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河内(河内郡)の式内社/石切劔箭神社

本社−−大阪府東大阪市東石切1丁目
上之社−−   同   上石切1丁目
祭神−−饒速日尊・可美真手命
                                                           2010.03.11参詣

 延喜式神名帳に、『河内国河内郡 石切劔箭神社二座』とある式内社で、東石切所在の“本社”と、その東方約1kmにある生駒山系・通称・宮山の山腹にある“上之社”(古く“上ノ神社”といった)の2社から成る。昔から鎮座地に変動はないという。
 石切剱箭は、通常はイシキリツルギヤと訓むが、イワキリツルギヤと訓む資料もある。

 大阪都心部を東西に貫く地下鉄中央線に相互乗り入れしている、近鉄けいはんな線・新石切駅の東約400m、国道308号線北側に参道入口がある。広幅員の参道を北へ入り、モダンな一の鳥居・重層の楼門(絵馬殿)を過ぎると、石切参道商店街(本社前から東へ、近鉄奈良線近くまで連なる、古くは表参道だったらしい)との交点に二の鳥居が立ち境内に入る。

 上之社へは、参道商店街を東へ抜け、近鉄奈良線のガードを潜り、案内に添ってだらだら坂を登った先に境内への石段がある。なお近鉄奈良線からだと石切駅の東南約300m。駅の西側道路を南へ、突き当たりのT字交地点を左折しガードを潜る(案内看板あり)。その先は同じ。なお、T字交差点を右折すれば、参宮商店街を通って本社に至る。

石切劔箭神社/一の鳥居
石切劔箭神社・一の鳥居
石切劔箭神社/楼門
同・楼門
石切劔箭神社/二の鳥居
同・二の鳥居


※祭神
 当社由緒では、祭神は
 「天神から十種の瑞宝(ミズタカラ)を授けられ、天磐船に乗って河内国河上の哮峰(イカルガノミネ)に天降った饒速日命(ニギハヤヒ)と、その御子・可美真手命(ウマシマテ)の2柱」
とするが、ニギハヤヒ・ウマシマテの神名・神格・系譜など、古事記(712)・日本書紀(720)・先代旧事本紀(9世紀後半・物部系史書)とで少しずつ異なる。
 略記すれば(いずれも大意)
 *古事記・神武天皇条
  ニギハヤヒが、神武のもとに赴いて、「天つ神の御子が天降られたと聞いて、あとを追って降ってきました」と申して、天つ神の子である証の宝物を奉って仕えた。
  ニギハヤヒ命が、トミピコ(ナガスネヒコ)の妹・トミヤヒメを娶って生んだ子が宇麻志麻遅命(ウマシマジ)で、ウマシマジは物部連・穂積臣らの祖先である。

 *日本書紀・神武天皇即位前紀
  ナガスネヒコ(神武の大和入りを阻んだ土豪)が使いを送って、天皇に「昔、天神の御子が天磐船に乗って天降られた。櫛玉饒速日命(クシタマニギハヤヒ)という。命が、我が妹・ミカキヤヒメを娶って生まれた御子をウマシマテ命という。・・・」と告げた。
  ニギハヤヒは、天皇に抵抗するナガスネヒコを討って、天皇に帰順した。天皇はニギハヤヒが天から下った天孫であることが分かり、これを寵愛された。これが物部氏の先祖である。

 *先代旧事本紀
  アマテラスは御子・アメノオシホミミ尊の御子・天照国照彦火明櫛玉饒速日尊(アマテルクニテルヒコホアカリクシタマニギハヤヒのミコト)に、天孫の爾である瑞宝を授けて葦原中国に天降らせた。
  ニギハヤヒは、天磐船に乗って河内国の河上の哮峰(イカルガノミネ)に天降り、さらに大和国の鳥見(登美・トミ)の白山に遷った。
  尊と鳥見の豪族・ナガスネヒコの妹・ミカシキヤヒメとの間に御子・ウマシマジ命(又の名:ウマシマデ、ウマシマミ)が生まれたが、尊自身はその誕生前に死んでしまわれた。
  御子・ウマシマジは、神武天皇に抵抗する舅・ナガスネヒコに従わず、これを殺し、衆を率いて帰順した。天皇は、その忠誠を喜び、神剣・フツノミタマの剣を与えられた。
  ウマシマジは、父ニギハヤヒから受け継いだ天爾瑞宝十種を天皇に奉り、天物部を率いて逆賊を斬り従え海内を平定した。
となるが、

