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河内(渋川郡)の式内社/鴨高田神社
大阪府東大阪市高井田元町1丁目
祭神--速須佐之男命・大鴨積命・神功皇后・応神天皇
                                                    2010.04.03参詣

 延喜式神名帳に、『河内国渋川郡 鴨高田神社』とある式内社。神名帳では渋川郡に属するが、中世の頃若江郡に所属替えになったという。

 近鉄奈良線又はJRおおさか東線の河内永和駅の北約200m。駅から近鉄線に沿って東へ、JR線から一本東の辻を北へ入った突き当たりに鎮座する。周囲は商店・住宅の密集市街地。

※創建由緒
 社頭に掲げる由緒には、
 「当社の創建は、往古、鴨氏が居住し、その祖先を祀ったに始まり、社名もそれに由来すると云われていて、遠く白鳳2年(673・天武初期)と伝えられる」
とある。奈良時代からの由緒をもつとは推測できるが、天武天皇の時代(673--85)まで遡れるかどうか、史料・伝承はない。

 古代の豪族・鴨氏には、おおきく3っの系譜があるが、当社祭神・オオカモツミに関係する系譜として、
 ・大和国神別(地祇) 賀茂朝臣 大神朝臣同祖 大田田祢古命孫大賀茂都美命(大賀茂足尼・大鴨積)奉斎賀茂神社也
   (大神朝臣 大和国神別(地祇) 須佐能雄命六世孫大国主神之後也)
 ・摂津国神別(地祇) 鴨県主 賀茂朝臣同祖 大国主神之後也
があり(新撰姓氏禄・815)、当地に関係するのはこれらに連なる氏族と思われる(通称・葛城賀茂と呼ばれる一族で、他に、山城賀茂系・彦坐命系の鴨氏がある)。ただし、河内国に鴨氏あるいは関連する氏族名はみあたらない。
 また、河内式神私考には、
 「味鉏高彦根命(アジスキタカヒコネ)について、古事記に“今いう迦毛大神(カモノオオカミ)ぞ”という。畠山義里の私記に、“高加茂の神は高井田里に坐す。故に鴨高田神と名づくと伝え聞く”、とある」(原文漢文・意訳)
とあり(式内社調査報告・1979)、鴨高田神は“加毛大神”すなわち鴨氏の祖神・アジスキタカヒコネ(オオクニヌシの御子)であり、古くから高井田の里に鎮座していたことを示唆している。

 ただ、当社は、中世の頃には八幡宮と称していたようで、社頭の由緒には、
 「中世の頃、石清水文書の保元3年(1158)官宣旨に、当社について『在高井田村今若江郡也。山州八幡神祭料因称八幡宮』と記し、当社が石清水八幡領となり、八幡宮と称される由縁である」
とある。天明年間(1781--89)慈雲和上が男山八幡宮を勧請したともいう(大阪府史蹟名勝天然記念物・1928)
 なお、明治5年(1872)と同40年(1907)にも、西高井田及び高井田字北の町の品陀別命(ホムタワケ=応神天皇=応神八幡神)を合祀してという。近年の人々にとっては、鴨氏の祖神というより、八幡さんの方が親しみやすかったのであろう。

 なお、当社にかかわる伝承として、
 ・醍醐天皇・延喜18年(918)、当地方が大洪水に見舞われ五穀が稔らず困窮したとき、諸民が当社に祈願したところ霊験があり、百姓がおおいに喜んだ。
 ・後桃園天皇の安永年間(1772--80)、悪疫が流行したとき、時の神職・久左衛門が1月9日から10日間、断食して悪疫祓除を祈願し、全村その厄をまぬがれた。
などがある(当社由緒)

※祭神
 今の祭神はスサノヲ以下4座となっているが、延喜式には一座とあり、本来の祭神は鴨氏の祖神・オオカモツミであり、スサノヲは後に遠祖として加えられた祭神で、神功皇后・応神天皇(ホムタワケ)は、中世頃の石清水八幡との関係あるいは明治5年の八幡宮合祀などによって、後世になって持ちこまれた祭神であろう。

