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河内(高安郡)の式内社/恩智神社

大阪府八尾市恩智中町5丁目
祭神--大御食津彦大神・大御食津姫大神
                                                                 2010.06.10参詣

 延喜式神名帳に、『河内国高安郡 恩智神社二座 並名神大 月次相嘗新嘗』とある式内社で、曾て“河内二之宮”と呼ばれた大社。

 近鉄大阪線・恩智駅の東南東約1.2km、恩智駅南の八尾茨木線を東へ府道170号線(旧東高野街道)を越えて直進、生駒山系恩智山の中腹に鎮座する。現在地は建武年間(1334--37)の遷座によるもので、曾ては約800m西の“天王の森”にあったという(後述)

※祭神
 当社由緒略記には
  大御食津彦大神(オオミケツヒコ)--天児屋根命(アメノコヤネ)五世の孫
  大御食津姫大神(オオミケツヒメ)--伊勢神宮外宮の祭神豊受姫(トヨウケヒメ)大神異名同神
とある。
 この両神について、文徳実録(876)・嘉祥3年(850)条に、
 「河内国恩智大御食津彦神・恩智大御食津姫神等並正三位」
とあり、また三代実録(901)・貞観元年(859)条にも
 「奉授河内国正三位勲六等恩智大御食津比古神・恩智大御食津比咩神並従二位」
とあるから、古くから、この両神が祭神とされていたことが知られる。

 ただ由緒略記には、
 「総国風土記には、『恩智神社・・・祭る所は手力雄神也、雄略天皇三年佳田を奉じ神事を行ふ』と記されている。
 奈良時代(天平宝宇・757-65)に藤原氏により再建されてより、藤原氏の祖神であるアメノコヤネを常陸国(現香取神宮)より分霊を奉還し、摂社として建立した。その後、宝亀年中(770--80)に枚岡(枚岡神社)を経て奈良(春日大社)に祀った。従って、当社は元春日と呼ばれる所以である」
とある。
 前段の記述をみると、当社元々の祭神は手力雄命(タジカラオ)ともとれるが、総国風土記が何処の風土記を指すのか不明。下総国(or上総国)風土記かもしれないが、手持ちの上総・下総国風土記には恩智神社云々の記述はない(未知の断片か)。また、当社にかかわる諸史料にタジカラオの名は見えない。

 また、大阪府誌(明36-1903)には
 「社伝によれば、創建の年代は遠く白鳳(672--82)の昔に在りて、最初はアメノコヤネを祀りしが、景雲年中(神護景雲・767--70)に至りて之を枚岡に移し(或いは奈良春日といふ)、後オオミケツヒコ・オオミケツヒメの二座を祀るに至りしものなりといふ」
とあり、明治まで当社の神職であった大東家では、
 「遠く白鳳の時代、春日明神が常陸国から河内国の恩智へ鎮座されたとき、先祖の左近が大東家を名乗って供奉し、神職を勤めた。景雲2年(神護景雲2年・768)の頃になって、春日明神が大和国へ移られた。この時、アメノコヤネの代わりにオオミケツヒコ・ヒメを祀るようになった」(大意)
との伝承を伝えている(式内社調査報告・1979)
 いずれも、元々の祭神・アメノコヤネは常陸国から勧請した神であり、これが奈良・春日(あるいは枚岡)へ移ったのちに現祭神に替わったと記している。

