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河内(河内郡)の式内社/枚岡神社
大阪府東大阪市出雲井町
祭神−−天児屋根命・比売御神・斎主命(經津主命)・武甕槌命
                                                          2010.03.11参詣

 延喜式神名帳に、「河内国河内郡 枚岡神社四座 並名神大 月次相嘗新嘗」とある式内社で、中世以降“河内国一の宮”として崇敬されてきた名社。

 近鉄奈良線・枚岡駅の東約200mの生駒山系西山麓に鎮座する。駅東側・2号出口を出た街角に
  『元春日平岡大社』(側面に「嘉永六年-1853-癸丑十二月吉日再建之」とある・江戸末期・ペルー来航の年)
との石標が立ち、目の前に参道への石段がある。

 石段を登り大鳥居(二の鳥居)をくぐり参道を進むと、その先の境内入口前に矛を象った石柱一対と注連柱(注連縄を張り渡した柱)が立つ。社域前を南北に流れる祓川に架かる行合橋(「おくび橋」ともいう)を渡り、石段を登って境内に入る。大正の頃までは、橋を渡った先にも大鳥居があったというが(大阪府全志・大正11-1922)、今はない。

枚岡神社/元春日の石標
元春日の石標
枚岡神社/大鳥居
枚岡神社・大鳥居(二の鳥居)
枚岡神社/矛柱と注連柱
同・矛柱と注連柱
(行合橋・石段上が境内)

※鎮座由緒
 枚岡神社略記には、当社創建にかかわる記載はないが、大阪府誌(明36・1903)には、
 「伝語によれば、其初めて祀られ給ひしは神武天皇即位前3年にして、天種子命勅を奉じて此(神津嶽・後述)の山嶺に於いて之を行い給ひ、而して此の秀麗の山嶺平夷の処に社殿を創建せしより平岡と称して社名となし、後、枚岡と改むるに至れりといふ」
とある。
 天種子(アメノタネコ)とは、書紀・神武東征のとき、勅により、神武を出迎えた宇佐国造の祖・ウサツヒコの妹・ウサツヒメを娶ったと記され、中臣氏系図ではアメノコヤネの孫(天多祢伎祢)という。

 神武天皇即位前3年云々は、当社を古く見せるための仮託だろうが、由緒では、
 「はじめ当社背後の神津嶽(カミツタケ・後述)に鎮座していたが、孝徳天皇・白雉元年(650)に中臣系氏族の平岡連が山上より現在地に移した」
とあり、飛鳥時代からの古社と推測されるが、確たる創建年次は不明。

 その後、称徳天皇・神護景雲2年(758)の奈良・春日大社創建に際して、当社祭神2座を春日大社に分祀したことから、“元春日”とも呼ばれ、更に、光仁天皇・宝亀9年(778)、勅命により春日大社からイワイヌシ(フツヌシ)・タケミカヅチを勧請したことから、延喜式(延長5年・927撰上)には祭神4座と記され、現在に至るという。
 なお大阪府誌には、「フツヌシ・タケミカヅチは共に神護景雲2年(768)香取(下総国)鹿島(常陸国)より奉還せしものにして、・・・」と記す。

 正史に見る当社祭神への神階授与の初見は、仁明天皇・承和3年(839)5月条にある、
 ・丁未 河内国河内郡従三位勲三等天児尾根命に正三位 比売神に従四位上を授け奉る−−続日本後記
とする記事で、その後順調に昇階して、最終は清和天皇・貞観元年(859)正月条の
 ・27日 河内国河内郡従一位勲三等枚岡天子屋根命に正一位、正四位上勲六等比売神に従三位−−三代実録
まで昇っている(この時、イワイヌシとタケミカヅチへの神階授与はないが、既に、春日大社の祭神として正一位が贈られていたからという)
 ただ、これらの叙階位・昇階の時期など、常に春日大社に合祀されたアメノコヤネ・ヒメ神のそれより低く、昇階時期も遅れ、藤原氏の氏神としての春日大社祭神と、傍系の中臣氏氏神との間に差があったという。

 これらからみて、当社はイワイヌシ・タケミカヅチを併祀するとはいうものの、その本質は中臣氏の祖神・アメノコヤネを祀る神社で、タケミカツチ・イワイヌシを祖神とする藤原氏による当社への公式な参拝は無かったともいう。

