トップページへ戻る

河内(志紀郡)の式内社/樟本神社
A:大阪府八尾市木本1丁目(元河内国丹北郡)
B:大阪府八尾市南木本7丁目(元河内国志紀郡)
C:大阪府八尾市北木本5丁目(元河内国志紀郡)
祭神−−布都大神
                                                              2010.05.30参詣

 延喜式神名帳に、『河内国志紀郡 樟本神社三座 並大 月次新嘗」とある式内社。
 延喜式当時は一社だったと思われるが、今、社名・祭神を同じくする神社が、八尾市木の本・南木ノ本・北木ノ本の3ヶ所に鎮座する(以下、木の本社・南木の本社・北木の本社と記す)
 通常、延喜式に○○神社三座とある場合、一社に3柱の神を祀ることを意味するが、もともと一社だったものが分村などにより一座ずつに分かれることはあり得るという。
 式内社の研究(1977)は、「最初木の本に三座あったが、分村した北木の本が一座を分け、さらに分村した南木の本がまた一座を分けたのであろう」というが、分村の経緯が不明のため、3社のうち何処が本来の鎮座地かは不明。

 JR関西線・八尾駅の南西に位置し、駅の西を南北に通る府道2号線(旧大阪中央環状線)を南下、国道25号線との交差点(太子堂)の南約500m道路西側にC:北木の本社が、その約800m南の木の本交差点を西に入ってふたつめの信号の南すぐにB:南木の本社、その西約200m(1街区先南)にA:木の本社がある。

※祭神
 今、当社祭神は布都大神となっているが、古史料にも、
 ・布都明神と称す−−河内志(1733)・大阪府誌(1903)
 ・布都明神と称して物部守屋の霊を祀る−−河内名所図会(1801)
 ・布都大神を祀る−−大阪府全志(1922)・大阪府史蹟名称天然記念物(1928)
とあり、江戸時代から3社に分かれ、それぞれ布都大神(=布都明神)一座を祀るとある。

 しかし延喜式に載る祭神は三座であり、当時の祭神名ははっきりしない。
 ただ、中河内郡誌(1923)には
 「三座共に布都明神を祀る。旧事紀(先代旧事本紀・9世紀後半)にウマシマジ命六世孫イカガシコオ命、崇神天皇の朝、布都大神の社を大和石上邑に建つとあり、石上神宮これなり。本社(樟本神社)も神宮と同神を祀れるか。この地もと物部氏の本居なれば守屋大臣の霊を祀るともいふ」
とあり、当社本来の祭神が奈良・石上神宮と同神であったことを示唆している。
 石上神宮(奈良県天理市布留町)の祭神とは、同社由緒によれば
 ・布都御霊大神(フツノミタマ)
   神武東征の砌、国土平定に偉功をたてられた平国之剣(クニムケノツルギ)の霊威を神格化したもの
 ・布留御魂大神(フルノミタマ)
   鎮魂の霊宝・天爾十種瑞宝(アマツシルシ トクサノミツタカラ)の起死回生の霊力を神格化したもの
 ・布都斯魂大神(フツシノミタマ)
   スサノヲがや八岐大蛇を退治した天十握剣(アメノトツカノツルギ)の威霊を神格化したもの
で、いずれも物部氏が奉斎する神とされる(別項・石上神宮参照)

 延喜式に三座とあることからみて、本来は石上神宮と同じ祭神3柱を祀っていたとも推測され、時期は不明ながら、3柱の神を総合した布都大神を祀るとなったものであろう。 

※創建由緒
 南木の本社拝殿に掲げる縁起には、
 「当社は延喜式に記載されている榎本三座の一にして、創建の年代は詳かでないが、用明天皇の御代(585--87)、物部守屋公が本拠地である稲村城(現光連寺敷地−当社の南約200mにあり)の守護神として、一族の祖神と崇めていた布都大神を奉祀されたものと伝える」
とある(他の2社の由緒も、ほとんど同意)

 物部守屋云々とは、日本書紀・崇峻天皇2年(588)秋七月条にある、
 「蘇我馬子大臣は、聖徳太子以下の諸皇子と群臣に勧めて、物部守屋大連を滅ぼそうと謀った。・・・(大臣らは)軍兵を率いて志紀郡から守屋の澁河の家に至った。大連は自ら子弟と奴の兵士たちを率いて、稲を積んだ砦を造って戦った。大連は衣摺の地の榎の木股に登って、上から眺め射かけること雨のようであった。・・・」(大意)
を潤色したものと推測され、守屋が築いた稲積の砦が、縁起にいう稲村城であろう。
 ただ、古代における稲積の砦とは、戦いに際して急遽造られた砦とのニュアンスが強く、縁起にいう稲村城が用明天皇時代からのものとすれば、城あるいは砦というより守屋の居宅だった可能性が強い。また書紀では、この攻防戦の地は当地の東北方にある現澁川町の辺り(JR八尾駅付近)とあり、縁起とは異なっている。

 いずれにしろ、当地域一帯は物部氏特に物部守屋との関係が深く、物部本家の滅亡の地が当地辺りであった可能性は強い。しかし、当社の創建と物部氏滅亡とを直接結びつける史料は見えず、上記縁起も古くから信じられた伝承として受けとるべきであろう。

