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河内(若江郡)の式内社/仲村神社
大阪府東大阪市菱江2丁目
祭神−−己己都牟須比命
                                                                2010.04.28参詣

 延喜式神名帳(927)に、『河内国若江郡 中村神社』とある式内社。延喜式には“中村神社”とあるが、今、当社では“仲村神社”と称している。

 大阪市都心部を東西に貫く地下鉄・中央線から続く、近鉄けいはんな線・荒本駅の東南約700mに鎮座する。駅の東約300mの河内中野南交差点を南へ約400m・菱江口交差点を東へ入ったすぐに位置する。

※祭神
 祭神・己々都牟須比命は“ココトムスヒ”と読む(興台産霊命とも記し、コトドムスヒが本訓ともいう−折口信夫)

 ココトムスヒは、中臣氏(藤原氏)の祖神・天児屋根命(アメノコヤネ)の親神とされ、日本書紀・天岩屋段(一書3)
 「中臣氏の遠い先祖・興台産霊の子・天児屋命を遣わして云々」
とある。“コトド”(ココト)とは呪言(言葉)のもつ呪力・“ムスヒ”はそれを活発化させる霊(力)を意味し、コトド(ココト)ムスヒは言霊(コトダマ)の神とされることから、神と人間との間を仲介し祝詞奏上に携わった中臣氏の祖神に加上されたのであろう。

 当社では、新撰姓氏禄(815)
 「左京神別(天神) 中村連  己々都生須比命子天児屋根命之後也」
とある中村連(ムラジ)が、その祖神として祀ったものという。
 ただ、姓氏禄いう中村連は左京(山城国)居住の氏族であり、河内国居住の氏族ではない。また姓氏禄の河内国には中村連の名は見えない。しかし、中河内一帯、特に河内郡は中臣氏の本貫(出身地)とされることから、その一族と称する中村氏が当地に居たことは推察されるが、それを証する史料はみあたらない。

 ただ、中臣氏系氏族にかかわる神社は、通常、祭神を祖神・アメノコヤネとするにもかかわらず、当社のがその父・ココトムスヒを祖神とするのは解せず、そこには何らかの作為が感じられる。

 また、江戸時代の古書・河内志(1733)や河内名所図会(1801)には祭神名が記載されておらず、“祭神名不詳”とするもの(神社覈録・明治3-1870)、“アメノコヤネ”とするもの(神名帳考証・文化10-1813)、“祭神アメノコヤネ、今ココトムスヒと称する”(河泉神社記・明治6-1873)とするものもあり、ココトムスヒが祭神として定着したのは明治以降とも推察される。

※創建由緒
 当社案内には、
 「千年を越える古い歴史を持ち、その創建は、当社の御祭神より分かれた藤原氏・中臣氏と並ぶ《中村連氏族》によつて、その氏神として奉斎されたことに始まり、近世には菱江村の氏神様となり、云々」
とあるが、確たる創建年代は不詳。
 ただ、大阪府誌(明治36-1903)他の資料に、
 「清和天皇・貞観9年(867)2月26日丙申 以河内国若江郡中村神 預官社」(三代実録・901)
とあることからみて、9世紀中葉に官社として認められていたことは確かで、為に延喜式(927撰上)に記されたのであろう。

 その後の経緯は不詳だが、
 「足利時代・天文の頃(1532--55)に、火災によって社殿悉く烏有に帰したが、その後、境内の水辺(現菱澤池)の水辺に榊木が発生した。朝廷にこれを報告したところ大変喜ばれ、社殿を再建し、仲村三十八明神の社名を賜った」
との伝承があるという(式内社調査報告・1979)。三十八明神の意味は不詳。

 近世以降は、菱江村の氏神であるとともに、疱瘡(天然痘)の神として庶民の信仰を集め、近在はもとより大阪市内からも参詣者を集めたという。

※社殿等
 道路脇の大鳥居を入って、右に折れた先に朱塗りの鳥居が立ち、その先に拝殿・本殿が建つ。
 本殿は方四尺六寸(約1.4m)の春日造というが、今、覆屋の中に収められていて実見できない。

 大鳥居を入った右手に朱塗りの鳥居が立つ。稲荷社でもないのに朱塗りの鳥居とは珍しいが、社頭の案内には
 「淡路洲本の住民・陶山与一左衛門長之が病気平癒を祈願し、目出度く完治したので、朱塗りの鳥居一基を寄進した(元文3-1739)
とある。この陶山某は阿波藩主蜂須賀侯の家臣で、この時鳥居と一緒に社殿をも造営し、本殿前の石段に寄進銘があるともいうが(式内社調査報告)、確認していない。

仲村神社/鳥居
仲村神社・鳥居
仲村神社/朱の鳥居
同・朱の鳥居
仲村神社/拝殿
同・拝殿
仲村神社/本殿覆屋
同・本殿覆屋

◎末社
 社頭の案内には、末社として“琴平神社”(琴平大神)・“菱江稲荷神社”(ウカノミタマ)の2社を記すが、今、社殿右に“歯神社”(ご神体は石)・“琴平神社”・“空八龍王神社”(石祠)が並び、菱澤池の前に“水神社”がある。“稲荷神社”は社殿の左にあり。

仲村神社/末社・歯神社
末社・歯神社
仲村神社/末社・琴平社
末社・琴平社
仲村神社/末社・空八流王社
末社・空八龍王社
仲村神社/末社・水神社
末社・水神社
 

◎菱澤池
 境内右奥に、金網で囲まれて『菱澤池』がある。
 池の傍らに立つ 案内によれば、
 「当社は疱瘡平癒に験ありと信仰されたが、その祈願をするときは必ず禊ぎをした。大和川(菱江川)に入り斎戒沐浴して川瀬祓いをおこない、社殿の軒下の雨だれの砂を頂き、これを袋に入れて腰に下げてお守りとした。
 ところが、大和川が付け替えられて流れがなくなり、その後は、境内の菱沢池に入って禊ぎをして、澤辺祓いをしたとされるが、この風習も大正時代にはなくなったという」
とある。
 当社が、もともと北流する古大和川支流の川筋にあったことからの風習で、神詣りに先立って“物忌み”としての斎戒沐浴・禊ぎをしたことを示すが、今、これを心情的に引き継ぐのが、参詣に先立っておこなう手水であり、境内入口の小川に橋が架かっているのも、橋を渡ることで禊ぎに変えたものともいう

 今は水が涸れ、コンクリートで固められた池底むき出しで、何らの風情もない。
仲村神社/菱澤池
菱澤池
(池は涸れている)

◎石燈籠
 境内には、古い石燈籠が数基立っている。

 案内によれば、
 「寛政4年(1792)、大阪城代・紀朝臣正順が疫病(疱瘡か)の流行を畏れ、庶民のために当社に祈願し、その謝恩として寄進したとされる石燈籠一対がある」
というが、いずれの灯籠も紀年銘が摩耗していて判読不能。
 また、灯籠基部に“仲村宮”と刻したものもあり、当社が古くから仲村宮と呼ばれていたことを示している。

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