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河内(大縣郡)の式内社/金山孫神社・金山孫女神社
金山孫(彦)神社−−大阪府柏原市青谷
祭神−−金山毘古神
金山孫女(媛)神社−−大阪府柏原市雁多尾畑(カリンドオバタ)
祭神−−金山毘女神
                                                         2011.06.03参詣

 延喜式神名帳に、『河内国大縣郡 金山孫神社』・『同 金山孫女神社』とある式内社。
 金山孫・金山孫売はカナヤマヒコ・カナヤマヒメと読む。神社では金山彦神社・金山媛神社と記している(以下、金山彦・媛と記す)

 金山彦神社は、JR関西線・河内堅上駅の北西約500m、高井田から信貴山へ至る府道183号線(本堂高井田線)沿いの大池の横に鎮座する。駅前から大きく西へ迂回する道を進み、府道に出た右手に大池がある。
 金山媛神社は、金山彦神社から府道を北へ約1km、堅上小学校前を過ぎた左手山腹に鎮座する(入口角に社標あり)

※祭神
 祭神・カナヤマヒコとは、日本書紀(神代紀・一書4)
 「伊奘冉尊(イザナミ)、火神・迦具突智(カグツチ)を生まむとする時、悶熱(アツカ)ひ懊悩(ナヤ)む。因りて吐(タグリ)す。此れ神と化為(ナ)る。名を金山彦と曰す」
とある神で、タグリ(嘔吐した吐瀉物)が“金属が真っ赤に溶けて流れるさま(湯)”を表すとして鉱物・金属の神とされ、古代の製銅・製鉄技術者らから尊崇されたという。
 配偶神・カナヤマヒメは、古事記にはカナヤマヒコと同時に生まれたとあるが、書紀には見えない。

※由緒
 今、金山彦神社が青谷地区、金山媛神社が雁多尾畑(カリンドオバタ・カリンドバタ)地区と約1kmほど離れて鎮座し、それぞれの集落の生土神というが、社頭に掲げる金山彦神社略記には
 「祭神の金山毘古神は、古代、嶽山(タケヤマ)の嶺に奉祀されていたが、中世にいたり今の場所に遷座した」
とあり(金山媛神社も同じ)、大阪府誌(1903)・大阪府全志(1922)も同じく
 「伝えいふ、両社はもと嶽山の嶺にありしを中古今の地に移しゝもの」
とある。
 嶽山の所在地は、金山媛神社の北東にある“留所の山”ともいわれるが不詳。市販地図によれば、神社の北東約700m(府道の東側)に留所山霊園があり、その辺りを指すかと思われる。

 金山媛神社鎮座地・雁多尾畑(カリンドオバタ)について、谷川健一氏(民俗学者)
 「大阪府柏原市の雁多尾畑の近くに金山彦と金山媛の二神が祀られている。雁多尾畑の“雁”は朝鮮語のカル、すなわち刃物を意味する語であり、“多尾”はタワ、すなわち峠を意味する。このように金属に縁由のある語が、地名とそこに鎮座する神社名として残されている」(青銅の神の足跡・1989)
と、鍛冶・製鉄などにかかわる渡来系氏族が守護神として祀ったのが両社だろうとし、金山媛神社略記は
 「当地は古代には鉄工業の栄えた所と思われ、その守護神して祀られたのが始めではないかと思われる。周囲には金吹山・焼けあと等、当時を偲ばせる地名もあり遺物も発見されている。古代製鉄を営むには風を必要とし、風神を祀ったと思われる風神降臨の聖地・御座峰(ゴザミネ)が伝承されている」
と記し、金山彦神社略記にも
 「古代、当地の嶽山・竜田山を中心とする地域は製鉄業で栄えていたので、製鉄の守護神として奉祀されたのがはじめではないかと思われる。北方の高地は製鉄を営むのに最も適した風が得られるところで、風神が降臨した聖地としての御座峰が伝承されている」
とある。
 御座峰(H≒320m)とは、金山媛神社の北方約1.5km程の府道西側にある山で(現柏原聖地霊園付近らしいが、市販地図には不記載)、その頂上には“伝 竜田本宮御座峰”と刻した石碑が立ち(未確認)、当地の東方に鎮座する竜田大社(奈良県生駒郡三郷町)の祭神・竜田風神が、この山に降臨したとの伝承がある。

