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河内(高安郡)の式内社/天照大神高座神社
付−−岩戸神社
大阪府八尾市教興寺
祭神−−天照大神・高皇産霊大神
                                                          2010.06.10参詣

 延喜式神名帳に、『河内国高安郡 天照大神高座神社二座 並大 月次新嘗 元名春日戸神』とある式内社。
 社名は“アマテラスオオカミ タカクラ神社”と読むが、アマテラスオオカミ タカクラカミの社とも読める。

 近鉄大阪線・恩智駅の東北東約1.5km、生駒山系高安山(488m)の西南山腹の八尾市教興寺集落の東に位置する。
 恩智駅の東を南北に通る府道170号線を北上、南高安小前の交差点を東へ道なりに約1km進み、道の東側に立つ神社の表示看板(トタン製)のすぐ北に一の鳥居が立つ。道路から少し入り込んでいるため、注意しないと見過ごす恐れあり。

 鳥井脇の石標には“式内 天照大神社”とある。これは、明治5年(1872)の神仏分離によって、それまでの弁財天社から天照大神社改称したためで、戦後、昭和22年(1967)に本来の社名・天照大神高座神社に復帰している。
 地元では、天照大神高座神社というより、岩戸神社の方が通りやすく、市販の地図等には岩戸神社とある。

※由緒
 岩戸神社で頂いた“高座神社略記”には
 「当社は元伊勢国宇治山田原に御鎮座ありましたが、今より約1500余年前雄略天皇23年当地に御遷座になりました」
とあるが、その遷座経緯等は不明。なお、雄略天皇23年(5世紀後半頃)遷座というのは信じがたい。

 当社に関連する近世の古資料として、
*神社覈録(1870)
  祭神 伊勢津彦命・伊勢津姫命  元号春日戸神の六字は後人の加筆なるべし
  教興寺村の東山に在す、今弁才天と称す
  神宮雑記云、春日戸高座神(カスカベ)は伊勢津彦神等の石窟也。豊受大神宮度会山田原御鎮座以後、神勅に任せて、春日戸神河内国高安の郡に遷座す也
*神祇志料(1871)
  元名を春日戸神といふ 今教興寺村の東山にあり 蓋し天照大神と高御産巣日命を祭る
*大日本神祇志(1873)
  鎮座本縁を按ずるに、伊勢度会郡に高倉巖屋有り、太古春日戸高座神の居所也。後河内に遷る。・・・
*特選神名牒(1876)
  祭神 今按に高座神は祭神不詳とあり 天地麗気記に日鷲高佐山は是日本鎮府の験所 十二箇石室有り 玄窟と号す也 大己貴命・天日別命の居所と謂ふ 亦伊勢津彦の石窟 亦春日戸神の霊窟也 惣名高倉山 
  また神名帳傍注に引く所の岩屋本縁と云ふ 神宮雑記曰く春日戸高座神伊勢津彦神等の石窟也 
  豊受皇大神度会山日原御鎮座以後 神勅に任せて春日戸神河内国高安郡に遷座とあるによらば 本社の二座は天照大神・春日戸高座神二神を祭れるなるべし さて此の高座神は伊勢津彦を申せるにやあらむ
などがある。

 これら略記・古資料ともに、当社は伊勢からの遷座というが、それは特選神名牒にいう天地麗気記(鎌倉中期)によるものらしい(本文−上記特選神名牒にあり)
 そこにいう日鷲山高佐山とは、伊勢外宮を含んで南に広がる連山・高倉山を構成する山々で(最高峰・日鷲山は標高117m)、日鷲山頂上に長さ18.5mの横穴式石室をもつ高倉山古墳(後期古墳・円墳・径32m・高8m)があることから、これを指すのかもしれない(麗気記が12箇の石室というから、この辺りに石室を有する古墳が幾つかあったのかもしれない)

 ただ、伊勢・高倉山からの遷座を裏付ける史料はなく、当社・高座神と外宮の高倉山との語呂合わせ的要素(いずれもタカクラ)が強く、伝承の域を出ないという(日本の神々3・1984)
 当社名・天照大神から伊勢と関係ありとして、伊勢にあって同じタカクラを名乗る高倉山からの遷座としたものであろう。

