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河内(大縣郡)の式内社/石神社
大阪府柏原市大平寺2丁目
祭神−−石姫命・石長姫命・熊野権現
                                                       2011.04.29参詣

 延喜式神名帳に、『河内国大縣郡 石神社』とある式内社。
 石神社には“イシ神社”・“イワ(ハ)神社”・“イシガ(カ)ミノヤシロ”・“イワ(ハ)(カ)ミノヤシロ”などいろんな読み方がある。社頭には何の表示もないが、神社覈録(1870・明治初)には、「石は伊和(イワ)と訓すべし」とあり、イワ神社と読んでいる。

 蜩c国男(1875--1962)の著・石神問答(1941)によれば、
 「ずつと古い所を尋ね候へば、石神の社は延喜式の神名帳にも数座是有り候。所謂、河内高安郡 石神社(以下7社名を列記)などの神々も之有り候。此の時代には石神は音読(シャクジン)せずしてイハガミ又はイシガミと申せしことは色々証拠之れ有り候」
とあり、イハガミあるいはイシガミと読むべしとしている。河内高安郡石神社とは当社を指す。
 イワ神社とイハカミのヤシロとでは、祭神は異なるかもしれない。

 近鉄大阪線・安堂駅の北東約500m、太平寺集落の東側山麓に鎮座する。駅の東側を南北に通る国道170号線(旧東高野街道)・太平寺交差点の一つ南の角を東へ入った山麓にある。

※由緒
 境内に、祭神名・由緒などを記した案内なく、社務所も無人のため、当社の創建由緒・年代・関係氏族など、いずれも不明。

 江戸中期の古書・河内志(1733)には、
  「貞観9年(860)2月官社に預かる。(大縣郡)太平寺村に在り、今熊野と称す」
とあり、大阪府全志(1922・大正末期)には、
  「石神社は字小松原にあり、延喜式内の神社にして、祭神は宣化天皇の皇女石姫(欽明天皇の皇后)ならんといふ。清和天皇の貞観9年2月26日官社に預り給ひし旧社にして、今は熊野と称せらる。本地の産土神にして明治5年村社に列し、・・・」
とある。

 創建後の経緯としては、清和天皇・貞観9年(867)2月・官社に預かったとの記事(三代実録・901)、及び江戸時代には太平寺村の氏神として信仰され、熊野権現社と称していた、というだけで、詳細不詳。

※祭神
 今の祭神は、主祭神・石姫命、配祀・石長姫命・熊野権現というが(大阪府誌1903・大阪府全志1822)、“祭神不詳”とするもの(特選神名牒1925)、“石神”とする説(神社覈録1870)などがある(式内社調査報告・1979)

 石姫命とは、宣化天皇の皇女で欽明天皇の皇后・石姫(イシヒメ)とするのが通説だが、異説として、仁徳天皇の皇后・磐之姫(イワノヒメ・葛城襲津彦の娘)とする資料もある。
 また配祀神の石長姫命(イワナがヒメ・磐長姫)とは、皇孫・ニニギの笠沙での妻乞いに際して、オオヤマツミの娘姉妹のうち、花のように美しい妹のコノハナサクヤヒメを娶り、姉のイワナガヒメは石のような容貌だったので返されたとあり(記紀・神代紀)、ニニギがイワナガヒメを娶らなかったため天皇(人間)が短命になったとされることから、長寿の守護神とされたという。

 いずれの祭神も、当社に鎮座する特段の由縁はみえず(宣化帝・欽明帝と当地との関係不明、また石姫の母方の祖母は和邇臣出身とあるが、和邇氏と当地との関係を記す資料はみえない)、当社社名・石神社のイワ(イシ)と石姫・磐之姫・石長姫のイシ(イワ)との読みの同一性からくる付会かと思われる。

 神社覈録にいう“石神”(イシガミ)とは、一義的には“形・模様・色などに何らかの特徴のある自然石を、神の依代(ヨリシロ)・神霊が籠もるご神体”として信仰するもので、古代の磐座信仰・塞の神信仰・道祖神信仰などもまた石神信仰の一類型という(大意、日本民俗事典・1994)
 当社付近に磐座(岩石)などがあるとする資料はないが、式内社調査報告には
 「石神社という社名から考えると、自然の大きな岩盤などを神体とした古い神社であるのかもしれない」
とあり、その可能性は大きい。その場合、社名はイハカミのヤシロと読むべきであろう。

 河内志(1733・江戸中期)に、“今、熊野と称す”とあって祭神名が記されていないことからみて、この当時、既に本来の祭神名が分からなくなっていたとも考えられ、特選神名牒にいうように、“祭神不詳”というのが妥当かもしれない。