◎祭祀氏族
 中臣氏の本貫については諸説があるが、河内国(中河内)とするのが有力で、新撰姓氏禄(815)には河内国神別として、中臣氏系の菅生朝臣(姓氏禄「津速魂命二世孫天児屋根命之後」)以下9氏族が記されている。
 その中で、直接当社にかかわる氏族は、古史料に“平岡大神社”(続日本紀)・“平岡神”(文徳実録・三代実録)など、古くは平岡と記されていたことから、
 「平岡連 津速魂命十四世孫鯛身臣之後」(新撰姓氏禄)
とある氏族と推測され(津速魂命−ツハヤムスヒはアメノコヤネの曾祖父)、尊卑分脈が引用する藤原氏系図で鯛身臣(タイミノオミ)と同一とされる跨身臣(アトミノオミ、ツハヤムスヒ14世孫とある)の傍注に、
 「雷大臣命(イカツオミ)正説也 仲哀天皇朝廷で 大兆之道を習い亀卜之術に達す 姓・卜部を賜る」
とあることから、卜占をもって宮廷に仕えた卜部の一族が平岡連であり、彼らが祖神・アメノコヤネを齋き祀ったのが当社だという。

 中世以降は、平岡連の後裔とされる水走氏(ミズハヤ・宮司職)・鳥居氏(禰宜職)が代々祠官として奉仕したという。水走氏は多くの荘園・私領を有する河内の有力土豪として戦国時代まで続いたが、その後、衰微して平岡神社の祠官として近世まで続いたといわれ、水走氏にかかわる神社として式内・大津神社(東大阪市水走、別稿・大津神社参照)がある。

※祭神
  第一殿 天児屋根命(アメノコヤネ)
  第二殿 比売神(ヒメ)
  第三殿 斎主命(イワイヌシ=経津主命:フツヌシ)
  第四殿 武甕槌命(タケミカツチ)

 今の祭神は上記4座となっているが、本来のそれは中臣氏の祖神とされるアメノコヤネとヒメ神の2座で、併祀のイワイヌシ(=フツヌシ・下総・香取神社の神)とタケミカヅチ(常陸・鹿島神社の神)は光仁天皇・宝亀九年(778)に奈良・春日大社から迎えられたという。

 主神・アメノコヤネの出自には、興台産霊(コトドムスヒ)の子(日本書紀)・神産霊神(カミムスヒ)の子(古語拾遺)・津速魂命(ツハヤムスヒ)三世の孫(新撰姓氏禄)など諸説がある神で、天岩戸神話では祝詞を奏上し、天孫降臨ではニニギに従って天降った五部神の一とされる。
 日本書紀(一書の2)に、「アメノコヤネは神事の元締の役である。それで太占(フトマニ)の卜(ウラナイ)を役目として仕えさせた」とあるように、その後裔・中臣氏は、宮中祭祀を職掌とした有力氏族とされる。
 中臣氏は、大化改新(645)に功績のあった中臣鎌足が、天皇から藤原の姓を賜った(天智8年-669)ことから藤原氏を名乗るが、文武天皇2年(698)・鎌足の子・不比等の子孫のみが藤原姓を名乗ることを許され、それ以外は中臣氏に戻り(大中臣と称す)、政治面を藤原氏が神祇面を大中臣氏が司ったという。
 なお、アメノコヤネの“児屋根”とは“小さな屋根を葺いた建物・小屋”を意味し、その中に巫者が籠もって“卜占”をおこなったことから、その建物自体が神格化されて天児屋根命となったのではないかという。

 ヒメ神について、大阪府誌には、
 「アメノコヤネの后神・天美豆玉照比売」(アメノミズタマテルヒメ)
とあるが、大阪府全志には、
 「今はアメノコヤネの后神・アメノミズタマテルヒメというが、アマテラス大神即ちオオヒルメ尊との説あり」
と記しているように、諸説があり、その出自ははっきりしない。

