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河内(河内郡)の式内社/梶無神社
大阪府東大阪市六万寺町3丁目
祭神−−瓊瓊杵尊・木花開耶姫命
                                                             2010.04.28参詣

 延喜式神名帳に、『河内国河内郡 梶無神社 鍬』とある式内社。

 近鉄奈良線・瓢箪山駅の南約1km。駅の東を南北に通る商店街(府道170号線−旧東高野街道)を南下、六万寺中交差点を水路に沿って東へ200mほど入り南へ降った住宅地のなかに鎮座する(道が複雑で地図必要)。生駒山山系南の鳴川峠から下った途中にある六万寺山の西麓にあたる。 

※祭神
 今の祭神は皇孫・ニニギ尊とその后・コノハナサクヤヒメとなっているが、江戸中期の古書・河内志(享保18-1733)及び河内名所図会(享和元-1801)には
 「六万寺桜井邑に在り 今船山明神と称す。社の北に地名梶無有り」
として、特定の祭神名は記載していない。

 この船山明神との呼称は明治以降も引き継がれ、
 *神祇志料(明治4-1871)−−今六万寺桜井村にあり、船山明神と云う
 *六万寺村誌(明治15-1882)−−元と船山明神と称す
 *大阪府誌(明治36-1903)−−枚岡南村大字六万寺の西方に鎮座せる社なれども祭神詳かならず。・・・昔は船山明神と称せり
 *大阪府全志(大正11-1922)−−創建の年月詳かならず。俗に船山明神と呼び・・・
 *大阪府史蹟名勝天然記念物(昭和3-1928)−−俗に船山明神と称す。祭神詳かならず・・・
と、祭神不詳、俗称船山明神とする史料が多い。

 船山明神とは、当地の古地名・六万寺村小字船山からくるもので、“船山に坐す神”を意味する一般的な神名であり、特定の神を指すものではない。

 明治以降の諸史料に“祭神不詳”とするのが多いのは、明治政府の命をうけてまとめられた神社明細帳(明治12-1879)に、当社からの報告をうけて「祭神 不詳」と記したことが、以降の史料で祭神不詳とする原因ともいう(郷土誌・六万寺、平成5年-1993)

 この船山明神を祀る社が式内・梶無神社であるとの確たる史料はないが、江戸中期の国学者・並河誠所(1668--1738、河内志の著者)が、当時はっきりしなくなっていた畿内の式内社を調査するなかで、当社の近くにある梶無の地名(字名)と社名・梶無とが同じことから、六万寺村の船山明神社を式内・梶無神社に当てたものと思われる。

 なお、特定の祭神名を挙げるものとして
 *神名帳考証(文化10-1813)−−大山祇女鹿葦津姫(カアシツヒメ−コノハナサクヤヒメの別名・山の神オオヤマツミの娘)
 *中河内郡郷土誌(大正12-1923)−−木花咲耶姫命
とする史料もある。
 式内社調査報告(昭和54-1979)に、
 「当社では、ご神体は男女神二柱で、男神は不詳だが、女神はコノハナサクヤヒメである、としている」
とあるが(今の由緒には見えない)、その根拠が上記2説かもしれない。ただ、その女神をコノハナサクヤヒメとする根拠は不明。

 今、当社祭神をニニギ・コノハナサクヤヒメとするのは、神武天皇が当地近くの梶無の地に船を止めたとの伝承(下記)から、その曾祖父母を当てたのだろうが(ただ、何故、神武としなかったのか疑問は残る)、神武伝承や社名地名が梶無であることなどを根拠に、昭和初期のころ新たに奉斎された可能性もある。

 また特異な論として、
 *河内国式神私考(発刊年不明、昭和初期らしい)−−祭神ニギハヤヒ命、天磐船が止まる所に社を建つ。故に船山神と号す
 *枚岡市史(昭和40-1965)−−里人に船山明神と呼ばれていることから舟霊(フナタマ)を祀ったのではないか(滝川政次郎氏説)
 *式内社の研究(昭和52-1977)−−梶無は風無で、鳴川峠からの強風に対する風神を祀ったことに由来するかもしれない
などがあるが、確たる根拠もなく、いずれも祭神とは見なしがたい。

※創建由緒
 当社の創建由緒・年代ともに不詳だが、梶無神社略記によれば、
 「社伝によると、神武天皇は御東征の砌り、御船を白肩津から入江深く溯らせて来られたが、生駒颪により浪高く、梶折れ海上を漂揺する危機に立ち至られた。天皇は祖神の御加護を求め祈祷を籠められた為、さしもの強風も鎮まり波も穏やかになって、附近の丘に御船を付けて上陸することができた。天皇は、祖神の御加護を深く歓ばれて、その上陸した処に祖神のニニギ尊とコノハナサクヤヒメ命を祭神として祠を建て、神々に感謝をなされた。この祠が後年梶無神社になったと云われている」
とあり、神武天皇創建との由緒とともに社名・梶無もこれによることを示唆している。