 当社は今、天照大神高座神社と称するが、延喜式(927)より前の古文書には
 ・大同元年(806)(新抄格勅符抄引用・平安時代)−−春日戸神 4戸河内
 ・貞観元年(859)正月27日条(三代実録・901)−−河内国従五位下春日戸神に従五位上を授く
と春日戸神とある。
 これが延喜式が当社の元名を春日戸神とする根拠で、それが貞観元年(859)から延喜式(927)編纂までの約70年の間に天照大神高座神社と変わったのだろうという。

 この春日戸神の出自・神格は不詳だが、
 ・春日戸の“戸”とは大和朝廷が朝鮮からの渡来人集団に与えた姓で、
 ・これら渡来系集団を高安・安宿といった地域に多く定住せしめ、従来の部民制とは異なる編戸制を施行したらしい、といわれ(岸俊男)
 ・文献によれば、高安郡には春日戸村主(カスガベノスグリ)広田・同人足・大田といった人物がみえるという(村主・スグリとは古代韓国語で村長の意で、村主の姓を持つ氏族は百済系に多いという)

 これによれば、当社は渡来系氏族(春日戸氏)がその祖神を斎き祀った神社と思われるが、それが皇祖神である天照大神を名乗る由縁は不明。
 これについて、棚橋利光氏は
 「春日戸神が春日戸氏の氏神であるとすると、天照大神高座神社の社名は春日戸といふ一氏族の斎く神としては不適当のやうに思へる。天照大神は伊勢大神宮で祀る皇室の祖神である。
 それにしても天照大神高座神社といふは大胆な社名と思ふ。天照大神の名をそのまま社名に使ふ神社は、延喜式神名帳ではここが唯一の例である」
として、
 「春日戸神と天照大神高座神の神社がそれぞれ別にあって、何らかの理由で(神名帳には)天照大神高座神を記載し、春日戸神を元名として入れたのかもしれない」
という。

 この棚橋説は、天照大神高倉神社と春日戸神社を別々とはするものの、両社の関係、また何故、天照大神が残って春日戸神が消えたのかは不明で、吉田東伍氏・岡田精司氏らは
 「春日戸神が高座神に名称を変更した」
というが、その変更経緯ははっきりしない。

 当社が天照大神を名乗る理由は判然としないが、理由の一つに、その立地環境があると思われる。
 大和岩雄氏は、当社に関する一連の書のなかで、
 ・当社の元名・春日戸社の春日は日神祭祀と関係が深い
 ・当社は摂津の住吉大社の真東に位置し、当社を起点として真西に線を引くと住吉大社(右図の左中央)があり、
 ・さらに西方に伸ばすと淡路の式内・石屋神社(イワヤ)に至り、石屋神社本来の神体は明神窟という岩窟である
 ・住吉大社からみて、春分・秋分の朝日は、東にある当社の洞窟から出て西の石屋神社の洞窟に入るといえる
 ・また、難波宮(坐摩神社旧社地・右図の左上)からみて、冬至の朝日は高安山から昇り、高石市の式内・等乃木神社(トノキ・右図の左下)からみて、夏至の朝日は高安山から昇る
 ・これは冬至夏至のの朝日が高安山の岩窟(当社)から出ることと同義である

 ・そこから、高安山の山頂近くにある洞窟(当社の御神体)が記紀の天の岩屋戸に比定され(冬至の太陽が岩屋戸に入って死に再生する説話とみる)、それが春日戸神社が天照大神高座神社に変更された一因であろう
という(大略、神社と古代王権祭祀・2009他)

 これからみて、当社の原点は太陽信仰・日神信仰であり、当社の御神体である岩窟を、記紀にいう天岩屋に見立てることで天照大神を名乗ったとも推測される。

 ただ、古代の日神信仰の対象は天照大神のみでなく、各地の豪族それぞれが崇拝する日神(天照御魂神・アマテルミタマ・アマテルミムスビ)があったといわれ、
 延喜式には、その日神祭祀の場といわれる神社・○○坐天照御魂神社(○○は地名)が4社(他にも天照を冠する神社が当社以外に3社ある)あり、それぞれの神社からみた二至二分など季節の節目の日に、特定の地点(山)から昇る朝日を拝する日読みの地点に位置する(例えば、他田坐天照御魂神社-桜井市からみて、立春・立冬の朝日が三輪山から、春分・秋分のそれが巻向山から昇る)

