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河内(高安郡)の式内社/玉祖神社
大阪府八尾市神立5丁目
祭神−−櫛明玉命
                                                            2010.06.25参詣

 延喜式神名帳に、『河内国高安郡 玉祖神社』とある式内社。玉祖はタマオヤ又はタマノオヤと訓む。

 近鉄信貴線・服部川駅の北東約1.5km、神立(コウダチ)集落の東のはずれ、生駒山系高安山の西側山麓に鎮座する。背後は鬱蒼たる樹木に覆われた山地となっている。
 大阪外環状線の東を平行する府道170号線(旧東高野街道)の高安中学校前の交差点(一の鳥居が立つ)を東へ約1.6km、民家にはさまれただらだらとした坂道(参道)を突き当たったところに位置する。服部川駅から、駅の右手を北上する新道ができているが、未だ地図等には載っていない。

※祭神
 社頭にある案内板(八尾市教育委員会)には
 「式内社で玉祖明神とか、高安明神ともいう。高安11村の氏神で、和銅3年(710)周防国から分霊を勧請したもので、祭神は櫛明玉命(クシアカルタマ)である。この地に玉造部の人々が住んでいたので、その祖神を祀ったものであろう」
とある。

 クシアカルタマ命とは、玉祖命(タマオヤ)・天明玉命(アメノアカルタマ)・玉屋命(タマノヤ)・豊玉命(トヨタマ)・羽明玉命(ハアカルタマ)など多くの異名をもつ神で、記紀神話・天岩屋戸段では、アマテラスを岩戸から出現させるために御幣に掛けた玉(三種の神器の一)を製作した神として、天孫降臨段では、天孫・ホノニニギの天降りに従った五伴緒(イツトモノオ)の一として出てくる(古事記では玉祖神、その他の名は日本書紀)

 祭祀氏族・玉作部とは、新撰姓氏禄に
 「右京神別(天神) 忌玉作 高魂命孫天明玉命之後也 
   天孫・ホノニニギ命の葦原中国への降臨の時、五氏神部として皇孫に従って天降った。是時玉璧を造って神弊と為した。
   故に玉祖連と号し、亦玉作連ともいう」(意訳)
 「右京神別(天神) 玉祖宿禰 高牟須比乃命十三世孫大荒木命之後也」
 「河内国神別(天神) 玉祖宿禰 天高魂神十三世孫建荒木命之後也」
とある氏族で、いずれも玉作りに携わる伴部(トモノミヤツコ)という。

 大阪市内に玉造の地名があるように、古来、河内・摂津の地には玉作りを業とする氏族が多く居住していたといわれ、当社西方から古代管玉の半製品など玉作関連の遺物が出土していることから、その製造にかかわった玉造の一族が、その祖神を祀ったものであろう、という。

※創建由緒
 社頭の案内にいう、「和銅3年周防国から分霊を勧請したもの・・・」とは、“河内国高安郡玉祖大明神縁起”や“恩智大明神縁起(写本−延宝4年・1676)”にいう、
 「元明天皇・和銅3年、周防国一の宮の玉祖神社(現山口県防府市)の神(玉祖命)がやってきて摂津・住吉浦に上陸したとき、住吉明神から、恩智の神が広大な領地を持っているので、鎮座の地を分けてもらうようにと勧められた。それに従ったところ、恩智神は、自分が領していた高安郡七郷のうち、六郷をさいて玉祖神に与えた」(大意)
との伝承を指す。

 ただ古代の高安郡は、倭名類聚鈔(937)では4郷とあるのに、縁起で七郷とするのはおかしいこと、縁起にいうように、七郷のうち六郷を領する高安郡の代表的神社であれば、恩智神社と同じ名神大社であってもおかしくないのに、小社であることなど、不自然な記述が多いことから、
 当社が高安郡の総氏神的存在になった中世の頃、その権威を高めるために、当社の創建を周防国の玉祖神社、摂津国の住吉大社、河内国の恩智神社と結びつけ、且つ神社の創建を、当時としては一番古い和銅3年として、創作されたものではないか、という(式内社調査報告・1979)

 当社創建は、和銅3年周防国からの勧請というより、何時の頃かは不詳ながら(10世紀初頭以前とはいえる)、古くから当地に住んでいた玉造一族がその祖神を祀った、というのが順当であろう。