 祭神の一座としてヒメ神を祀る神社は多々みられ、主神(ヒコ神)の配偶神(后神)とするのが多い。しかしヒメ神の神格は複雑で、他にも、主神の母神・地主神の娘・主神に仕える巫女神などがあり、また系譜不明とするヒメ神もあり、当社のヒメ神は系譜不明という(神道事典)。アメノコヤネの后神とするのは後世の付会で、あえて特定すれば主神・アメノコヤネに奉祀していた巫女を神格化したものと思われる。

 斎主(イワイヌシ)とは“神を祀る人”(所謂・神主)をいうが、祭政一致の時代、“戦争に際しても、神祇を祀り、軍隊の主将たる人がこれに当たる”という(書紀神代紀・岩波文庫版・脚注)
 イワイヌシをフツヌシとするのは、天つ神の葦原中国平定に際して、
 「最後まで抵抗した、天津甕星(アマツミカホシ・星の神)を征する斎主(イワイ)をする主を、“斎の大人”(イワイノウシ=斎主・イワイヌシ)といった。この神は、いま東国の香取の地に坐す」(書紀神代紀・第2の一書)
とあることから、下総国・香取神社の祭神・フツヌシを指すとされる。ここでのフツヌシは、斎主として祭祀に当たるとともに、主将としてアマツミカホシの討伐に当たった、ということであろう。
 なお、アマツミカホシを征討したのは、タケミカツチ・フツヌシ2神の命をうけた倭文神(シトリ)との伝承もある(別稿・鹿島神宮参照)

 タケミカヅチは、フツヌシとともにオオクニヌシとの国譲り交渉を成し遂げるとともに、武神として荒ぶる神々を平定したとされる神で、本来は常陸国の鹿島神社(茨城県鹿嶋市)に祀られる神である。
 今は藤原氏の氏神として奈良・春日大社に祀られているが、その原姿は鹿島地方の地主神であり、関東と東国との境界に坐す塞の神として、中臣氏に先立って関東へ進出した氏族(多氏ともいうによって奉賛されていたといわれ、それが、藤原氏の勢力をバックに関東へ進出した中臣氏の氏神へと変身したという(別項・鹿島神宮参照)
 なお、フツヌシが藤原氏の氏神とされた経緯もほぼ同じで、フツヌシは物部氏が奉斎していた神という。

 ただ、タケミカツチ・フツヌシの下総・常陸から奈良・春日大社への遷座は、両神が藤原氏の氏神へ変身した後のことで、藤原氏に連なる中臣氏が春日大社から氏神として勧請したのには、それなりの由あることといえる。

※社殿等
 参道突き当たりの注連柱をくぐり、行合橋を渡り石段を登ると境内に入る。
 正面に大きな向拝(庇)をもつ入母屋造の拝殿が、その背後、水路に囲まれて中門および透塀(西南北面)に囲まれた一段高い神域(旧本殿域)が、その奥の水路をはさんで、春日造(方一間二分)檜皮葺・朱塗りの本殿が西面して4棟、向かって右(南)から第二殿・第一殿・第三殿・第四殿の順に並ぶ。

枚岡神社/拝殿
枚岡神社・拝殿
枚岡神社/本殿
同・本殿
枚岡神社/中門
同・神域へ入る中門
(奥に4棟の本殿が並ぶ)

社殿造営及びその後の経緯について、大阪府全志(大正11・1922による)によれば、
 ・白雉元年(650)−−神津嶽より遷座
 ・宝亀9年(776)−−フツヌシ・タケミカヅチ勧請に合わせて再建
 ・天喜4年(1056)−−焼失→再建
 ・寛治元年(1087)−−焼失→再建
 ・文明9年(1477)−−足利末頃に衰微していたのを、氏子らが再建
 ・天正7年(1579)−−織田信長の兵火により焼失
 ・慶長10年(1605)−−豊臣秀頼による再建
 ・江戸期−−徳川幕府に疎んじられて衰微
 ・文政9年(1825)−−氏子の寄進により再建、現在に至る。
とある。

 秀頼による再建後の姿と思われる江戸後期の河内名所図会(1801刊)によれば、図の右上、中門と透塀に囲まれて石垣を築いた一段高いところに本殿4社が並ぶが、その前に拝殿(明治になっての造営らしい)はなく、参詣者は中門内に入って参拝している。
 図の右下に見えるのが行合橋らしく、その後ろに大鳥居が立っている。ただ橋の付近、立木の間に張られた注連縄は見えるものの、矛柱は見えない。

