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河内(河内郡)の式内社/栗原神社
大阪府東大阪市吉原2丁目
祭神−−中臣雷大臣命・水分神・天児屋根命・品陀別命比売大神・經津主命・武甕槌命
                                                                2010.03.26参詣

 延喜式神名帳に、『河内国河内郡 栗原神社』とある式内社だが、大正時代(あるいは昭和初期)までは、『梶原宮』の名で呼ばれていたという(河内志・1733、河内名所図会・1801-以上江戸時代、大阪府誌・1903-明治36、大阪府全志・1922-大正11)
 五畿内志(河内志はこの一書)の編者・並河誠所(1668--1738)が、畿内の式内社を調査比定したとき、吉原村にあった梶原宮を式内・栗原神社と比定したものとも思われるが、その根拠は記されておらず詳細不明。何らかの伝承があったのかもしれない。

 近鉄けいはんな線・吉田駅の北北西約900m。駅の西・中新開交差点を北上した突き当たりに鎮座する(約700m)。北からだと、JR学研都市線(片町線)・住道駅駅ビルの東側を南北に通る狭い路(一車線道路・旧八尾街道か)を南下(途中に式内・宇婆神社あり)、府道168号線(石切大阪線)との交差点(長者橋)を左折したすぐに位置する(約2km)

※祭神
 今の祭神は、中臣雷大臣命(ナカトミイカツオミ・以下イカツオミという)以下7座を祀っているが、大阪府誌(明治36)には中臣雷大臣命以下4座を記すのみで、比売大神以下の3座は大正4年(1915)に合祀した春日神社の祭神という(大阪府全志・大正11)

 延喜式に一座とあることから、本来の祭神はイカツオミ一座と思われる。
 イカツオミとは、中臣氏の祖・アメノコヤネ11代の後裔で、当社の祭祀氏族とされる“中臣栗原連”の祖先という(中臣氏系図)

 中臣栗原連とは、新撰姓氏禄・右京未定雑姓に
 「中臣栗原連 天児屋根命十一世孫雷大臣之後也」
とある氏族。ただ、姓氏禄の河内国神別には、中臣系氏族9氏を記すが、中臣栗原連はみえない。
 また、続日本紀・光仁天皇・天応元年条(781)には、
 「右京の人・栗原勝子公(クリハラノスグリ コキリ)が、『吾らの先祖のイカツオミは中臣氏の遠祖・アメノミナカヌシの二十世の孫です。イカツオミが神功皇后の御代に百済に使いしたとき、百済の女を娶って二人の男子を生みました。その後、彼らがわが国に帰化し、美濃国不破郡に土地を賜って居住し“栗原勝”の姓を負いました。先祖の関係で、“中臣栗原連”の氏姓を賜りますよう、お願いいたします』と言上した。古公ら男女18人に“中臣栗原連”の姓を賜った」(大意)
とある。

 これらからみると、当社の祭神・イカツオミとアメノコヤネは祭祀氏族・中臣栗原連の祖神ということになるが、中臣栗原連は、姓氏禄では未定雑姓に区分され、その出自に疑問がもたれていること、また続日本紀には百済から帰化した氏族で、姓・連(ムラジ)を賜る以前は勝(スグリ)とすることなどからみると、渡来系氏族とも推測され(スグリの姓は渡来系に多い)、その氏族が何らかの関係で中臣氏の傘下に入り、アメノコヤネ・イカツオミを祖神としたとも考えられる。また寡聞にして、当地に中臣栗原氏が居住したとの資料はみあたらない

 併祀されている品陀別命(ホムタワケ・応神天皇)は、平安時代の流行神・応神八幡神を祀ったものとも思われるが、水分神(ミクマリ・水の神)の由緒も合わせて詳細不明。

※創建由緒
 創建年代およびその後の経緯は不詳。明治5年(1872)村社に列し、大正4年(1915)に東六郷村(現在地不明・当地南方か)の村社・春日神社(今、比売神以下3座を祀る由縁)と諏訪神社を合祀したが、諏訪神社は昭和21年(1946)に旧地に分離独立したという(今、当社南約600mの中新開に諏訪神社あり)

※社殿等
 道路沿いに立つ注連柱を入った参道途中に大鳥居が、その奥、二の鳥居の先に拝殿(間口三間・奥行二間)と本殿(方二間)覆屋が並ぶ。巨樹数本が繁る境内右手に、「式内栗原神社 吉原村」と刻した石標が立つ(建立時期未確認)

栗原神社/社頭の注連柱
栗原神社・社頭の注連柱
栗原神社/参道の鳥居
同・参道の鳥居
栗原神社/社標
同・社標
栗原神社/拝殿
同・拝殿
栗原神社/本殿覆屋
同・本殿覆屋

◎末社−−栗玉神社
 社殿の左に玉垣に囲まれて“神籬”(ヒモロギ)があり、傍らの石柱には「栗玉大神 元鎮座地」とあり、ヒモロギの左前・石組の上に、注連縄を張って「栗玉大神」と刻した自然石の石碑が立っている。傍らの説明には、
 「栗原神社境内 栗玉神社略記  御祭神:地主神(栗玉大神)
  栗玉神社の始まりは、村人がいつものように本殿にお参りしていると、突然、古木楠木の横から白い蛇が現れ、そこに祀れと申された。それが栗玉大神の御誕生と伝えられている」
とある。
 土地の地主神・栗玉大神を氏子の守り神として祀ったということだが、当地が曾て、旧大和川州の新開池の西南隅岸にあったということ(式内社調査報告)、大神が白蛇の姿で現れたことなどからみて、水神的神格をもつ神と思われ(蛇は水神・竜に通じる)、あるいは、祭神・水分神の前身かもしれない。

 末社・栗玉神社の創建時期などは不明。明治大正期までの古資料には末社・栗玉神社の記述がないことからみると、案外新しいのかもしれない。

 ヒモロギとは、古く、常設の社殿がなかった頃、祭祀執行に際して臨時的に設けられた祭祀場所をいう。栗原神社と栗玉神社との関係は不明だが、このヒモロギが栗原神社創建以前からのものであれば、栗原神社の旧鎮座地と見ることもできる。

栗原神社/末社・栗本神社・元鎮座地
末社・栗本神社・元鎮座地
栗原神社/末社・栗本大神の碑
末社・栗本大神の碑
栗原神社/末社・白菊稲荷社
末社・白菊稲荷社

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