 なお、堅下村誌(大正14・1925)によれば、
 「大日本地名辞書(1907)に『大字太平寺・石神社祭神は師木津日子玉手見命(シキツヒコタマデミ)なり。・・・』とある。此の祭神説が何れより引かれしや知るを得ず、須く此に記して参考に備ふ」
とある。
 シキツヒコタマデミ命とは第3代・安寧天皇のことで、本居宣長が古事記伝で、河内国神別に“浮穴直”(ウキアナノアタヒ)があるなどの事例を引いて、「片塩浮穴宮は石川に近い処だったろう」というのが根拠らしいが、安寧天皇は所謂・欠史8代の一人として実在が疑問視されていること、実在としても、片塩浮穴宮は橿原市四条町付近とするのが通説となっていることから、浮説とみていいだろう。

 熊野権現を祀る由緒も不詳だが、平安末期から室町・鎌倉にかけて熊野詣が盛んになるにつれ、当社のすぐ西を通る旧東高野街道(現国道170号線)もまたその一経路であったと推測され、熊野詣りが隆盛だった頃に祀られたものであろう。境内右手に“熊野大権現”と刻した石燈籠(常夜燈・享保17年-1732-奉納)が立ち、熊野権現とされていたことが証される。

※社殿等
 西からの道路の突きあたりに聳える楠の巨木(大阪府指定天然記念物・1978指定)の下が境内への入口で、左に“式内 石神社”との石標が立つ。
 長い石段を登り切った処に立つ鳥居の奥、更に、急な石段を登った上、雑木に覆われた狭い境内に拝殿(割拝殿)と、その奥、白壁で囲まれた神域内に一間社流造の本殿が建つ。建造時期など不明。

石神社・社頭の大楠
石神社・社頭の大楠
石神社/鳥居
同・鳥居
石神社/拝殿
同・拝殿
石神社/拝殿内陣
同・拝殿内陣
石神社/本殿
同・本殿

※智識寺
(知識寺・チシキジ)
 境内入り口・鳥居左(社務所左横)の柵内に、
  “智識寺東塔刹柱礎石”(チシキジトウトウ サッチュウソセキ)
と称する、上面に円形の穴が開いた大石がある。
 当社の西方にあったという古代寺院・智識寺の東塔心柱礎石で、太平寺2丁目28の某氏宅地内から出土し、明治初年に当社内に移されたという。

 柏原市史(1973)によれば、礎石は長222cm×140cm(運搬時に一部打ち欠かれているという)・高62cmで、その上面の柱穴は直径122cm・深4cm(この穴の中に直径75cmの小穴−舎利を収める穴か−があるというが、水が溜まっていて確認不能)
智識寺東塔刹柱礎石
智識寺東塔刹柱礎石
 古い村絵図(1790・江戸中期)・小字名などからみて、智識寺は東西に高塔を有する薬師寺式伽藍構成の寺で、約一町四方にわたったのではないかと推定され、塔は、柱穴からみてかなりの高さをもつ五重塔とおもわれるという。

 なお智識(知識)とは、仏教を信仰し寺や仏像を造ることに協力した人を指し(善智識−良き友達−ともいう)、智識寺は、国家による官寺でも有力氏族の氏寺でもなく、これらの人々(智識)によって建てられた寺と推測されている。

 智識寺(太平寺廃寺ともいう)は、奈良時代(あるいはそれ以前から)、当地(現国道170号線の東側)を南北に通っていた古道(平城宮から難波宮に至る竜田道の一部で業平道ともいう)沿いにあった所謂・河内六寺(北から三宅寺・大里寺・山下寺・智識寺・家原寺・鳥坂寺と並ぶ)の中心的な古寺で、付近から出土した瓦などの遺物からみて、飛鳥時代末頃に建立され室町時代には廃絶したらしい。

 智積寺のある当地は、平城宮から難波宮に至る旅程(1泊2日)の中程に立地することから、元正帝・聖武帝・孝謙帝らは難波宮行幸に際して当地に宿泊されたといわれ、続日本紀(797)には
 ・元正天皇・養老元年(717)2月19日 天皇は(難波宮から)帰途につき、竹原井の仮宮に到着された。
 ・聖武天皇・天平12年(740)2月7日 天皇は難波宮に行幸された。
         (この時も当地に宿られ智識寺へ参詣されたようで、天平勝宝元年12月の大仏造仏に協力した八幡神へ奉った宣命文に
             「去る辰年-天平12年-河内国大県郡の智識寺に坐す盧舎那仏を礼拝し、朕も造り奉ろうとおもったが・・・」
             とあり、東大寺大仏造仏の契機となったという)