 しかし、当伝承は恩智社独特のものであり、そこには幾つかの疑問点がある。
 ・アメノコヤネを勧請したという常陸国とは、鹿島神宮を指すと思われるが、鹿島社の祭神にアメノコヤネはみえない(現地に残る古伝承にもみえない)
 ・また由緒に常陸(現香取神宮)とあるのも、おかしい。香取の神は物部氏系のフツヌシであり、ここにもアメノコヤネは見えない(今、香取には相殿神として鹿島神らとともにアメノコヤネを祀るともいうが-現地未確認、これは香取神が藤原氏の氏神とされた後のことであろう。又、香取社は下総国であって常陸国ではない)
 ・中臣氏の祖神であるアメノコヤネは、枚岡神社に祀るというのが一般の理解で、当伝承以外に、枚岡社以前に当社に坐したとの伝承はなく、また当社と枚岡社を結ぶ史料はない。
 ・神護景雲2年、アメノコヤネを当社から奈良・春日に遷した(枚岡を経由して奈良に遷した)というが、アメノコヤネは鹿島神の春日遷座にあわせて枚岡から遷したとするのが定説で、それ以前に恩智にあったとの伝承はみえない。
 ・当社元々の社家は恩智神主家といわれ、中臣氏系図では、アメノコヤネ五世孫・大御食津臣命(オオミケツオミ・大御気津臣とも記す)の子・大期弊美命の後裔とするが、新撰姓氏禄(815)・河内国神別では「高魂命子伊久魂命之後」とあり、イクタマ命は鴨氏系図にタカミムスヒ命の子として出ている。系図に混乱があるようだが、諸氏の出自をまとめたとされる姓氏禄を信ずれば、アメノコヤネ(中臣氏)とは関係しない。

 これらのことから、当伝承の成立時期が問題視され、式内社調査報告には
 「奈良春日大社の社家だった大東氏が、何らかの関係で当社の社家になり、当社の摂社として春日神を祀るようになった以降に作られた伝承で、それは中世以降ではないか。
 これは、枚岡社の伝承にならって考え出されたもので、中世以降の恩智社の衰微を、こうした伝承で挽回しようとしたものかもしれない」(大意)
とあり、当伝承に疑問を呈している。

 確かに、中臣氏系図によれば、アメノコヤネの5世孫に“大御食津臣”(オオミケツオミ)との人物がみえ、主祭神・オオミケツ彦を一字違いのオオミケツオ臣と同体として、中臣氏祖神とするのだろう。
 しかし、オオミケツヒコ・ヒメ両神に共通する神名・ミケツ(御饌都)とは、ウケモチ・ウカノミタマ・トヨウケヒメといった食物の神・稲作の神(穀神)を総称した神名で、古史料が
 「恩智神社二座・・・蓋し御食の事を知り給ひて大なる功坐す神也」(神祇志料・1871)
 「オオミケツヒコ命・オオミケツヒメ命を祀る。蓋し保食神(ウケモチ)の同霊なり」(大阪府史蹟名勝天然記念物・1928)
というように、オオミケツヒコはアメノコヤネの後裔というより、食物神・穀神とするのが本来の姿ではなかろうか。

 一方、中臣氏との関係を重視するのであれば、恩智大明神縁起(1676)にいうように
 「河内国高安郡恩智社二座 其一則アメノコヤネ尊、其一則ミケツオミ尊」
とするのが、本来の姿であろう。

※創建由緒
 当社の確たる創建年代は不詳。
 ただ、旧社地(現御旅所)とされる“天王の森”(約600m西・恩智駅と旧東高野街道との中間)一帯からは、縄文後期後半から弥生時代にかけての土器等が出土する大規模遺跡で、弥生中期頃に最盛期を迎えた当地の住民たちの聖地・祭祀場ではなかったかという。
 この古代の祭祀場を継承するのが当社とすれば、その祭神も、中臣氏の祖神・アメノコヤネというより、豊かな穀物の稔りを祈願する穀神・ミケツカミを祀るとするのが順当であろう。

 当社創建にかかわる伝説として、恩智大明神縁起には
 「神功皇后の朝鮮出兵のとき、住吉の神と恩智の神が海上に顕れ、住吉神が先鋒に、恩智神が後衛となって皇后の船を守護し、異敵征伐に功があったので、皇后凱旋後、恩智の神は高安の七郷を賜った」(大意)
と記している。
 神功皇后云々とは一つの伝承に過ぎないが、神祇令義解(養老令-718-の注釈書・834成立)・相嘗祭条に
 「(相嘗祭に預かる大社は)大倭・住吉・大神・穴師・恩智・意富・葛木鴨・紀伊国日前神等類是也」
とあるように、奈良時代初期から大倭・住吉・大神といった著名な名神大社とともに相嘗祭の幣帛をうける大社(官社)として知られ、平安時代になると、祭神二座に従二位が昇叙され(貞観元年・上記)、同年、山城国月読神以下の45社とともに風雨祈願がおこなわれ、その後も平安時代全般にわたって祈雨・止雨・除疫病などにかかわる幣帛祈願を受けている。
 季節の順調な循環と五穀豊穣の祈願社として知られていたといえる。

