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河内(若江郡)の式内社/渋川神社
大阪府八尾市植松町3丁目
祭神−−天忍穂耳尊・饒速日命
併祭神−−国狭槌尊・日高大神・菅原道真
                                                              2010.05.30参詣

 延喜式神名帳に、『河内国若江郡 澁川神社二座』とある式内社。今の鎮座地は旧河内国渋川郡内に位置するが、これは室町時代に旧大和川の右岸(東側・若江郡)から左岸(西側・渋川郡)へ移転したため。

 JR関西線・八尾駅の南すぐ、密集市街地のなかにある古社で、家並み越しに見える鎮守の森が目印。

※祭神
 当社略記には、
 「祭神・天忍穂耳尊(アメノオシホミミ)、また饒速日命(ニギハヤヒ)は物部氏・中臣氏・忌部氏の祖神といわれ、とりわけ物部氏の本貫地が、当地附近と推測されることから、当社に祖神を祀ったと考えられる」
とある。
 略記にいうように、当地附近には物部氏にかかわる伝承が多々あり、物部氏の祖神を祀る神社か幾つかみられ、当社のその一社。

 今、主祭神としてアメノオシホミミとニギハヤヒを挙げている。アメノオシホミミとはアマテラスの御子で、皇孫・ホノニニギ尊の父として記紀皇統譜に登場するが、ニギハヤヒは天孫とはいうものの皇統譜には見えず、アメノオシホミミとのつながりはない(書紀・一書8にいう、ホノニニギの兄・天照国照彦火明命をニギハヤヒに当てる説もある)
 しかし、物部氏系の史書・先代旧事本紀(天神本紀)では、アメノオシホミミの御子(天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊)とされることから、これをうけて、両神ともに物部氏の遠祖として祀ったのであろう。

 当地と物部氏との係わりについて、日本書紀・崇峻天皇2年(587)秋7月条に、
 「蘇我馬子が物部守屋を滅ぼそうと謀った。泊瀬部皇子・厩戸皇子(後の聖徳太子)といった諸皇子と群臣等は軍兵をつれて、志紀郡から守屋の渋河の家に至った。守屋は子弟と奴の兵士たちを率いて、稲を積んだ砦を築いて戦った」(大意)
とあり、ここでいう“守屋の渋河の家”が当渋川の辺り(現植松・安中・渋川町附近)にあったというが、先代旧事本紀に渋川の地名が見えず、書紀・用明天皇2年(586)条に、
 「守屋が、別業のある河内の阿都(阿刀・当社の西約1.8km・現跡部本町・亀井町付近)にしりぞいて人を集めた」
とある阿刀(当地の西約1km強の辺り)がこれに当たるともいう。

 これらのことから、当社は物部氏がその祖神を祀ったとされ、大阪府誌(1903)など明治中期以降の史料は、祭神・アメノオシホミミ・ニギハヤヒとする。

 この辺り一帯は物部氏・特に物部守屋との関係が深く、守屋に関連する伝承をもつ式内社として「跡部神社(亀井町)・「樟本神社(木本町)があり、また“物部守屋大連墳”(東太子堂)・“守屋首洗池”(樟本神社境内)などがある。

 これに対して
 ・中世には“植松大明神”と呼ばれていて、特定の神名が詳かでないこと、
 ・江戸時代の河内名所図会(1801)・河内志(1803)に、「(渋川郡)在植松村 今称天神 」とあり、天神社と呼ばれていたこと、
 ・祭神不詳・アメノオシホミミ・ニギハヤヒは土地に伝わる俗称ともいうこと(大日本神祇志・河泉神社記)
などから、当社本来の祭神は不詳ともいう(式内社調査報告1979)

 併祭神3座は、いずれも明治5年(1872)4月に合祀されたもの。
 ・国狭槌命(クニノサツチ)−−相生町にあった比枝神社を合祀(明治15年旧地に復帰というが、市販の地図には見えず)
 ・日高大神−−高町にあった狐山(現八尾高校校庭にあったという)の神を合祀
 ・菅原道真−−旧渋川村の渋川天神社を合祀(明治13年旧地に復帰−渋川町5丁目にあり)