 記紀と旧事本紀とでは次の点が異なる。
 *ニギハヤヒの出自について、記紀では天神とはするものの皇統譜には出てこないが、旧事本紀ではアマテラス直系の皇孫とする(記紀にいう皇孫ニニギ尊は出てこない)
 *天孫降臨の主体を、記紀にいうニニギ尊ではなく、旧事本紀ではニギハヤヒとする。
 *神武に抵抗するナガスネヒコを討ったのは、書紀ではニギハヤヒとするが、旧事本紀では御子・ウマシマジとする。
 *物部氏の祖を、書紀はニギハヤヒとするが、古事記・旧事本紀ではウマシマジとする。

 なお、式内社調査報告(1979)によれば、河内国式神私考(刊行時期不明)には、
 「伊耶那岐命伊都之尾羽根之命(古事記では伊都之尾羽張・イツノオハバリ)・迦具土神磐裂根裂之神(イワサク ネサク)
とあるという。
 ここにいうイツノオハバリとは、イザナギがイザナミ逝去の原因となったカグツチを斬った剣(十拳剱)の別名で、イワサク・ネサクとは斬られたカグツチの血から生まれた神をいう。当社社名の“剣”に因む神名であろうが、イザナギあるいはカグツチと当社との関係はみえず、祭神をイツノオハバリなどとするのは疑問。。

◎祭祀氏族
 当社の神職は、代々物部氏の支族・穂積氏の後裔である木積氏が務めてきたという(今の神職は不明)
 穂積氏は、古事記・孝元天皇条に、
 「天皇 穂積臣等の祖内色許男命(ウツシコヲ)の妹、内色許売命(ウツシコメ)を娶して云々」
とあるのが初見(孝元の死後、開化に再嫁して崇神を生んだという)で、新撰姓氏禄・左京神別条に
 「天孫 穂積朝臣 石上同祖 神饒速日命五世孫伊香色雄命之後也」
 「天孫 穂積臣 伊香色雄男大水口宿禰之後也」
とある物部氏系の有力支族で(但し、河内国にはみえない)、穂積から功積へ経て木積に改めたという。

 当社は、現八尾市(旧若江郡・渋川郡)を中心として分布する物部系神社の一つであることから、当然のことながら祭神・鎮座由緒ともに旧事本紀を基としている。
 社名・劔箭は“石をも切り、また貫くの意味で、武人物部氏との関係を語るものだろう”だというが(式内社の研究・1977)、劔箭の“劔”は、遠祖・ウマシマテが神武から賜ったとされる神剣・フツノミタマに、“箭”はニギハヤヒが神武に示した天つ神の子の証・天羽羽矢(アマノハハヤ・蛇の呪力を負った矢)に因むものとも考えられる。

※鎮座由緒
 当社参詣の栞によれば、
 「鎮座由緒は、足利時代末(14世紀初頭か)に兵火にかかり、社殿および宝庫が悉く焼失したので詳らかではない。・・・
  当社社家の祖先・藤原行春(木積行春)が口伝をまとめた“遺書伝来記”(天文5年・1536)によれば、
  『神武天皇紀元2年、現生駒山中の宮山にニギハヤヒ尊を奉斎申しあげたのをもって神社の起源とし、
   崇神天皇の御代になって“下の社(現本社)”にウマシマテ命が祀られた』とある」(大意)
というが、これは当社の創建を古くするための仮構であって、これを窺わせる史料はない。
 ただ、崇神天皇云々は、崇神紀6年条に記す「国中に疫病が流行ったとき、オオタタネコにオオモノヌシを祀らせ、ナガオイチにオオクニタマを祀らせ、別に八百万の群神を祀った」との伝承を念頭においた仮託とも思われる。

 なお、当社ではニギハヤヒが天降った河内の哮峰を上の社背後の宮山とするが、哮峰の比定地は生駒山頂以下山中の各処にあり、定説はない。ただ、本社・上の社(宮山)を結んだ線を延ばすと生駒山頂に至ることから、ニギハヤヒ降臨の地とされる生駒山頂を遙拝する聖地である宮山が当社創建の地とされたのではないか、ともいう。
 今、宮山は当社の飛地境内地とされているが、この地からは古代土器が出土し、近世までは灯籠・手水鉢などがあったと伝わることから、古くは磐座か小祠があったと推定されている。古く、私有地だったものを、昭和37年に当社発祥の聖地として買い戻されたという(式内社調査報告)

 当社への神階授与記事はほとんどみえないが、唯一、三代実録(901)・清和天皇・貞観7年(864)9月条にある「河内国正六位上石剱神等並授従五位下」がそれだという(大阪府史蹟名勝天然記念物・1979)。ここにいう石剱神が当社祭神を指すとすれば、遅くとも9世紀半ば以前には鎮座していたことになるが、違うという説(式内社調査報告)もありはっきりしない。