◎天王の森--御旅所、境外末社・八坂神社
 近鉄・恩智駅から神社へ向かう道の右側(南側)にある(旧東高野街道までの間)、ちょっとした広場が“天王の森”で、この辺りは古代の恩智遺跡の跡とされ、道路際に「恩智石器時代遺跡」との石碑が立っている。
 当天王の森は、恩智神社の旧鎮座地といわれ、今、御旅所となっている。

 恩智神社鎮座地の移動について、伝承では
 「南北朝時代(1334--92)、当地の豪族で恩智神社の社家でもあった恩智左近満一が当地・城山に城を築いたとき、神社を下に見下ろすことになったため、神社を城より上方の現在地に遷した」
という。当地の東、少し高くなったところに恩智城趾(現恩智城趾公園)が残ることから、この伝承には信憑性がある。
 恩智左近満一 とは、南北朝時代、楠木正成に従った南朝方の武将で、正成やその子・正行に従って各地に転戦したが、延元2年(1337)熱病により死亡したという(恩智左近の墓・説明板)。恩智中町 5丁目の旧東高野街道近くに墓所があり、“贈四位 恩智左近満一之墓”との石碑が立っている。

 当地は天王の森と呼ばれるように、曾ては樹木繁茂の地だったようだが、今は周囲に樹木は列するものの、何もない広場と化し、西端の玉垣に囲まれた覆屋のなかに小さな祠が鎮座している。
 今、恩智神社の境外末社となっている「八坂神社」で、祭神は“素盞鳴命”。門柱に“頓宮”・“祇園社”と、社前の石燈籠に“牛頭天王”とあるように、明治以前は“牛頭天王”が祭神で、明治の神仏分離に際して祭神名を変更している。

 このゴズテンノウ祭祀について、当社由緒略記には
 「織田信長が高安城を攻めたとき(16世紀後半)、城主が恩智神社に援軍を要請し、これを受けた恩智神主軍が信長軍を敗走せしめた。これを怒った信長が神社に火を放たせ、本殿奥の院まで焼失した。その後、信長の命により、天王森に祇園社を創建しゴズテンノウを奉祀した」(大意)
とある。
 これによれば、恩智におけるゴズテンノウ祭祀は信長の命により天王の森に始まったとなるが、恩智社代々云伝書(1675)には、
   一之御殿御本地 牛頭天王・婆利采女・文殊・普賢
とあり、オオミケツヒコの本地としてゴズテンノウとその后・ハリサイジョを挙げている。江戸初期の頃(あるいは信長以前)、当時の流行でもあった防疫神・ゴズテンノウを勧請していたとも考えられ、この後継社が天王の森の八坂神社かもしれない。

 なお、このゴズテンノウ祭祀について、当地には
 「織田信長と松永弾正とが争ったとき(1577頃)、恩智の社葬が松永に味方したため、神社が焼かれた。村人が代官に訴えると、恩智社はゴズテンノウを祀っていないために焼いた、といわれた。この為、それ以来ゴズテンノウを祀った」
との伝承がある、という(式内社調査報告)
 この伝承は、信長がゴズテンノウを信仰していたから、ゴズテンノウを祀っていない神社は全て焼かれたという伝承で、同種の伝承が摂津・河内の数多くの神社に残っている。ただ、信長のゴズテンノウ信仰云々が事実かどうかは疑問。明治以降、ゴズテンノウが邪神として排斥された頃に創られた、言い訳めいた伝承であろう。

恩智神社・旧社地/天王の森
天王の森
恩智神社・旧社地/天王の森・八坂社
同・八坂神社

※社殿等
 府道170号線(旧東高野街道)脇の“一の鳥居”(稚児柱をもつ両部鳥居)を過ぎ、民家にはさまれた参道を進み、細い川に架かる“一のはし”を渡り、「府社 恩智神社」との石標を過ぎて、樹木にはさまれた長い石段を登った上に社殿が建つ。
 拝殿・本殿の配置などは、江戸時代刊(享和元年・1801)の河内名所図会・恩智社の図とほぼ同じ。

