トップページへ戻る

河内(若江郡)の式内社/彌刀神社
大阪府東大阪市近江堂1丁目
祭神−−速秋津日子神・速秋津比売神
                                                 2010.04.03参詣

 延喜式神名帳に『河内国若江郡 彌刀神社』とある式内社。
 社名の彌刀(弥刀)は“水戸・水門”が転じたもので“ミト”と読むが、彌栄(イヤサカ)の意味の“イヤト”と読むとする資料もある。鎮座地の地名・近江堂も、弥刀→水戸(ミナト)→大水戸(オオミナト・オオミト)→近江堂(オウミドウ)と転じたものという。

 近鉄大阪線・長瀬駅と弥刀駅の中間東側、長瀬駅の南ふたつめの踏切を東へ渡った突き当たりに鎮座する。

※創建由緒
 当社は、延喜式(927撰上)に名を連ねることから、平安以前からの歴史をもつ古社であるのは事実だが、その創建年次・由緒などは不明。

 当社由緒記(平成11年版)には、当地の地形や昔の小字名などからみて、
 「古い時代、この辺りで一番高い台地の上に、そう大きくない社が齋き祀られていたと思われる。・・・・神社から西に延びる参道が旧大和川(長瀬川)の東堤(右岸堤)まで達し、そこに船着場があり、水戸(ミナト)=弥刀であった。弥刀神社の祭神がミナト神であることと符合するのでなかろうか」(大意)
と記している。
 また、当地に伝わる伝承によれは、
 「神代の昔、この地が河海の水戸であったため、高天原より天の浮橋により天降られた神々が、大阪湾の入江であった河内潟から当地水戸に着き、水戸の神の許しを得て大和川筋をさかのぼり、大和へ入られた」
という(由緒略記)
 往古の当地が、旧大和川が河内潟に流入する河口(水戸)に位置し、そこに祀られていた水戸の神が当社の前身だったことを示唆する伝承だが、その具体の姿は不明。また、この伝承が何時頃のものかも不明。

 由緒略記には
 「天平宝宇6年(762) 大和川長瀬堤決壊(続日本紀) 激流により社殿悉く流出」
とある(続日本紀の同年(6月21日)条には、長瀬堤決壊およびその後の修造についての記述はあるが、当社についての記述はない)。延喜式に載るのは、その後、延喜式撰上までの間に再建されたのだろう。とすれば、当社は奈良時代から存在していたことになるが、それを証する史料はない。
 
 当社にかかわって、今に残る古い史料として河内志(1733)があるが、そこには
 「若江郡、弥刀神社、在近江堂村、今称天王」
とある。
 河内志とは、江戸中期の儒学者・並河誠所(1688--1738)がまとめた五畿内志の一書で、並河は、その頃既に分からなくなっていた畿内の式内社を調査研究し、当時存在していた神社に比定して廻ったという。ただ、その比定根拠についての記述がなく、その検証手法にも疑問があるといわれる。

 河内志の記述からみて、当社もまた、並河が、当地(若江郡近江堂村)にあった牛頭天王社を式内・弥刀神社と比定したものだろうが、その根拠は不明。あるいは上記伝承などを根拠としたのかもしれない。

※祭神
 今の祭神は速秋津日子(ハヤアキツヒコ)・速秋津比売(ハヤアキツヒメ)というが、神名帳考証(1813)などの古資料には“祭神不詳”とある。また上述のように、河内志に「近江堂村に在り 今 天王と称す」とあることから、江戸期までは牛頭天王(ゴズテンノウ・現八坂神社の前身・祇園社の祭神)を祀る社として崇拝されていたらしい。
 しかし、“牛頭天王”とは、江戸時代に流行した疫病除け・災難除けの神であって、当社本来の祭神ではない。
 ゴズテンノウは、明治初年の神仏分離政策によって邪神として排斥されたため、ゴズテンノウを祀っていた各社とも、祭神をゴズテンノウと同体とされるスサノヲに変更するか、新たに別の祭神とするかの選択を迫られているが、当社もその一社であろう。

 残存する資料の中で、当社祭神をハヤアキツヒコ・ヒメと記した嚆矢は、明治12年(1879)の大阪府神社財産登録というが、同7年(1874)の河泉神社記には、「祭る所未詳 俗に進之男命(スサノヲ)と称す」とあり、ゴズテンノウと同体とされるスサノヲを挙げている。新たな祭神を決めるのに混乱があったらしい。

 ハヤアキツヒコ・ヒメとは、イザナギ・イザナミ双神による国生みの段に、
 「既に国を生みおえて、更に神を生みき。生みし神の名は・・・次に水戸の神、名はハヤアキツヒコ神、次に妹ハヤアキツヒメ神を生みき」(古事記、書紀には速秋津日命とある)
とある神で、水戸(ミナト)の守護神とされ、また罪穢れを祓う祓除の神ともいう(祝詞・大祓詞には、「速川の瀬においでのセオリツヒメが大海原に流しやった罪穢れを、大海原においでのハヤアキツヒメがガブガブと飲み込んでしまわれるであろう、・・・」(大意)とある)