※創建由緒
 当社略記によれば、
 「創建の時期は詳びらかではないが、天平勝宝8年(756)2月孝謙天皇から稲穀を賜る(続日本紀)、・・・」
とあり、8世紀中ごろからあった古社だという。
 孝謙天皇(749--58)云々とは、続日本紀・天平勝宝8年(756)条に記す
 「2月28日 大雨が降った。河内国の諸社の祝(ハフリ)・禰宜(ネギ)ら百十八人に、地位に応じて正税(稲)を賜った」
をうけたものだろうが、稲を賜った河内国諸社の神社名は記されておらず、当社が含まれていたかどうかは不明。
 ただ続日本紀・称徳天皇(764--70・孝謙重祚)神護景雲3年(769)条に、
 「10月17日 天皇がさらに進んで由義宮(ユゲ)に行幸した」
とあり、そのとき近くにあった龍華寺に参詣したともいわれ、当社は龍華寺の傍らにあったのではといわれる当社も、由義宮との関係から賜稲の対象になったと推測される。
由義宮−−称徳天皇が重用した弓削道鏡の本拠地(現弓削町付近−由義は弓削の佳字)に設けた宮で、西京とも呼ばれ何度か行幸されているが、天皇の逝去と道鏡の失脚により廃されたという。当社の東約1.6kmにある由義神社(八尾木北5丁目)がその跡とされるが、確証はない。

 神仏習合期には、龍華寺は当社の宮寺(神宮寺)的存在だったといわれ、植松大明神(祭神名は忘れられていたらしい)として、寺僧による祭祀が行われたという。

 今、当社は旧大和川(現長瀬川)左岸に位置するが、古くは右岸の安中町(現安中小学校東南附近)にあったといわれ、当社略記には
 「天文2年(1533)5月の旧大和川大洪水によって、社殿はいうまでもなく、民家も多く流失した。
 これを機に、植松村そのものが右岸の若江郡から左岸の渋川郡へ移転し、神社もまた元亀3・4年頃(1572)に、御幸地の御旅所であった現在地に遷宮になったと伝えられている」
とある。延喜式に若江郡とあることからみて、鎮座地を移動したのは確かであろう。

 江戸時代中期には、東西30間南北40間という広大な境内を有して天神社と呼ばれ、社の南にあった宮寺(龍華寺消滅後建立された寺・真言宗系)の僧侶による祭祀が続いていたが、明治の神仏分離により寺は廃絶し、神社は渋川神社と改称したという。鳥居のすぐ外の辺りが宮寺の跡というが、今その痕跡はみえない。

※社殿等
 境内中央、〆柱の先に拝殿が、透塀に囲まれた中に本殿が鎮座する。
 ・本殿−−流造・間口一間三尺
 ・拝殿−−入母屋造
 境内に、寛永12年(1635)8月銘・元文5年庚申(1740)銘の石燈籠各1基あり。

渋川神社/鳥居
渋川神社・鳥居
渋川神社/拝殿
同・拝殿
渋川神社/本殿
同・本殿

◎末社
 境内左に同型の末社5祠が並ぶ。左から
 ・皇大神宮−−天照大神
 ・春日神社−−天児屋根命・武甕槌命・経津主命・比淘蜷_
 ・浮島神社−−浮島神
 ・琴平神社−−金山彦命
 ・厳島神社−−市杵島姫命

 いずれも古くからの末社らしいが、その鎮座時期・由緒など不明。
渋川神社/末社群
渋川神社・末社群
(5基の小祠が並ぶ)
渋川神社/末社・浮島社
その一社・浮島社

 ・龍王社−−天御柱命・国御柱命−−本殿背後(龍王社というものの池などはない・大だいぶ荒れている)
 ・稲荷社−−保食命−−境内左奥
 ・楠 社−−宇迦魂命−−境内右奥に大楠(H=16m・幹廻約7m・樹齢千年・大阪府指定天然記念物)があり、その根元に鎮座する。

渋川神社/末社・龍王社
渋川神社・末社・龍王社
渋川神社/末社・楠社
同・末社・楠社
(右が大楠)
渋川神社/大楠
渋川神社・大楠

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