 また、大和岩雄氏(古代史研究家)
 「御座峰の南・雁多尾畑北方の二ヶ所から鉄滓が、一ヶ所から鉄塊が発見され、金山媛神社にも15cm程の鉄滓が奉納されているから、両社はこの地域の製鉄氏族によって祀られたものであろう。
 雁多尾畑地区からは、7世紀前半頃築造の横穴式古墳群が400基ほど発見されているが、その中には鍛冶あるいは鉄器生産に関係した集団も含まれているとみられる(当地での製鉄は7世紀前半頃から盛んとなったというが、その従事者は6世紀末頃に西方の高尾山山麓から移住したと推測されるという)
 高地の谷間で農耕地も少ないのに、古墳が400基もあり、“畑千軒”と呼ばれていたのも、製鉄などにかかわった人々が多数居住し栄えていたからであろう」(大意、神社と古代民間祭祀所載・金山彦・金山媛神社大和岩雄著・1989)
という。
 ちなみに、古墳群の様式などから推して、当地区の製鉄は6世紀後半から盛んになったと考えられ、北方から吹き下ろす風を利用した“野タタラ製法”だったろうという。

◎祭祀氏族
 両社に関係する古代氏族は不詳だが、雁多尾畑が属していた河内国大縣郡賀美郷(和名抄・937)には、渡来氏族の“上村主”(カミノスグリ)との一族が居たというという(続日本紀・神護景雲3年-769-に「河内国大縣郡従五位下上村主五百公 上連を賜姓」とある)

 式内社調査報告(1979)は、この上村主氏と製鉄との関係は不明として、その関与に疑問を呈しているが、大和岩雄氏は、大略
 ・続日本紀・慶雲元年(704)2月条に、「従五位下上村主百済 改めて阿刀連(アトノムラジ)の姓を賜う」とある。
 ・新撰姓氏禄によれば、阿刀連とは饒速日命を始祖とする物部氏系氏族で、物部氏は鍛冶・製鉄に関係する氏族を傘下においていた。阿刀連もその一氏族であろう。
 ・亀井輝一郎氏は“阿刀氏の職掌は、造鋳造仏などに携わるものを中心とした、中ないし下級の実務的官人であった”と書いている、
として、
 「上村主は、初め“アト”に住んだ百済の工人であったためアトに改姓したのか、雁多尾畑に居たアト氏系氏族と婚姻関係になったため改姓したかの、どちらかであろう。いずれにしても、雁多尾畑の金山媛神社と上村主の関係が推測できる」
という。

◎別説
 上記嶽山からの遷座説について、江戸時代の古書には、金山彦神社について
 ・旧く青谷村に在り、山上に老松一株存す。今山下に移る−−河内志(1733・江戸中期)
 ・青谷村の山頂にあり。旧跡に老松あり。八大金剛童子社と称す−−河内名所図会(1801・江戸後期)
とあり、古くから青谷村村内にあったという。
 この青谷村旧址説は、明治以降の神社覈録(1870・明治3)・大日本史神祇志(1873)・特選神名牒(1925・大正14)なども同様で、特に、大阪府史蹟名勝天然記念物(1928・昭和3)は、
 「堅上村大字青谷 式内社にして金山毘古神を祀る。社は、もと現社地の東方・寺山(現在地不明)の嶺にありしが、中古之を今の地に奉遷せり。その旧址に老松三株亭々として聳えしが、大正13年夏枯死す。もと八大金剛童子社と称せりという」(大意)
と、嶽山を寺山とし、そこに松3本があったが大正末期に枯死したなど、より具体的に記している。

 これら一連の史料の基は、河内志の編者・並河誠所(1668--1738)が、当時の青谷村にあった八大金剛童子社を式内・金山彦神社に比定したことによるという。根拠となる文書あるいは伝承があったのかもしれないが、今となっては、その真偽を云々する根拠は残っていない。