 当社は、春分秋分の日に特定の地点から昇る朝日を拝する日読みの地というより、遙拝される朝日が昇る地ではあるが、逆にみれば、春分秋分の日に住吉大社を経て難波の海に沈む夕日を拝する日読みの地ともいえ、その意味では天照御魂神(天照神)を祀る聖地であったともいえる。

 社名・天照大神高座神社の高座について、大和岩雄氏は
 ・天照大神に付されている高座は、天照大神の鎮座地をいう
 ・河内名所図会(1801・江戸後期は、「旧跡(当社)は高安山の山腹にして巨巌魏々たり。一箇の岩窟を神殿(御神体ともいうとして、前に扉鳥居あり。頗る、天岩戸ともいふべき岩窟なり。まことに神代よりの姿なるべし」とある(全文は下記)
 ・岸壁の谷をクラタニというが、当社周辺の地形はクラタニである
 ・クラは岩石の山地・高く聳えた岩山・断崖を意味するが、カミクラ(神座)・イワクラ(磐座)・ミテクラ(弊)などの語があるから、柳田国男は祭場の標示で、本来は“全ての神の降りたまふべき処”と書いている
 ・また高御座(タカミクラ)が天皇の玉座をいうことから、高座は高所の座の意だけでなく、“神の坐す所”の意でもある
 ・当社は、高安山山腹にある岩窟を御神体とする神社であり、それは高所にあるクラ(座)だから高座と書かれているわけで
 ・天照大神高座神社という社名は、“高座に坐す天照大神”という意である
という(大略、日本神話論・2015)

 当社を“高座に坐す天照大神の社”とすれば、延喜式がいう祭神二座とは整合しないが、神が坐す聖所であるタカクラを神格化したのが当社の高座神とみることもできる。

 当社は、延喜式のなかで大社という大きな社格をもつ神社だが、縷々述べたように、その創建由緒・時期・社名の由来など判然としない。
 愚考すれば、当社は古代の渡来系氏族・春日戸氏の日神信仰を原点とする神社で、主祭神・天照大神は皇祖神としてのアマテラスではなく、春日戸氏が奉祀した日神・アマテルミタマ神(アマテルムスヒ神)とみるべきかもしれない(同じ天照御魂神信仰をもつ渡来系氏族・秦氏が関係するともいう)

※祭神
 当社祭神は、延喜式に二座とあることからみて、天照大神・高座神の二座と思われるが、今、当社では
  祭神−−天照大神 高皇産霊神(タカミムスヒ)
として、高座神を高皇産霊神へと変更している。

 タカミムスヒ神は、天地開闢に際して最初に成りでた造化三神の一で、皇孫・ホノニニギ尊の母方の祖父をさす(アマテラスは父方の祖母、古事記)
 タカミムスヒの“ムスヒ”は、産霊・産巣日・魂・産日・産魂とも記し、“ムス”(産)は生成発展する意で、“ヒ”は神秘的な働きをする霊であることから、ムスヒの神とは、天地・万物を生成発展させる霊的な働きをする神だという(タカミは尊称)

 当社は江戸時代まで弁財天社とよばれていた。
 これは、当社の背後に聳える岸場にある岩窟、あるいは割れ目を弁財天の女陰・子宮とみなしてのことで(下記)、弁財天が万物の生成に必要な水神であること、女陰を万物の生まれ出るところとする信仰から、これを産霊・ムスヒとみて高皇産霊神に比定したのかもしれない。

 なお、古資料には
 ・天照大神+春日戸高座神
 ・天照大神+伊勢津彦命
などの説があるが、これらは元名春日戸神あるいは当社が伊勢からの遷座とする説によるもので、確たる根拠はない。

※社殿等
 一の鳥居(神額には岩戸神社とある)を入り参道を進むと、左側に岩戸神社への石段があり、参道の突き当たりに二の鳥居が立ち(傍らに式内・高御座神社との石標が立つ)、その先、石段を登った上が境内。
 狭い境内の左手に、屋根と柱だけの簡単な拝殿が、背後の巨巌に直接接して建っている(神額には天照大神社とある)
 その背後の高所、樹木で覆われた巨巌の中腹に、巨岩に挟まれて本殿(小祠)が建ち、社殿奥に、岩に彫り込んだ扉のようなもの(名所図会には扉鳥居とある)が見え、その奥が当社御神体の岩窟という。
 本殿へは、拝殿右手からの小道を通って近づけるが、岸場を縫っての道で要注意。