 なお、当地の地名・木本の由緒として、社頭に掲げる八尾市教育委員会の案内板には、
 「守屋が聖徳太子の軍を防ぐため、この辺りに“稲城”を設けたとき、城中に榎木があったので、これを“榎木城”といい、村の名も“榎木村”といったが、のち“木本”になったと伝える」
とある。書紀の記述からも城中(居宅)に榎木があったことが窺われるように、この地域一帯は物部守屋と何らかの関わりをもつ伝承に溢れている。

 因みに、関西線・久宝寺駅の南一帯は物部氏の本拠・阿都の跡と伝え、亀井町1丁目にはその祖神を祀る“跡部神社”(別項・跡部神社参照)が鎮座し、太子堂交差点の西約200mには聖徳太子が物部守屋誅滅を記念して建立したと伝える“大聖勝軍寺”(寺頭に“聖徳太子古戦場”との石柱及び“守屋池”あり)が、寺と交差点との間の道路沿いには“物部守屋大連墳”との遺構がある。

大聖勝軍寺/聖徳太子古戦場の石碑
聖徳太子古戦場の石碑
大聖勝軍寺/守屋池
大聖勝軍寺・守屋池
物部守屋の墓
物部守屋の墓

※社殿等

◎木の本社
 朱塗りの鳥居を入った先に拝殿が、その奥・透塀に囲まれた中に本殿が、東面して鎮座する。この社殿配置・建築様式は3社ともほぼ同じ。他に、戎神を祀る小祠があるのみ。

樟本神社(木の本)/鳥居
樟本神社(木の本)・鳥居
樟本神社(木の本)/拝殿
同・拝殿
樟本神社(木の本)/本殿側面
同・本殿側面
樟本神社(木の本)/本殿正面
同・本殿正面

◎南木の本社
 社殿が南面するだけで、社殿配置・様式は他2社と同じ。

樟本神社(南木の本)/鳥居
樟本神社(南木の本)・鳥居
樟本神社(南樟本)/拝殿
同・拝殿
樟本神社(南木の本)/本殿
同・本殿

*日羅禅寺
 拝殿右前に“日羅禅寺”(日羅寺)なる寺院の本堂がある。
 軒下に掲げる縁起によれば、
 「日羅寺は、敏達天皇卯年(583)日羅聖人が百済から帰朝して、天皇から阿都の桑木市(南木本村の旧地名)に土地を与えられて建立した寺で、薬師如来(伝聖徳太子作)を本尊とする」
とある(大意)

 日羅とは、百済王家に仕えた倭系百済人で、百済では二位達率という高位にあった人物。任那滅亡後、その復興を図る敏達天皇によって呼び戻され(583)、任那復興策についての意見を求められたが、その献策が百済に不利だったとして、同行してきた百済使臣によって暗殺されたという。
樟本神社(南木の本)/日羅禅寺
日羅禅寺・本堂
 日羅招聘および暗殺の経緯については、書紀・敏達天皇12年条に詳しいが、その中に
 「(天皇は)館を阿斗(阿都)桑市に営んで、日羅を住まわせ、願いのままに何でも支給された」
とあり、この阿斗桑市の館が日羅寺の前身であろう(現在地かどうかは不明)

 明治初年の神仏分離に際して、神社と寺院が同じ敷地に同居することはなくなったはずだが、当地では今もって同居している。
 境内入口に掲げる案内板によれば、
 「明治の排仏毀釈の中、樟本神社分社を境内に迎えることで残された」
とあり、神社の方が他所から移ってきたように解される。しかし、神社側史料に鎮座地が移転したとはみあたらない。
 また同じ案内に
 「ここ日羅寺は、物部守屋が籠もった稲城の跡に建てられた」
とある。とすれば、神社縁起にいう、“稲城趾は現光連寺境内”との記述と異なることになる。

◎北木の本社
 主要道路沿いにある神社だが、3社のなかで最もこぢんまりとしている。

樟本神社(北木の本)/鳥居
樟本神社(北木の本)・鳥居
樟本神社(北木の本)/拝殿
同・拝殿
樟本神社(北木の本)/本殿
同・本殿

*守屋首洗池
 境内に入ってすぐ右に小さな池(水は涸れている)があり、その前に“守屋首洗池”(だいぶ摩耗している)と刻した自然石の碑が立っている。当社社務所の壁に貼られた案内には、
 「(蘇我馬子らが物部守屋を攻めたとき)、聖徳太子が迹見赤擣に鏑矢をもって、物部守屋を射させたところ、その矢が守屋の胸に当たり、秦河勝がその首をとって、この池で洗って聖徳太子の見参に入れたという」
との伝承を記している。
 同じ、守屋の首洗池と称する古池が太子堂の大聖勝軍寺にもある。いずれも後世になっての創作であろう。ただ、聖徳太子が矢を射て守屋を倒したとの伝承は、金春禅竹(1405--71)の明宿集にもあり、室町の頃には広く知られていたらしい。

樟本神社(北木の本)/守屋首洗池の石碑
守屋首洗池の石碑
樟本神社(北木の本)/守屋首洗池
守屋首洗池

トップページへ戻る