49代光仁天皇 宝亀2年2月 御幸あり」
とあり、また、大阪府史蹟名勝天然記念物(1927)にも、鳥取氏の祖を祀る社との記述に続いて、
 「景行天皇18年9月勅命によりて、この地に宮柱を建て神地・神戸を定められ、元正・聖武、両帝の臨幸あり」
と、略同意の記述がある。
 しかし、景行紀には38年条の記述そのものがなく、また景行紀全体の中に当社創建を示唆するような記述はみえない。何らかの伝承があったのかもしれないが根拠不明。
 ただ、当社創建が景行朝だとすれば4世紀後半頃(推定)にあたり、鳥坂寺の発掘知見とは平仄があわない。

 また元正・聖武・光仁天皇の御幸とは、続日本紀(727)に記す
 ・元正天皇・養老元年(717)2月19日 天皇は(難波宮から)帰途につき、竹原井の仮宮に到着された。
 ・聖武天皇・天平12年(740)2月7日 天皇は難波宮に行幸された。
        (当地付近に泊まられ、その折、礼拝された智識寺・魯舎那仏の感動が、東大寺大仏造仏のきっかけとなったという)
 ・同・天平勝宝元年(749)冬10月9日 
        天皇は河内国の智識寺に行幸された。外従五位下の茨田宿禰弓束女の宅を行宮とされた。
 ・孝謙天皇・天平勝宝8年(756)2月24日 
         天皇は難波への行幸におもむき、この日は河内国に至り、智識寺の南の行宮に宿られた。
         (この時、孝謙天皇に譲位した聖武上皇及び光明皇太后が同行していたという)
 ・光仁天皇・宝亀2年(771)2月21日 天皇は(難波宮から)竜田道を通って帰路につき竹原井行宮に至った。
との行幸記録によるものらしいが(但し、年月が異なる)、そこには、難波行幸の途上、当地の辺りにあった竹原井行宮(タケハライノカリミヤ)に宿ったとはあるものの(平城から難波まで、片道、一泊二日の旅だったという)、神社を参拝したとの記事はみえない。
 ただ、孝謙天皇・天平勝宝元年(756)2月24日から28日までの一連の記事に、智識寺以下の六寺(智識・山下・大里・三宅・家原(エバラ)・鳥坂寺(トサカ)へ参拝したとあり、続いて神社への幣帛奉祀を示唆する記事があることから、当地に宿泊された天皇は、寺院(鳥坂寺)への参詣とともに神社へも参詣されたのではないかという推測に基づく伝承であろう(別稿・石神社-智識寺の項参照)

◎鳥取氏(トトリ)
 当社の祭祀氏族とされる鳥取氏は、新撰姓氏禄に
 「河内国神別(天神) 鳥取 角凝魂命(ツヌコリムスヒ)三世孫天湯河桁命之後也」
とある氏族で、当地・鳥坂郷(太平寺・安堂・高井田西部地区)および東側の鳥取郷(高井田東部・青谷地区)一帯に居住していたという。
 また、同じツヌコリムスヒ・アマノユカワタナの後裔氏族として、
 ・山城国神別(天神)鳥取連 天角己利命三世孫天湯河板挙命之後也
 ・河内国神別(神別)美努連 角凝魂命四世孫天湯川田奈命之後也
 ・和泉国神別(天神)鳥取   角凝魂命三世孫天湯河桁命之後也
などがみえ(新撰姓氏禄)、鳥取氏は河内から山城にかけて拡がっていたようで、鳥取氏関連の神社として、当社東の高井田に宿奈川田神社(白坂神社)が、八尾市内に式内・御野県主神社(上之島町南1丁目)、遠く泉南地方阪南市内に波太神社(石田)などがある。

 鳥取造(トトリノミヤツコ)という氏族名の由来について、書紀・垂仁23年条に
 「垂仁天皇の皇子・誉津別命(ホムツワケ)は、歳30になるまで物が云えなかったが、あるとき、大空を飛ぶ鵠(クグイ-白鳥の古称)を見て『あれは何か』と云った。
 これを聞いた天皇が『誰か、あの鳥を捕らえて献上せよ』と云われたので、鳥取造の祖・天湯河板挙が出雲(但馬ともいう)まで追っていって鵠を捕らえ、皇子に献上した。皇子は鵠を愛玩し、ついに物が云えるようになった。
 天皇は、アマノユカワタナを賞して鳥取造(トトリノミヤツコ)の姓を賜り、鳥取部・鳥養部・誉津部を定めた」(大意)
とある(古事記には、ヤマノベノオオタカが越国-北陸まで追いかけて捕らえ献上したが、効果はなかった。皇子が物を云えないのは出雲の大神の祟りによるもので、出雲の大神を参拝することで物が云えるようになったとある)