 今、本社・上の社ともにニギハヤヒ・ウマシマジの2座を祀るが、曾ては上の社にニギハヤヒ、下社(本社)にウマシマジが祀られいたという。
 また明治5年(1872)、上の社を本社に合祀、同13年(1880)分離したが、同40年(1907)に再び合祀され跡地には記念碑が建てられたという。昭和47年(1972)、上の社再興を願う氏子の声をうけて跡地に上之宮を再建し、現在に至る。

 なお何時の頃からか(多分、江戸時代の何時かであろう)、上の社にゴズテンノウを合祀し、氏子間では“天王さん”として崇敬されたというが(式内社調査報告)、明治初年の神仏分離によって排除され、今、その痕跡はない。江戸時代、ゴズテンノウは疫病除けの流行神として各地に祀られているが、当社もそのひとつであろう。

※社殿等
【本社】

 境内には、正面の本社殿を中心として摂末社他幾つかの建物が無秩序に密集しており、通常の神社にみる清々しさはないが、そこがデンボの神として庶民の信仰を集める基かもしれない。

◎本殿・拝殿
 境内正面に唐風破風を有する拝殿が、その奥に本殿が建つ。現社殿は昭和7年(1932)造営になるもので、その規模は明治時代と同じという。
 ・本殿−−桁行二間一尺・梁行二間二尺、今、流造の覆屋の中に収まっていて、はっきりみえない。
 ・拝殿−−桁行七間半・梁行三間(式内社調査報告)

 拝殿左前に、ご神木である樟の大樹(H≒20m・天然記念物)が繁っている。
石切劔箭神社/境内案内図
石切劔箭神社/拝殿
石切劔箭神社・拝殿
石切劔箭神社/本殿
同・本殿

◎摂末社
 ・五社明神社−−摂社
  境内の右手すぐに建つ小祠。
  祭神−−恵比須大神・大国主大神・住吉大神・稲荷大神・八幡大神
        ただし、明治時代の古書には、アマテラス・ホムタワケ(応神天皇)・住吉四神・春日四神とあるという(式内社調査報告)
  社頭には朱色の鳥居と稲荷大明神の幟が並び、社殿左右に陶製の狐が坐しており、五社明神というより現世利益・商売繁昌の稲荷社の色彩が強い。

 ・神武社−−末社
  五社明神社の北に並ぶ小祠。
  祭神−−神倭磐余彦命(神武天皇)
  社頭の案内には、
  「神武天皇が蹴上げた石を御霊代として祀る。この石は、御東征のみぎり、高天原の神々に武運を祈り蹴上げた、と伝わる」
とあり、通称・“神武の蹴上げ石”という。
 大阪府全志(1903)には、
 「神武東征のとき、神武は生駒山を越えて大和へ入ろうとしたが、ナガスネヒコとの戦いに利あらずして此の地まで退き、諸神を祀って、『我が、賊を滅して大和に入れるのであれば、此の石は抜けるであろう』と宣言して、足をもって石を蹴上げたところ、石は軽々と飛び上がった。もと神社の東南にあったが、後に此所に移した」(大意)
とある。神武が大和進出についてのウケヒをおこなったということだが、この伝承の出所は不明。なおウケヒ(宇気比・誓約・祈・誓)とは、物事を行うに際して、あらかじめ“こうなったら結果はこうなる”(ここでは石が上がったら大和へ入れる)と宣言して事を行い、その結果で事の吉凶・成否を占うことをいう。

 ・水神社−−末社
  境内の左手に祀られている小祠。
  祭神−−罔象女神(ミズハノメ)・天水分神(アメノミクマリ)−−いずれも水神で、小さな池中に建つ小祠に祀られている。

 ・乾明神社−−末社
  本殿背後の左手にあるというが、確認不能。
  祭神−−應ヨウ乾幸護大明神(オウヨウ イヌイサチモリ)
  この神の神格不明。本殿の乾(西北)方に鎮座し、乾幸護(イヌイサチモリ)を名乗ることからみて、乾方の守護神か。

