トップページへ戻る

河内(若江郡)の式内社/石田神社
大阪府東大阪市岩田町4丁目
祭神−−応神天皇(誉田別命)・仲哀天皇(帯足彦命)・神功皇后(息長足姫命)
                                                          2010.04.28参詣

 延喜式神名帳に、『河内国磐田郡 石田神社三座』とある式内社。
 当社は石田と書いて、地名と同じくイワタと読む。古く、この辺りは古大和川流域の低湿地であり、その微高地に創建された古社であろうという。

 当社由緒略記によれば、当社の創建は
 「欽明天皇御宇(537--71)、此の田圃の中に岩船ありて、其の上に三神現じ給ひしより初めて社壇を築きて奉祀した」
のが始まりという。
 ここで顕現した三神が、応神天皇以下の三神・所謂八幡大神とされ、江戸時代の古書・河内志(1733)・河内名所図会(1801)に、
 「石田神社、岩田村にあり。今八幡宮と称す」
とあるように、古くは八幡宮(石田八幡宮とも)と呼ばれていた。

 この八幡宮を式内・石田神社とする根拠は不明。河内志の編者・並河誠所(1668--1738、江戸中期の国学者)が、忘れられつつあった畿内各地の式内社を調査研究するなかで、地名の岩田と社名の石田とが同じイワタであることを根拠に、岩田村にあった八幡宮を式内・石田神社に比定したものと思われる。

 当社が、古来からの八幡宮を石田(イワタ)神社へと改称したのは、明治5年(1872)という。明治初年の神仏分離に際して、仏教色の強い八幡宮から式内社・石田神社へと改称したともとれるが、祭神は八幡大神のままであり、由緒略記にも「石田神社 又は、石田八幡宮と称す」とあることから、八幡宮なる呼称が完全に払拭されたわけではないらしい。

 八幡宮の総本社である九州北部の宇佐八幡宮に伝わる伝承では、八幡神の顕現は欽明天皇の御代となっているが、その宇佐八幡が官弊をうけた(官社として認められた)のは、聖武天皇・天平9年(737)が最初で、それまでは宇佐(大分県宇佐市)の一地方神に過ぎなかった。
 その八幡神が中央に知られたのは、八幡神の東大寺大仏造営へ協力託宣と上京であり(天平勝宝元-749)、一般に広まったのは石清水八幡宮の創建(貞観元-859)以降とされる。
 その八幡神が、欽明天皇の御代に当地に顕現したというのは疑問であり、この創建由緒は八幡信仰が広がった後世になっての創作であろう。因みに、延喜式神名帳にある八幡宮は宇佐宮と筥崎宮(福岡市)のみ(それも八幡大菩薩○○宮と出ている)で他には見えず、延喜式制定のころ、八幡宮は一般には広まっていなかったことを示唆する。

 このように、当社祭神を八幡大神とするには疑問があるが、これに代わる本来の祭神は不明で、神社覈録(明治3-1870)は「祭神詳ならず」と、特選神名牒(大正14-1925)は「今 決がたし」という。

 ただ大阪府史蹟名勝天然記念物(昭和3-1928)に、一説として
 「石田君の始祖五十日足彦命(イカタラシヒコ)・同比売神・誉田別尊を祀るという」
とあるが、その根拠は記されておらず、その当否は不明。
 イカタラシヒコとは、日本書紀・垂仁天皇34年条に、
 「(天皇は)山城の苅幡戸辺を召されて3人の皇子を生んだ。第一を祖別命・第二をイカタラシヒコ命・第三を胆武別命という。イカタラシヒコの子は石田連の先祖である」
とある垂仁の皇子で、そのイカタラシヒコが当社の祭神とすれば、石田連がその祖神と后神を祀ったと推測される。ただ、新撰姓氏禄に石田連の名は見えず詳細不明で、当地に居住したとの確証もないという。

 また、イカタラシヒコとホムタワケ(応神天皇)との関連はみえず、ホムタワケを合祀する由緒は不明。当社祭神が三座ということから、持ちこまれたものであろう。

※社殿等
 現在の社殿は、昭和9年の台風で倒壊したものを同17年に再建したものという。
 本殿−−流造・間口一間六尺・奥行二間

石田神社/鳥居
石田神社・鳥居
石田神社/拝殿
同・拝殿
石田神社/本殿
同・本殿

◎末社


 境内右手に、アマテラス大神・アメノコヤネ命・ウカノミタマ命を祀る合祀殿が一棟建っている。
 明治時代、アマテラスとアメノコヤネは本殿に合祀されていたらしい。

◎石像物
 境内には、江戸中期・元禄15年(1702)銘の石燈籠以下6基が立ち、東側商店街からの参道入口にも天保3年(1832)銘の常夜燈(右写真)が立っている。
 また、寛政4年(1792)銘の狛犬、元禄15年銘の手洗い石など、江戸時代の石造物が残っている。
石田神社/末社合祀殿
末社・合祀殿

東側参道入口の常夜燈

※伝承
 祭神の顕現伝承によれば、三神(八幡神)は岩船に顕現したという。
 その岩船にかかわって、当社由緒略記には
 「当神社の北方四十間を距てる水田の中に、二個の塚あり。東なるを幸神塚と云い、西なるを無名塚なり。今は住宅地なれども、何れも高さ十五尺位の円錐形の小塚で、この塚の下に船に似たる長大な岩石ありて、其の長さは、東塚より西塚に達し、全長二十余間に及ぶ。是れ上古航海せる、石船の難破して沈没せるものなりと。
 石田神社の記事中に、岩船ありと云うのは、この石船のことを指せるものなり。之を開拓せし者ありしに大盤石あるを見たるも、暴風忽然として起り、其の場に気絶せりと云う」
との伝承を記している(同趣旨の記事が、大阪府誌-1922-にもある)

 今、当社の周囲は住宅地と化して、幸神塚・無名塚ともに消失している。
 ただ、宮司さんから拝見した古い写真には、田圃の脇に立つ石碑の先(南)、田圃の中に小さな塚が見え、これが東の塚(幸神塚)だという。

 この石碑は、今、当社の北約150mほどにある岩田西小学校南の道路脇に建つ猫橋地蔵堂の横に立つ道路改修を記念する石碑で、案内によれば、
 「猫橋とは、当社の西側を南北に流れていた用水路に架かっていた一枚板の石橋で、形が猫に似ていたことから猫橋と呼ばれたという。
 昭和7年の道路・水路改修の際、橋の下から数体の地蔵と五輪塔(室町後期)が出土し、現在の地に“猫橋地蔵”として祀られた。
石田神社/猫橋地蔵堂
猫橋地蔵堂と改修祈念石碑
(この先・田圃の中に小塚があった)
 この地蔵は、、村人たちが田畑や水辺の守り神として、また村を外部からの災害を防いでくださる村境の“塞の神”(サエノカミ・道祖神)として、手厚く祀ったものと伝えられている」(大意)
という。

トップページへ戻る