 また社頭の案内には、
 「当社伝説に『物言わぬ皇子』があり、鳥取県のルーツは当社である」
とあり、拝殿脇には、ホムツワケ命ににかかわる伝承を記した説明板が立っている。
(垂仁の后でホムツワケの母・サホヒメは、兄サホヒコの反乱に際して、肉親の情からやむなく兄に従い、天皇に攻めらて兄とともに亡くなった。落城の時、燃え上がる稲城の中で生まれた皇子が天皇に引き渡され、火中に生まれたことからホムチワケと名づけたという-古事記)

 柏原市史によれば、当社の旧社家・鳥取氏宅には“三尊形式の神像”が伝えられており、中央の一躰は衣冠束帯で白鳥を抱き、左右の二躰は男神・女神だという。

 古代人の感性では、白鳥(あるいは鳥)とは魂を運ぶもの、あるいは魂そのものともいう(ヤマトタケルは、死後、白鳥と化して大和へ帰っている)。そこから、この伝承は、白鳥を得ることでホムツワケ本来の魂(言霊-コトダマ-といってもいいか)が戻ってきた、為に言葉を発するようになったとも解されるが、谷川健一氏は
 「古事記によると、ホムツワケは火中から誕生したという故事にあやかった名であるという。つまり火持別(ホモチワケ)または火貴別(ホムチワケ)である。これはタタラの炉の中から出生したということではないか。そうだとすれば、鍛冶氏族の信奉する白鳥を見て、はじめて物を云うようになったという解釈も出来る」(青銅の神の足跡-1979)
として、ホムツワケ及びアマノユカワタナ(鳥取氏)と鍛冶氏族との関係を示唆している。


※祭神
 社頭に掲げる案内には、
 祭神  天湯川桁命(アマノユカワタナ)--河田明神
      天児屋根命(アメノコヤネ)---春日明神
      大日孁貴命(オオヒルメムチ)--大宮明神・天照大神と同一神
とある。

 主祭神・天湯川桁命(天湯川田奈命・天湯河板挙命)は、上記伝承にあるように鳥取氏の祖神というが、その神格について、折口信夫は
 「ユカワタナのユカワは斎河(ユカワ・禊ぎの場)で、古くは海浜又は海に通じる川の淵などにあった。そこに懸崖造りの湯河板挙(ユカハダナ)を作って、神の嫁となる処女がこの棚に住んで神の訪れを待った。いわゆるタナバタツメである。
 ユカワタナの精霊の人格化らしい人名に、天ノ湯河板挙があって、鵠を逐いながら禊ぎの水門(ミナト)を多く発見したというておる。地上の湯河を神聖化して、天上の所在と考えることも出来たからである」(水の女・1927)
という。これによると、ユカワタナは禊ぎの水辺を求めて出雲まで行ったことになる。

 これに対して谷川健一氏は、アマノユカワタナ命は鍛冶集団に関係する氏族の出身ではないかという。氏は、その著・青銅の神の足音や白鳥伝説(1986)のなかで、次のようにいう。
 ・鳥取氏の祖・アマノユカワタナの本居は和泉国日根郡鳥取郷といわれ(泉州志・1700)、河内国大県郡鳥取・鳥坂の両郷は、その子孫が居住した処ではないか、と推測される。
 ・この地に鎮座する“式内・波太神社”(阪南市石田、旧社地:同市桑畑)は、主祭神として鳥取氏の祖・角凝魂命(ツヌコリムスヒ)を祀り、摂社にアマノユカワタナ命を祀っている。
 ・垂仁紀39年条に、「皇子・五十瓊敷命(イニシキ、古事記では印色入日子命・イニシキイリヒコ)は、茅渟の菟砥の河上においでになり、鍛冶の河上という者を召して、太刀一千口を造らせた。その一千口の太刀を忍坂邑に納め、後に忍坂から移して石上神社に納めた」とあり、命が居られた茅渟の河上邑(鳥取の河上邑ともいう)は、和泉国日根郡鳥取郷(阪南市の自然田・鳥取から南・岬町の淡輪・深日・多奈川・谷川などを含む広い範囲だったという)、今の阪南市自然田の辺りという(岬町・深日の鍛治谷のあたりともいう)
 ・岬町には多奈川・谷川との地名があるが、多奈川・谷川は、この地の古名・桁川(タナガワ)の転訛であって、そこから、アマノユカワタナはこの地の人ではなかったかといわれている。
 ・和泉国の鳥取郷が一千口の剣を鍛えた場所であるからには、鳥取氏の祖・アマノユカワタナにも鍛冶師の匂いが立ちのぼる。
として、鳥取氏は製銅・製鉄など金属精錬にかかわる氏族で、その首長がアマノユカワタナとみている。