 ただ、この神が往古からの祭神だったかどうかは不明。社名・弥刀が水戸の神に通じることから、明治初年の祭神名改変にあたって新たに持ちこまれた神かもしれない(この時、それまでの祭神を記紀などに載る由緒ある神に変えた事例は多いという)

 当社の祭神がはっきりしない理由として、当社の祭祀氏族(居住氏族)が不明であるのも一因という(式内社調査報告)。ただ、由緒略記によれば、
 「布施市史に、この地が若江郡の豪族−美努氏(ミヌ)の本貫として栄えたのではないか、とある」
という。
 美努氏とは、新撰姓氏禄(815)
 「河内国神別(天神) 美努連 角凝魂命(ツヌコリムスビ)四世孫天湯川田奈命(アメノユカワタナ)之後也」
とある氏族で、ツヌコリムスヒ命は古事記・別天神五柱の一・カミムスヒの御子とされる神で、雄儀氏・美努氏・鳥取氏・額田部氏などの祖神という。
 その四世(三世ともいう)孫・アメノユカワタナは、書紀・垂仁記(23年条)に、皇子・ホムツワケがものをいうきっかけとなった白鳥を出雲まで追って行き、これを捕らえて献上し、これによって皇子はものがいえるようになった。天皇は喜んで鳥取造(トトリノミヤツコ)の姓を与えた(大意)、との説話があり、鳥取部の祖とされる。なお鳥取部の本拠は、和泉国の日根郡鳥取郷という。
 この両神を祭神とする式内社・御野県主神社が、当社の東南約3km(八尾市上之島町)にあり、その辺りが河内国における本拠だったようだが、近いとはいえ当社(当地)との関係は不明。

※社殿等
 当社敷地は東西に長い方形区画で、西側の鳥居(昭和44再建)をくぐり、板石敷きの参道(南側は近江堂公園)を進んだ奥に拝殿(入母屋造・銅板葺)、その奥(東)、透かし塀に囲まれた一段高い神域に本殿(春日造・銅板葺)と摂社・八坂神社(春日造・萱葺)が鎮座する。
 なお、社殿左側を抜けた境内北東隅に、東側鳥居(天保11-1840建)が立つ。

弥刀神社/西側鳥居
弥刀神社・西側鳥居
弥刀神社/拝殿
同・拝殿
弥刀神社/本殿
同・本殿

◎摂末社 

 ・八坂神社−−摂社(東大阪市指定有形文化財・昭和49年指定)
   祭神−−須佐之男命(=ゴズテンノウ)
  江戸時代に信仰された牛頭天王社の後継社で、由緒略記には、
  「本社と同じ微高地に透塀の玉垣内にあり、これによって当時この摂社が主神として尊信されていたのを示すものではないかと思われる」
とある。
 ゴズテンノウは江戸時代の流行神で、古代の民衆にとって、難しい名前の記紀の神より、疫病除けというご利益を与えてくれるゴズテンノウの方が、より身近な神として信仰されたのであろう。
 木造の一間社春日造、桁行3尺・梁間3.7尺。社殿を彩っていた極彩色は殆ど落剥しているが、江戸中期元禄の頃の様式を残しているという。
弥刀神社/摂社・八坂神社
 ・常世神社(トコヨ)−−末社
  祭神−−大己貴命(オオナムチ=オオモノヌシ=オオクニヌシ)
 境内右手に鎮座する小祠。
 地元に伝わる伝承では、
 「オオナムチが出雲国から国拓きのため難波の岬を経て河海の水戸に着き、この地にあった大きな石(今社殿の下にある)の上に登り、遙かに大和国を眺め、国拓きを決意し、水戸の神の許しを得て大和川をさかのぼり大和に入られ、オオモノヌシとして三輪山に祀られた。
 この故事によって、人々はオオナムチを祀る神社をこの地に建てて常世神社と名づけ、農耕・医療・禁厭の神として尊信したのが当社の始まり」
という(由緒略記)
 なお、古代人にとっての常世とは、神々や祖霊が住む理想郷で、不老長寿の国・富の国とされた神話上の世界をいう。
 オオナムチを直接に常世の神とした事例はみあたらないが、記紀神話に、“オオナムチの国造りに協力するため、海を光り輝かせてやってきた神は、オオナムチの幸魂・奇魂で、今、御諸山に祀られる”とあることから、三輪山の神・オオモノヌシは常世から来たともいえる。
弥刀神社/末社・常世神社

トップページへ戻る