 今、当地を含む河内の一帯は住宅等が密集する市街地となっているが、古代においては、神武東征に際して天皇が上陸しようとした河内湖・日下の入江に続く低湿地だったことから、日下の地でニギハヤヒの抵抗にあって南へ廻航した神武が、嵐にあって当地に漂着したとの伝承を生み、それを以て当社創建としたのであろう。

 神武の上陸地であり、当社の旧地と推測される梶無の地について、河内誌に「社の北に地名梶無あり」とあることから、その後の史料は、当社の北(現四条町附近)あるいは西北の地(現神田町付近)としている。
 一方、郷土誌・六万寺には
 「日下の入江から南に入り込んだ低湿の地に近い下六万寺町墓地(現下六万寺町3丁目3番・東から延びる標高約9mほどの舌状台地上という)付近からは、5世紀頃の祭祀遺物である石製模造品が出土し、附近には土師器・須恵器の破片が散布している。・・・
 梶無神社は、その名称や縁起から水または船と密接な関係をもつ氏族によって水辺の祭祀がおこなわれていたようである。・・・
 この附近こそが、伝承にいう神武天皇が上陸され、祖神のニニギ尊とコノハナサクヤヒメ尊を祭神として祠を建て祀られたところではないかと推定する」(大意)
とあり、また当社略記は
 「この5世紀頃の祭祀遺物出土の地が神武天皇上陸の地とも云われ、また後三条天皇延久4年(1072・平安末期)の太政官牒によると、この祭祀遺物が出土した西側から、今の近鉄線の南側に至る範囲に六町四方の『梶無里』があったことが分かる。この梶無里は、梶無神社の所領または神田の所在地であったとも云われる」(大意)
と記している。

 平安時代の梶無里には、当社の北・四条町、西北・神田町、西方・下六万寺町のいずれも含まれるようだが、上記祭祀遺物の出土状況から現下六万寺町3丁目3番附近(現六万寺保育園附近−市販地図)とするのが順当だうが、今、この附近に当社との関係を示唆するものは何もないという。

 また、下六万寺附近にあった祭祀施設(祠)をもって当社の創建とすれば、そこから現鎮座地へ遷ったことになるが、その経緯・時期などを示す史料はない。

※社殿等
 道路端の鳥居(右に「式内 梶無神社」の社標あり)および注連柱につづく石畳の参道奥に拝殿、その奥、透塀に囲まれた神域に本殿、その右手に末社・春日神社が鎮座する。本殿左のご神木・楠の巨樹(幹廻≒510cm)をはじめ境内には古樹が多い。
 江戸時代以前の詳細は不明だが、略記によれば、慶長16年(1611)・享保6年(1721)造営修理、明治21年(1888)暴風雨により被災・再建、昭和9年(1934)室戸台風による被災・同10年再建とある。
 今の社殿は、平成6年(1994)悪戯火により被災した社殿を再建したもので、同7年7月竣工。

 本殿−−一間社春日造(古式)・銅板葺、妻入社殿の前方に向拝あり。
 拝殿−−唐風・千鳥風の二重破風で飾られた向拝をもつ入母屋造銅板葺、桁行三間半・梁行二間

梶無神社/鳥居
梶無神社・鳥居
梶無神社/拝殿
同・拝殿
梶無神社/本殿
同・本殿(右下の屋根は末社・春日神社)

◎末社
 末社として、春日神社・桜井神社・白峰神社・八幡神社・十二社権現社がある。
*春日神社−−アメノコヤネ・ヒメガミ・フツヌシ・タケミカツチ
   在地の今西家が邸内に祀っていたものを、明治以前(文化11-1814か)に当社境内に遷したもの。今、神域内の本殿の右に鎮座する。
*桜井神社−−オオナムチ命
   明治5年(1872)の神社整理により、六万寺村から勧請合祀された。
*白峰神社−−崇徳天皇
   崇徳天皇は、保元の乱(1156)に敗れて讃岐国に流され、同地で崩御、白峰大権現として祀られていたが、明治になって讃岐から京都に迎えられ、白峰宮が建立されていることから、明治初年頃に勧請合祀されたらしいという。
*八幡神社−−誉田別尊(応神天皇)
   明治5年、六万寺村から勧請合祀されたが、その由緒など不詳。
 この桜井・白峰・八幡の3社は、境内右奥の合祀殿に祀られている。
*十二社権現社−−十二社権現
   別名・“堂の宮”ともいわれるが、今、それらしき祠はみあたらない。すぐ東にあった古寺・六万寺の鎮守として熊野権現を祀っていたらしい。旧地について、元禄期の史料に「社無御座竹木御座候」とあるから、社殿は古くからなかったらしい。

末社・合祀殿

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