 また、鳥取氏の遠祖・角凝魂命(ツヌコリムスヒ)の“コリ”が、鏡作連の祖・石凝姥(イシコリトメ・書紀一書3)の“コリ”に通じるとして、鳥取氏は鍛冶に係わるともいう(大和岩雄氏)

 これらからみて、当社は、和泉国鳥取郷から移ってきた鳥取氏が、鍛冶・製鉄作業の守護神としてのアマノユカワタナを祀ったものといえる。
 なお、近くにも同じ鍛冶製鉄に係わる神を祀る神社として、鐸比古・鐸比売神社金山孫神社・金山孫女神社があり、また北方の恩智神社の近くから銅鐸が発見されたなど、この辺りには鍛冶関係の氏族が居住し、それぞれに守護神としての神を祀っていたと思われ、又それらに鳥取氏が何らかの形で関与していたと思われる。

※社殿等
 JR関西線と近鉄大阪線にはさまれた樹木が鬱蒼と茂る小山の南側、JR寄りに頂上に至る石段がはじまる。
 石段を登った上に鳥居が立ち、境内正面に横長の拝殿(入母屋造・間口五間・奥行二間)が、その奥、白壁に囲まれたなかに一間社流造・朱塗り・銅板葺きの本殿が鎮座する。

天湯川田神社/鳥居
天湯川田神社・鳥居
天湯川田神社/拝殿
同・拝殿
天湯川田神社/本殿
同・本殿

 境内社として、本殿右手に
 ・古野明神社(本社の母神様)--摂社
 ・山王権現社(学問の神様)--摂社
 ・平戸明神社(天皇行幸の時お祀りした神様)--末社(幣帛奉弊時の御幣を納めた祠ともいう)
があるが(いずれも小祠)、その詳細は不明。資料には若宮神社があるというが確認していない。
 社殿左手には、大きな忠霊塔(2階建堂舎)が建ち、境内には歌碑・鳥坂寺塔跡の説明板・伝承説明板などがある。

※鳥坂寺跡(トサカジアト)
 奈良時代、旧竜田道(業平道ともいう)沿いには河内六寺と総称される古寺が南北に6寺並び、その最南部にあったのが鳥坂寺で、柏原市史によれば、
 ・昭和36年(1961)、天湯川田神社境内で塔跡が発見され、翌37年の発掘調査により、塔跡の北東・近鉄線の東側から金堂跡(基壇・18×15m)が、その北から講堂跡(規模不明)が出土した、
 ・塔跡が発見された小丘は前期古墳(方墳らしい)の跡といわれ、飛鳥時代末頃、塔が建てられたとき消滅したという。塔は、地下式の塔心柱礎石をもつ塔で、その一部が拝殿下に及んでいることから、塔の廃絶後(奈良時代末頃か)、その跡に神社が勧請されたことが確認されている、
 ・出土した基壇跡の規模(方4mほど)などからみると小塔だったようだが(塔高不明)、標高44mの丘に上にあることから、かなり遠くからも望まれたであろう、
 ・鳥坂寺は、飛鳥時代末期から奈良時代末頃まで存続したようだが、金堂跡付近から瓦製鴟尾片が出土している(昭和4年-1929)ことから、盛期には金堂大棟の上に鴟尾があげられていたと推測される、
という(大意)

 今の境内には塔跡を示す痕跡はなく、その位置などはっきりしないが、境内東側に塔跡の説明板が掲げられている。また近鉄線の東側一帯は、昭和の40年頃までは田畑が拡がっていたようだが、今は殆どが住宅地と化していて、金堂・講堂跡などの判別は不能。

鳥坂寺・伽藍配置図
鳥坂寺・伽藍配置図(柏原市史より転写)
鳥坂寺・塔心礎石
同・塔心柱礎石
(説明板より転写)

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