 当社本殿域は、何時の頃かに移動しているようで、大阪府全志(大正11-1922)には
 「拝殿の東は一段の高地をなして、玉垣は其の三面を囲み、其の東に中門あり、また一段の高地にして長方形を為し南北拾間半・東西四間弐尺、姥が池は其の四方を繞り、中門の左右より透塀が西南北の三面を囲む。
 もと神殿のある所なりしが、神殿の所在としては拝殿に近すぎ、逼迫狭小なればとてにや、神殿は其の東辺池外に移されて南より北へ並び、・・・」
とあり、名所図会に示す本殿は、その後(明治34-1901以降らしい)、背後(東)の山際に移動している。

枚岡神社/河内名所図会
河内名所図会・枚岡神社
枚岡神社/姥ヶ池
姥が池
(ここからの水が旧社殿域を繞る)

◎摂末社
 本殿右手(南側)の山裾に、遙拝所および摂社・若宮社が、すこし離れた石壇上に末社・天神地祇社が建ち、若宮社の左奥の覆屋の中に霊泉・出雲井がある。
 *遙拝所
   石で囲まれた名から樹木一本が立つ。神津嶽本宮への遙拝所か。
 *若宮社
   祭神−−天押雲根命(アメノオシクモネ・アメノコヤネの御子神)
 *天神地祇社
   祭神−−天つ神・国つ神
   諸々の神々を合祀する社で、明治5年(1872)の神社整理に際して、当社に合祀された出雲井村の八坂神社以下の13社と、境内各処にあった椿本社以下19社を合祀する。覆屋の中に小祠一社が祀られている。
 なお、今、天神地祇社の南一帯は梅園となっているが、神仏習合時には神宮寺があったという。

 *出雲井
   若宮神社の左奥の山際、覆屋の中に霊泉・出雲井がある。大小2基の円形井戸枠には木製の蓋が被せられていて、湧水の有無は不明。
 大阪府全志によれば、“出雲井は旧神殿域内にあった古井戸だが、ある時の地震で噴水が溢れ神殿を浸したため埋められた。しかし、その水脈は今も姥が池に注いでいる”とあり、位置的に現在とは異なる。

枚岡神社/遙拝所
遙拝所
枚岡神社/摂社・若宮社
摂社・若宮社
枚岡神社/末社・天神地祇社
末社・天神地祇社
枚岡神社/出雲井・覆屋
出雲井・覆屋
枚岡神社/出雲井
霊泉・出雲井

◎鉾柱
 境内入口に、先端を“矛の鋒(キッサキ)”にかたどった石柱一対が立っている。
 この矛に関係すると思われる伝承として、古語拾遺(大同2・807、斎部氏系の歴史書)国譲りの段に、
 「(高天原への帰順を決めたオオナムチが)自らが国中を平らげた矛を二柱の神に授けて、『吾はこの矛を以て国を平定した。もし、天孫がこの矛を用いて国を治められたら、必ずご平安になるだろう』と申して、自らはお隠れになった。ここに、二柱の神は、この矛を以て諸々の従わない鬼神等を討伐して、葦原中国の平定を高天原に復命した」(大意)
とある。
 この矛は、祭神・タケミカヅチとフツヌシが、オオナムチから授けられた矛をもって国を平定した、との伝承に因むものであろう。
 河内名所図会に見えず、大阪府全志(大正11)にも記載されていないことから、昭和以降の建立であろう。
枚岡神社/鉾柱

◎ご神木
 拝殿裏の左手(北側)覆屋の中に、注連縄を張ったご神木・“イブキ”(常緑樹・別名・ビャクシン)の大きな根元部分のみが残っている(H=2mほど)
 社伝によれば、神武天皇が神津嶽で当地方をご視察されたとき、お手植えされたもので、孝徳天皇の御代に当地に遷座したとき、平岡連が移植したものという。
 神武天皇お手植えとは仮構であって、本来は、山中の高木を神が依りつく神樹とする巨木信仰の名残であろう。
 今は枯れているが、以前は高さ60尺(18m)・幹廻り18尺(5.5m)の大木だったという(大阪府全志)。傍らの標示には、「天然記念物 平岡神社のびゃくしん」とある。