 境内正面に東面して拝殿が、その奥・透塀に囲まれた神域内にオオミケツヒコ・ヒメを祀る本殿2社が、2社の間に末社・天川神社が鎮座する。
 本殿--王子造の切妻形式・木造銅板葺・間口一間・奥行一間
       木造檜皮葺だった元の社殿の造営年代は不明だが、宮普請記などから宝暦6年(1756)頃と推測されるという。
       銅板葺に改造された時期は不明。
 拝殿--木造銅板葺・間口六間・奥行三間

恩智神社/大鳥居
恩智神社・大鳥居
恩智神社/石段入口
同・参道(石段)入口
河内名所図会/恩智社の図
河内名所図会・恩智社の図
恩智神社/拝殿
恩智神社・拝殿
恩智神社/神域中門
同・神域中門
(背後の社殿はオオミケツヒコ社)
恩智神社/大御食津社本殿
同・大御食津彦社本殿
(オオミケツヒメ社も同形)

◎摂末社
 当社由緒略記には摂末社12社と頓宮が記され、社殿左手に摂社・春日神社、末社・愛宕神社・三輪神社・6社合祀殿が並び、境内右手に末社・舟戸社と稲荷社とが、また、境内右手に祖霊社その奥に八大竜王社がある。

・摂社-春日神社(天児屋根命)
   社殿左手に鎮座する末社群の左端に鎮座する。
   祠前の石標には、『元春日神社 天児屋根命』とある。
   最初に祀られたというアメノコヤネが、枚岡(あるいは奈良・春日)へ遷座した後も摂社として残された社らしいが、上記のように、この社伝の信憑性には疑問が投げられている。
   春日社の社家・大東氏が当社の社家になったことから、春日大社から勧請されたものと思われ、当社と春日大社との関係を示唆する社といえる。

・末社-天川神社(春日辺大明神)
 末社とはいうものの、神域内に本殿2社にはさまれて鎮座することから、特別な神社と思われるが、由緒・鎮座時期など詳細不明。600~700m奥の尼川山(奥の院)に祀られていたものを、明治に入って(明治元年・1868ともいう)末社として境内に祀られたともいうが、小字名の消失、地理不案内のため、尼川山が何処を指すのか不明。
 ただ、恩智神社の宮寺を“尼川山神宮寺”(現感応寺-当社石段脇にあり)ということから、尼川山と恩智神社とは何らかの関係があったものと思われ、社名もテンカワではなく、アマカワと呼ぶのであろう。

 祭神・春日辺大明神とは春日戸神(カスガベ)のことで、渡来系氏族ともいわれる春日戸氏が奉祀する神とされるが、詳細不明。春日を名乗るが春日大社とは関係ないらしい。
 延喜式によれば、当社の北約700mにある式内・天照大神高座神社は元春日戸神社とも称し、本来の祭神は春日戸神とも推測されている(別項「天照大神高座神社」参照)。同じ春日戸神を祀ることから、当社をもって式内・天照大神高座神社に当てる説もあるという。

 とはいえ、恩智社との関係ならびに祭神ともに詳細不明というのに、神域内に祀られるという摩訶不思議な神社である。。

恩智神社/摂社・春日神社
摂社・春日神社
恩智神社/末社・天川神社
末社・天川神社

・6社合祀殿
 社殿左の末社群の一番奥にある社殿で
  天照大神社(天照皇大神)・玉祖神社(櫛明玉命)・蛭子神社(事代主命)・熊野神社(熊野櫲日命)
   ・安閑神社(安閑天皇)・住吉神社(住吉大明神)
を合祀する覆屋のなかに、小祠6棟が並んでいる。

 合祀殿の左、春日神社との間に
 ・愛宕神社(伊奘冉尊)・三輪神社(大物主大神)
がある。
 いずれも、その鎮座由緒など不明。

恩智神社/末社・合祀殿
末社・6社合祀殿
恩智神社/末社・愛宕社
末社・愛宕社
恩智神社/末社・三輪社
末社・三輪社

※その他

恩智城趾(公園)
恩智城趾(公園)
恩智城趾の碑
恩智城趾の碑
恩智左近満一の墓
恩智左近満一の墓

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