 江戸時代の当社について、河内名所図会(1801)には、
 「天照大神高座神社  窟弁天(イワヤベンテン)
  元、春日戸神社と号す。教興寺村東の山窟にありしが、今、弁財天と称して、教興寺の境内に安す。神像あり。弘法大師の作といふ。長七寸。此所の生土神とす。
  旧跡は山腹にして、巨巌巍々たり。一箇の岩窟を神殿として、前に扉鳥居あり。頗る天岩戸ともいふべき岩窟なり。まことに、神代よりのすがたなるべし」
とある。
 前段に、“今(江戸後期)、弁財天と称し”とあるのは、江戸時代まで、神仏習合によって弁財天を祀っていたためで、明治の神仏分離によって本来の天照大神高座神社へと復帰している。


天照大神高座神社・一の鳥居 
 
同・参道(左の石段は岩戸神社への入口)
 
同・二の鳥居

同・拝殿(上の祠が本殿) 
 
同・拝殿
  
同・拝所
奥の巨岩の上にある本殿(岩窟)を拝する
 
同・本殿側面
 
同・本殿正面


奥に扉鳥居がみえる

古絵図・窟弁天(河内名所図会)
(中央上部突立った岩の右下に社殿がある)

◎末社等
 境内の外周には小祠2宇(愛宕社・子安社)、苔むした石碑が十数基並び、拝殿脇には白飯の滝と称する細い滝が流れ落ちている。

 滝について、当社案内には、
 白飯之滝−−通称弁天之滝
  社側に三丈の白飯之滝があり、弘法大師修行の霊場として、日夜参禊を行ずる人が絶えない
とあり、いかなる旱天でも水が涸れないという。滝水の奥に不動明王石像がみえる。

 石碑のほとんどは厚く苔むしており刻字の判読不能、脇に不動明王座像が並んでいることから、当地は、白飯之滝とともに修験道の行場だったと思われるが、案内なく詳細不明。
 愛宕社・子安社の勧請由緒等も不明。


愛宕社 
 
子安社
 
白飯の滝
 
石碑
 
石碑
 
不動明王座像と石碑


※岩窟弁天岩戸神社

 祭神−−市杵島姫大神

 頂いた参詣の栞には、
 「当社は今より約壱千百余年前、僧空海、高座神社参籠中、大神の御神託により創建されたのであります。
 古来、日本最初岩窟弁財天社とも称せられ、福徳円満を主とし給ひ、・・・」
とある、
 しかし、弁天信仰は奈良時代には入っていたものの、これが盛んになったのは中世以降ともいわれ(七福神信仰)、修行中の僧・空海(8世紀末頃か)による創建というのは信用しがたい。渡唐以前・修行中の空海については不明の部分が多いため、当社創建を空海に付会したものであろう。

 今の当社は天照大神高座神社とは別社となっているが(境内末社ともいう)
 ・江戸時代までは、教興寺の鎮守・弁財天社としてその境内に祀られ、天照大神高座神社はその奥の院とされていた
 ・明治の神仏分離によって教興寺から分離独立して天照大神社と称し
 ・大正時代に岩窟弁財天岩戸神社と改称、祭神を市杵島命と変更したという。

 当社が弁財天(弁天さん)を祀るのは、当社が岩窟(洞窟・穴)を御神体とするためで、
 ・岩窟(洞窟)は此岸(現世)と彼岸(異界)との境界であって、万物は岩窟から生まれ、岩窟へと帰って行くという
 ・弁財天を祀るところには、多く岩窟と女陰信仰があるが
 ・そこから、岩窟や岩の割れ目が、万物を生み出す女陰・子宮(疑似女陰)に見立てられるためで
 ・例えば、藤沢市江の島の岩窟(弁財天窟・秘門窟)には女陰がはっきり彫られているという。

 当社の御神体は、拝殿の向きからして、天照大神高座神社と同じ岩窟ともいえるが、拝殿に接する巨巌の下部にみえる割れ目が御神体かもしれない。

 現祭神は宗像三女神の一・市杵島姫とするが、市杵島姫(水神)は神仏習合によってインドの水神である弁財天と習合していることから、神仏分離に際して、仏教色の強い弁財天を市杵島姫に変更したのであろう。
 なお、嘗ての弁財天社本尊であった弁財天像は、今、教興寺に納められているという。

 
岩戸神社・拝殿正面
 
同・拝所
(中央下部の割れ目が御神体か)

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