 当社は、中世以降、高安郡11ヶ村の総氏神として崇拝されるようになるが、これは隣接して建立された感応山[ ]光寺(オンコウジ・伝・836建立)が関係しているのでは、という。
 この寺は当社の宮寺的寺院で、鎌倉殿(源頼朝)の祈願所として神殿・仏殿の造営iに預かって(1187)以来、公私からの崇拝をうけ、鎌倉から室町時代にかけて盛期を迎えるが、その中で、当社も高安郡の総氏神的存在へと発展したという。 

 この高安郡の総氏神化を象徴するのが、江戸時代に“本社三所大明神”と呼ばれた三座の神、
 ・第一 玉祖大明神(男神)−−当社本来の神
 ・第二 香森大明神(女神・中の森ともいう)−−都夫久美神社(水越)の神
 ・第三 鴨森大明神(男神・対の御前ともいう)−−鴨神社(大竹)の神
で、本来の祭神とともに、水越・大竹など近傍集落の氏神のほとんどを取り込み、祀っていたという。

 その後、明治になっての神社統合によって都夫久美神社(昭和40年分離・旧社地に復帰)・鴨神社(別項・鴨神社趾参照)・御祖神社(別項・御祖神社趾参照)の他数社を合祀し、現在に至っている(資料では、今、主祭神の他に18神を祀るというが、詳細不明)
 ただ 詳しい由緒書などもなく、社務所も無人のため、祭神・由緒・末社などの詳細不明。


※社殿等

 旧東高野街道から続く参道の突きあたり、樟の大樹(大阪府指定天然記念物)の左脇から石段を登りきった、すぐ左に南面して鳥居が立ち、その奥に拝殿・本殿が、境内奥(東側)の山裾に2段に分かれて末社が並ぶ。
 この社殿配置などは、河内名所図会(1801・江戸中期)からほとんど変わっていない。

 中世以前の社殿建造の状況は不明。式内社調査報告によれば、鎌倉初期、源頼朝により再建(1187)、室町末期に火災により焼失(1574)、江戸初期・徳川家康により再建されたが(1603)中期に焼失、現在の社殿は享保10年(1725)の再建という。

 本殿−−春日造、間口一間三尺・奥行二間二尺
 拝殿−−間口五間・奥行三間
玉祖神社/河内名所絵図
河内名所図会・玉祖神社
玉祖神社/参道登り口
玉祖神社・参道(大樟の左に石段あり)
玉祖神社/社標
同・社標(大樟の前に立つ)
玉祖神社/鳥居
同・境内に入る鳥居
玉祖神社/拝殿
玉祖神社・拝殿
玉祖神社/本殿
同・本殿
玉祖神社/拝殿内陣
同・拝殿内陣より本殿を望む

◎末社
 東側の山裾に上下2段に分かれて末社が並ぶ。主たる末社は上段に並ぶ祠で、左から
 ・合祀殿−1−−菅原神社−菅原道真(元大字服部川の産土神・明治5年に合祀・末社化)
           稲荷神社−倉稲魂命(元大字郡川の産土神・明治5年合祀・末社化
           八幡神社−誉田和気命(元大字服部川の産土神・明治5年合祀・末社化)
 ・山口神社−−猿田彦命(神立宮筋より勧請)
 ・合祀殿−2−−八王子社−国狭槌尊(高安遠祖の鎮守たるを以て勧請)
           恩智神社−大計都彦命・大計都姫命(当社鎮座の隣の氏神で、鎮座地を別けてくれた神を以て勧請)
           住吉神社−住吉4神(当社鎮座地を教えた神たるを以て勧請)
           吉野権現−木花開屋姫命(当社鎮座地に連なる葛城連峰の地主神たるを以て勧請)
           蛭子神社−蛭子神(当社鎮座の砌、渡海を助けた神たるを以て勧請)
         この5社は、いずれも創建縁起にかかわる神で、天長5年(828・平安前期)に勧請されたという。

玉祖神社/末社合祀殿−1
末社・合祀殿−1(菅原・稲荷・八幡社)
玉祖神社/末社・山口神社
末社・山口社
玉祖神社/末社合祀殿−2
末社・合祀殿−2
(八王子・恩智・住吉・吉野・蛭子社)

 上記以外に、上段・合祀社1の左手に小さな滝(玉光滝−修験道行場の跡か)と小祠が、すこし離れて水神社(罔象女・ミツハノメ)があり、下段には菅原神社と津山神社(幕末の頃に、疫病が流行したときに勧請とある−ゴズテンノウか)が並ぶ。

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