 この青谷村旧址説について、大和岩雄氏は、大略
 ・金山彦神社が鎮座する柏原市青谷に、古く“鳥取千軒”の小字があったように、古代の郡郷名では大県郡鳥取郷に比定されているが、この鳥取郷と隣接する鳥坂郷は鳥取氏が居住地としていた地域である。。
 ・鳥取氏は、その祖・アメノユカワタナ伝承(垂仁紀)から鳥捕獲・飼育など鳥に係わる氏族というが、その始祖・角凝魂命(ツノコリムスヒ)の“コリ”が鋳造・鍛冶の祖・石凝姥(イシコリトメ)の“コリ”と同じであることなどから、その本姿は鍛冶・製鉄に係わる氏族であって、青谷地区にあって金山彦神社を祀るとしてもおかしくはない、
として、
 「青谷邑の金山彦神社は鳥取氏が、雁多尾畑の金山媛神社は上村主氏が、それぞれ鍛冶・製鉄の守護神として奉斎したとみることもできる」
という。

 本来は一社であってもおかしくない神社が、あえて集落を異にして2社に別れて祀られるには、何らかの理由があったとも推測されるが、それが祭祀氏族の違いによるものか、他の理由によるものかは判断できない。御教示を乞う。

◎八大金剛童子社
 金山彦・媛両社とも、中世から近世にかけて八大金剛童子社と呼ばれていたという。これを、一つの金剛童子社が両所に別れて祀られたものとみて、金属精錬の守護神という同じ神格をもつ金山彦・金山媛両社に充てたともとれる。
 八大金剛童子とは、仏教では“不動明王・文殊菩薩に従っている眷属であり使者でもある八人の童子”をいうが、中世・近世の頃の金山彦神社では、その宮寺であった青谷寺に鎮守として祀られていたという。
 金山媛神社にも、八大金剛童子を鎮守とする宮寺があったことは推測できるが、その寺名などは不明という。

※社殿等
【金山孫神社】
 府道183号線沿いの大池の東横に鳥居が立ち境内に入り、石垣を積んだ基壇の上に拝殿が、その奥、中門を有する板塀の中に本殿が鎮座する。
 ・本殿−−春日造・銅板葺、間口一間・奥行一間半
 ・拝殿−−入母屋造・瓦葺、間口四間・奥行二間
 末社−−簡単な覆屋の中に龍王神社・稲荷神社の小祠が並ぶ。

金山彦神社/鳥居
金山彦神社・鳥居
金山彦神社/拝殿
同・拝殿
金山彦神社/本殿
同本殿

 なお、当社本殿内には8躰の木造神像が祀られているというが、市史編集委員会調査(1968)によれば、その内訳は、男神坐像2・女神坐像2・武人型神像1・騎馬神像1・烏帽子姿神像2で、いずれも20cm前後の小像で、鎌倉期の作と推定されているという。
 このうち騎馬神像はまったく朝鮮風のいでたちで、祭祀氏族を考えるうえで参考になるかもしれないという。(日本の神々3他)
 朝鮮風といえば渡来系氏族の関与が窺われ、とすれば、当社祭祀氏族は姓・村主をもつ上村主氏であった可能性が高い、とも思われる。

【金山孫女神社】
 金山彦神社前から府道を北上、式内・金山媛神社との石標が立つ道路の角を左へ、細い参道先の石段を登った上、山腹を削ったような狭い境内に鳥居・社殿が建つ。
 ・本殿−−流造・銅板葺
 ・拝殿−−唐風破風付き入母屋造・銅板葺

金山媛神社/全景
金山媛神社・全景

同・拝殿

同・本殿

◎末社
 境内左手、一段と高くなった細長い区画に、簡単な覆屋に覆われて末社群が並ぶ。何れも流造小祠。由緒等不明。
 ・末社群−−左から天王社・春日社・春日若宮社・若宮社・素盞鳴社・大将軍社・大神社
 別に、貴船神社・透神社(祭神不明)および小さな磐座あり。


金山媛神社/末社群
金山媛神社・末社群
金山媛神社/末社・大神社
その一・大神社
金山媛神社/末社・貴布祢神社
貴船神社

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