※社殿等
 鳥居をくぐり、少し長目の参道奥に拝殿が、その奥透塀に囲まれて本殿が鎮座する。
 当社は、慶長元和の役(大阪冬-1614・夏の陣-1615)の兵火により焼失したが、その後、再建されたという。
 現在の社殿は、明治14年(1881)造営によるもののようで、
 ・本殿--方二間半の流造
 ・拝殿--間口五間・奥行二間半 

鴨高田神社/鳥居
鴨高田神社・鳥居
鴨高田神社/本殿
同・本殿
鴨高田神社/拝殿
同・拝殿
鴨高田神社/拝殿内陣
同・拝殿内陣から本殿を望む

◎石造物
*狛犬
 本殿前の狛犬。「寛政9年(1797)丁巳九月吉辰 當邑西之坊講中謹建焉」との銘文あり。普通の狛犬と違って、古拙な中に面白みのある顔をしている。

*石燈籠
 拝殿前に古い石燈籠一対が立ち、正面に「八幡宮」・「高井田村」、背面に「享保13戌申年(1728)正月吉日」とある。
 他に、「安政3年(1774)・常夜燈八幡宮御宮前」と刻した石燈籠、「寛保2年(1742)・河州新喜多新田」と刻した石燈籠があるというが、文字摩耗のため見当たらず。
 いずれも、江戸時代の当社が八幡宮として崇敬されていたことを示す遺物といえる。

本殿前の狛犬
(寛政9年-1797-銘あり)

拝殿前の石燈籠
(八幡宮 高井田村の銘あり)

◎末社
 *水神社
  境内東北隅、金網に囲まれた池の中にある小祠。祭神・水分神(ミクマリ)
  由緒不明ながら、後世、農耕神あるいは治水神として氏子が勧請したものだろう、という。
  社前に少し変わった形の石燈籠があり、「鐙村内・・」と刻してあるが、鐙村が何処なのかは不明。

 *戎神の石像
  拝殿左手にある石碑。巨石を積んだ台座の上に「戎神の石像」が乗っている。
  これも近年になって、近隣氏子から商売繁昌を祈願崇敬されている、というが、一見してエビスさんとは見えない。

 *鴨稲荷大明神
  境内左手、道路をはさんで鎮座する稲荷社。朱の鳥居・木柵に囲まれた中に、通常見られる祠ではなく自然石が祀ってある。

鴨高田神社/末社・水神社
末社・水神社
鴨高田神社/水神社前の石灯籠
同・石燈籠
鴨高田神社/戎神の石像
戎神の石像
鴨高田神社/戎神
戎神
鴨高田神社/末社・鴨稲荷大明神社
鴨稲荷大明神社

◎お駒樟
 社殿左に残る古樹。樹齢約1000年。大正の頃には高さ約13mほどの大樹だったようだが、今は枯死していて、柵の中に、注連縄を張った基部3mほどが残っている。

 伝承によれば、
 ・往古、お駒狐という狐が棲息していた、
 ・お駒という婦人が、この樹に呪詛の釘を打ち込んで己の想いを祈願し、それが叶った
ともいう。ご神木などに、人形(ヒトガタ)を釘で打ちつけて呪詛する行為は、憎い人を呪い殺す手段として、中・近世におこなわれた類感呪術という。
 
鴨高田神社/お駒樟

◎長栄寺
 当社の北に接して『長栄寺』との古寺がある。縁起によれば、
 「当寺は、伝承によれば、聖徳太子の創建にかかり、荒廃久しかったものを、近世の高徳梵学の碩学・慈雲尊者27歳の時、延享元年(1744・江戸中期)来たって当寺に止宿し、正法律の復興を唱え、その道場をした」
とある。
 慈雲尊者とは、天明年間、当社に男山八幡宮を勧請したという法師と同じで、その関係からか、河内名所図会(1801)の鴨高田社には、「長栄寺の鎮守」と記すというが、未見。
 当地に隣接して、長栄寺なる町名があることからみて、相当規模の大寺だったらしい。

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