◎行合橋
 境内へ入る石段の前に、南から北へ細い川・祓川が流れ、『行合橋』(おくび橋)と称する石橋が架かっている。橋名の由来は不明。

 曾て、参詣者は神社参詣前に、この祓川に浸って、心身の穢れを祓う禊ぎをおこなったのであろう。
 今、社頭の小川に橋が架かっている神社が多いが、橋を渡ることで禊ぎと同じ効果が得られる、という。 

行合橋

祓川(行合橋の上流側)
 資料によれば、「秀頼参考の当時は木橋なりしが、腐朽のため明治26年改修架設し、慶長の銘ある欄干の擬宝珠は之を宝庫に蔵し(一個盗難にあったという)、現在のものは明治35年の模造にかかる」(大阪府史蹟名勝記念物・1928)とある。 

※神津嶽本宮(カミツタケ モトミヤ)
 境内に入る注連柱の少し手前から左(北)へ出て、境内北側の道を回りこみ、枚岡山中を巡る神津嶽ハイキングコースの要所に立つ“枚岡山展望台”との標示に沿って山道を登った先、展望台前を右へとった先の小高い丘(神津嶽)の上に鎮座する。
 登坂口左に“枚岡神社創祀の地 すぐ上”との木柱が立ち、立木に細い注連縄が張り渡してある。神社より約半時間。

 天種子命が始めて社を建てたとされる枚岡神社の創祀の地といわれ、丘上の狭小な平地の、玉垣に囲まれた中に石造の小祠が鎮座する(平成5年造立)
 小祠の右手に「枚岡神社創祀の地」との石碑(昭和56年建立)、および「神武即位前3年、天種子命が勅命によりアメノコヤネと姫神を祀った、云々」と由緒を略記した石碑が立つ。
 ハイキングコースを辿る人は多いが、此所に詣る人はほとんどない。ここに枚岡神社の本宮があるなど、知られていないらしい。

神津嶽と本宮入口
神津嶽と本宮への登坂口
神津嶽本宮/全景
神津嶽本宮・全景
神津嶽本宮/社殿
神津嶽本宮・社殿

※粥占(カユウラ)神事
 古社である当社には、古くからの神事・祭典が幾つも残っているが、著名なものとして『粥占神事』がある。
 粥占神事とは、小正月などに炊く粥米が、粥の中の篠竹に入った具合で、その年の作柄や豊凶を占う年占(トシウラ)の呪で、粥占に用いられた篠竹片は、春の田植えに際して田の水口に立てられ、豊作祈願の呪具とされたという。
 古来から残る、穀物の豊饒を予知・予祝する行事で、当社のみならず、古い神社などではよくおこなわれている。

 いま当社では、古来からの恒例神事として、1月11日に粥占神事が、同15日の小正月に粥占奉斎祭がおこなわれ、当社略記によれば、
 「精進潔斎した神官が新しく切り出した火をもって小豆粥を炊き、その中に占竹(篠竹)53本を縄で縛って入れる(占竹には一本一本、穀物の種類・銘柄などが記されるのが普通)。粥が炊きあがったのち、占竹を取り出して割り、小豆粥の入り方で、その年の米以下の雑穀や芋・瓜・綿などの作柄・豊作・凶作を占う。その結果は印刷して(占記)一般に配られるが、近年は、近在の農家が減少して占記を求める人は減少した。しかし神事は続けられている」(大意)
という。

 また、江戸中期の古書・物類称呼(フツルイショウコ・1775)には
 「河内国平岡の神社に卜田祭(ウラタマツリ)と云有。御粥殿に大々なる窯を据え、小豆粥をにて神供とし、五穀成就の祈念終わりて、竹を五寸ばかりに伐りて管となしたるを五十四本、それに五穀および色々の種物五十四品を書き分けて、窯の中に投じ、さて一々その管を割りて、管中に入りたる多少、或は贄の加減を見て、それぞれに何の種は十分、何の種は八分など、神主高声に吉凶をよみよる事也。
 近国の農民群集して其の卜の善悪を書付置て、神卜に任せて農事をつとむる事也。これを平岡の御粥といひ卜田祭とも云う」
とあり、当社の御粥祭は江戸時代から有名だったという(私の一宮巡詣記・大林太良2001)


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