石切劔箭神社/摂社・五社明神社
摂社・五社明神社
石切劔箭神社/末社・神武社
末社・神武社
石切劔箭神社/末社・水神社
末社・水神社

※その他の社殿
 ・穂積神霊社
  本殿背後の右手にある小祠で、社前の説明には、
  「江戸時代から明治初期まで穂積堂として世に知られ、木積一路菱水翁が寺子屋教育を行っていた処である。・・・昭和45年に焼失したが、祀られていた神霊を欅の古木と共にご神体として、昭和47年病魔退散・災害除け学問向上・開運の神として祭祀したもの」
とある。式内社調査報告に、「穂積神社 祭神:木積氏祖霊」とあるのがこれに当たると思われ、祭祀氏族である木積氏(穂積氏)の祖霊すなわち水大口宿禰を祀った社であろう。
 当社におけるこの社の格付けは不明。末社であろうか。
 ・一願成霊尊
  本殿裏の壁の一画に納められている小祠だが、祭神・由緒など不明。社名からして、一つの願だけを祈れば成就してくれる神といったところか。中には石一個が収められている。格付け不明。

 その他、本殿背後に“穂積地蔵尊”、境内左隅に“御神火祭場”があり、境内には神輿殿他の堂舎が建て込んでいる。

※デンボの神
 当社は、江戸時代から“デンボ”所謂腫物などの化膿疾患に霊験がある神として広く信徒を集めているが、その由緒など不明。
 旧事本紀にいう天神の詔、
 「もし痛むところがあれば、この十種瑞宝を一二三・・・八九十と唱えながらゆるゆると振るえ、そうすれば、死者も生きかえるであろう」
との伝承からではないかともいうが、一般庶民が、そのような難しいことを根拠として信仰したとも思えない。
 ただ、参道に建つ楼門に、
 「私は、大正7年からルイレキ(頸部にできる結核性腫瘍)に罹り手術しても完治せず、医者からも見放された。切羽詰まって、当社の石切劔箭大神に七日間の願掛けをしたところ、満願の日にルイレキが跡形もなく消えてしまった。この霊験をくださった神の感謝し、世の人々に広くお知らせする・・・」(大意・昭和36年)
との額が奉納されており、デンボの神との信仰は今もって生きているらしい。
 今、当社の社頭は、何らかの祈願のために“お百度”を踏む人々で混雑していて、悩み事をもつ人々が多いことを示している。


【上の社】
 社殿は、道路脇からの参道石段の上に鎮座する。
 当社に伝わる古書・“遺書伝来記”に、
 「神武天皇紀元2年、現生駒山中の宮山にニギハヤヒ尊を奉斎申しあげたのをもって神社の起源とし、・・・」
というように、当社の起源となる山宮だが、その創建時期は不詳。
 先述のように、明治以降、本社との間で合祀・分離を繰りかえしたが、昭和47年(1972)、氏人の要望を受けて現在地に再建され:今に至るという。

 境内中央に拝殿が、その背後の山腹・覆屋の中に本殿(桁行二間一尺・梁行二間二尺)が鎮座する。元は本殿のみだったようで、拝殿・社務所は昭和47年の新築という。 

石切劔箭神社/上の社・参道
石切劔箭神社・上の社・参道
石切劔箭神社/上の社・拝殿
同・拝殿
石切劔箭神社/上の社・本殿
同・本殿

◎石切劔箭神社上之宮趾の碑
 社殿左の山麓、簡単な石組みの上に『石切劔箭字神社上之宮趾』との石碑が立っている。
 この石碑についての資料がないため、この石碑が何を意味するのか不明。文字通りに読めば、最初に上之宮が建てられた場所ということだが、ここから背後の宮山、あるいは宮山を通して遠祖ニギハヤヒが降臨したとされる生駒山山頂を遙拝した場所かもしれない。

◎摂末社他
 社殿から左に進むと、「石切のお滝・婦道神社・登美霊社・御礼池・八代龍王社」と記した立て札が立つ。
 ・婦道神社−−摂社
  祭神−−弟橘姫命(オトタチバナヒメ)
  オトタチバナヒメは、ヤマトタケルの東国征討で、走井海(浦賀水道という)の海神が荒れて海峡を渡れなかったとき、命の身代わりとなって海に入り海神を宥めたという后だが、穂積氏忍山宿禰命の娘とされる(書紀・景行紀)ことから、当社に祀られたのだろう。
 ただ、古くからの神社ではなく、昭和48年に創建されたものという。

 ・登美霊社
  路の突き当たりに建つちょっと変わった形の建物で、中には祭壇が設えられている。信徒会館とも思われるが詳細不明

 ・八代龍王社
  境内の外・左手にある小祠。小さな池の中に祠が建つ。当社との関係は不明。

石切劔箭神社上之社趾の碑
石切劔箭神社上之社趾の碑
石切劔箭神社/上の社・摂社・婦道神社
石切劔箭神社上之社・摂社・婦道神社
石切劔箭神社/登美霊社
同・登美霊社
石切劔箭神社/上之宮・八代龍王社
同・八代龍王社

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