 ・同・天平勝宝元年(749)冬10月9日 
        天皇は河内国の智識寺に行幸された。外従五位下の茨田宿禰弓束女の宅を行宮とされた。
 ・孝謙天皇・天平勝宝8年(756)2月24日 
         天皇は難波への行幸におもむき、この日は河内国に至り、智識寺の南の行宮に宿られた。
         (孝謙天皇に譲位した聖武上皇及び光明皇太后が同行していたという、以下同じ)
 ・同・同年2月25日 
         天皇は智識・山下・大里・三宅・家原(エバラ)・鳥坂(トサカ)などの六寺に行幸し、仏像を拝された。
 ・同・同年2月26日 内舎人(ウドネリ)を六寺に遣わして、各寺の僧侶に誦経させた。
 ・同・同年2月28日 河内国の諸社の祝(ハフリ)・禰宜(ネギ)ら百十八人に、地位に応じて正税(稲)を賜った。
             この日、天皇は難波宮に至り、東南にある新宮に入られた。(聖武上皇は2日遅れて難波に入っている)
 ・同・同年4月15日 天皇は渋河路を通って帰路につき、智識寺の行宮に至った。(平城京への帰京は17日)
 ・光仁天皇・宝亀2年(771)2月21日 天皇は(難波宮から)竜田道を通って帰路につき竹原井行宮に至った。
との記録がある.。

 石神社社頭の広場に掲げる“智識寺跡”の案内には、
 「奈良時代、聖武天皇や孝謙天皇は、平城宮と難波宮の往来の途中に柏原の地を訪れ、智識寺・山下寺・大里寺・三宅寺・家原寺・鳥坂寺の六寺に礼拝・礼仏されました。中でも智識寺には大きな盧舎那仏(ルシャナブツ)があり、それを見た天皇は、その立派さに感動し、奈良東大寺の大仏を造るきっかけとなりました」
とある。
 前段の六寺礼拝は孝謙天皇・天平勝宝8年の記事をうけたものだが、後段の智識寺虞舎那仏拝礼云々は、聖武天皇・天平12年のことで(宣命文)、天平勝宝8年の智識寺以下6寺巡拝時のことではない。

 なお、孝謙天皇・聖武上皇・光明皇太后による天平勝宝8年2月24日の難波宮行幸、同25日の智識寺以下6寺への行幸・拝仏は、聖武上皇の病気平癒祈願のためといわれ、そこには神社礼拝の記事はない。しかし、28日に河内国の神社の神主等に稲を賜ったとあり、それは、前日・27日に河内国の諸神社で行われたと思われる病気平癒のための奉幣祈願に対する褒賞と推測され、当社を含め近傍の神社へも奉幣祈願がなされたのではなかろうか、という(柏原市史・大意)

◎竹原井行宮(タケハライノカリミヤ)
 上皇・天皇等が宿ったという行宮は“竹原井行宮”と称したという(竹原井頓宮・竹原井仮宮・智識寺南行宮・智識寺行宮などともいう)
 今、行宮の所在地ははっきりしないが、柏原市内に3ヶ所の候補地があるという。
 @JR関西線・河内堅上駅の南西約800m、青谷青少年運動広場(大和川北岸)付近
   広場のすぐ東に隣接する“青谷遺跡”(遺跡の表示なし、民間の資材置き場となっている)から、奈良時代(8世紀前半)の建物跡・平安京出土と似た瓦・石敷・石溝跡などが出土したとあり(1984年発掘調査)、当地を竹原井行宮跡とする資料は多い。
 AJR関西線・高井田駅付近にある松村邸の石井戸(位置不明)
   堅下村誌(1925)には、
   ・竹原井について、河内名所図会に曰く、高井田竹原山にあり、
   ・石井ありて水涯に臨む。昔時有名なりしは其水極めて有名なりしか又は湧出多量なりし故か。現今其所在不明なり。
   ・竹原井行宮の趾分明ならず。恐らくは現今の高井田部落及び其の背後の林丘を併せ宮城たりしならんか」(大意)
とあり、式内社調査報告は、
   ・竹原山は式内・宿奈川田神社(通称・白坂神社)背後の小丘かという。
    (宿奈川田神社の北東すぐに線刻画で有名な高井田横穴群遺跡があり、その西方辺りかと思われるが詳細不明)
 B安堂の石神社付近(当社付近)
   柏原市史(1925)によれば、
  ・智識寺南行宮とも呼ばれ、智識寺の南にあったことを示唆すること、
  ・孝徳天皇の六寺巡拝が智識寺から始まって竜田道を北上し、北端の三宅寺まで行って反転南行、高井田の鳥坂寺で終わっていること、
  ・青谷説は巡拝された河内六寺から離れており(鳥坂寺趾より東約2.2km)行宮地としては疑問。
  ・智識寺南行宮跡推定地の発掘調査(1985・87)により、木簡・建築廃材・食器等が出土したこと
  ・石神社のすぐ北に、竹原井址ともされる清浄泉との井戸があり、行宮推定地近くから、導水管とも思われる瓦質土管が出土していること
などいくつかの根拠をあげて、行宮は智識寺の近くにあった可能性が高いという
 この3ヶ所のうち、今、現地を指定できるのは@の青谷遺跡のみだが、これとても行宮跡とする確証はなく、他も同前。行宮跡は不詳とするのが妥当であろう。

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