トップページへ戻る

河内(河内郡)の式内社/津原神社
大阪府東大阪市花園本町1丁目
祭神−−天児屋根命・玉櫛彦命・櫛玉彦命
                                                              2010.04.28参詣

 延喜式神名帳に、『河内国河内郡 津原神社』とある式内社。

 近鉄奈良線・河内花園駅の南約200m、商店街を抜けた先・花園北小学校の南に鎮座する。

※祭神
 今の祭神は上記3座だが、当社由緒には、
 「津原神社を中心とした玉櫛の莊(七村)は、同神社の祖神・天玉櫛彦之命(アメノタマクシヒコ)が、太古、この地方に荒ぶる凶賊を鎮圧された功により、天朝から所領として賜り、云々」
とあり、アメノタマクシヒコが主祭神ともとれる。当社に残る伝承だろうが、その根拠は不明。

 しかし、江戸時代の古書・河内志(1733)河内名所図会(1801)には
  「市場村津原池の側にあり 今 玉串明神と称す」
とあるだけで、固有神名は記載されていない。
 これが明治以降になると、神名が現れ、
 ・大阪府誌(1903)−−アメノコヤネ命・アメノクシタマ命を祀り、今、玉櫛明神と称す
 ・大阪府全志(1922)−−アメノコヤネ命・タマクシヒコ命・アメノクシタマヒコ命を祀り、玉櫛明神と呼べり
 ・大阪府史蹟名所天然記念物(1928)−−アメノコヤネ命・アメノタマクシヒコ命・アメノクシタマヒコ命の三神を祀る
 ・河内国式神私考(昭和初期らしいが、発刊年不明)−−天忍雲根命(アメノオシクモネ−−式内社調査報告-1979)
とある。

 アメノコヤネは中臣氏(藤原氏)の祖神とされる神だが、記紀にタマクシヒコ・クシタマヒコの名は見えない。ただ、先代旧事本紀(9世紀後半・物部系史書)によれば、物部氏の遠祖・ニギハヤヒの降臨に随伴した神々のなかに
 ・アメノコヤネ−−中臣氏の祖神
 ・クシタマヒコ−−間人氏(ハシヒト)の祖神(新撰姓氏禄には、「左京神別(天神)間人宿禰 神魂命五世孫玉櫛比古命之後也」とある)
 ・アメノタマクシヒコ−−鴨県主の祖神(鴨氏系図では、神皇産霊尊の孫で鴨建角見命−下鴨神社の祭神−の父とある)
と出ている。

 旧事本紀をみるとき、この3神は何れもニギハヤヒ降臨時の随伴神という共通点はあるものの、中臣氏・間人氏・鴨氏という異なる氏族の祖神であり、中臣氏は中河内を本貫とすることから関係はあるものの、管見した限りでは、間人氏・鴨氏と当地との関係はみえず、これらを合祀する由緒は不明。後世の作為を感じさせる組み合わせではある。

 また、この江戸時代の玉串明神(“玉串の莊に坐す神”という一般的な神名)から明治以降の3神に至る経緯を見るとき、江戸時代には当社本来の祭神が忘れられていたのか、玉串明神という神仏習合色の強い神名で呼ばれていたが、明治の神仏分離に際して、仏教色を払拭した神名が求められ、古い伝説伝承から3神が想起されたか、新たに勧請された、ともみえる。

 式神私考にいうアメノオシクモネはアメノコヤネの御子神だが、この神について同書は、中臣寿詞(ナカトミノヨゴト)にある
 「アメノオシクモネ神は天の浮雲に乗って天の二上山に上り、皇親カミロギカミロミ命に、『皇孫ニニギ尊の御膳の水として、葦原中国の水に天上の水を加えて差し上げたい』と申しあげると、カミロギカミロミ命は、皇孫に天の玉櫛を授けて、『この玉櫛を刺し立てて、夕日の傾く頃から朝日の照り輝く頃まで祈れ。そうすれば、昼前までに神聖な筧が顕れ、その下から天の八井の水が湧き出すであろう』と告げた。云々」(意訳大意)
を挙げて、
 「故に玉串社、また津原社と云う」
としている。
 簡単にいえば、降臨した天孫ニニギに差し上げるための神聖な天界の水が、アメノオシクモネの願いをうけた天神から授けられた、天の玉櫛を刺した処から湧き出した。そこから当社を玉串社と呼ぶとともに、功のあったアメノオシクモネを祀ったということであろう。なお、櫛は串とも通じ、共に神の依代(ヨリシロ)であり、櫛笥は霊魂すなわち神が籠もる呪器となる。

 この伝承は、社殿背後にある津原池の水が天界の水に連なっていることを語るものといえ、今、アメノオシクモネは本殿左手にある末社・若宮神社(祭神:天押雲命)に祀られている。上記伝承をうけたものであろう。
 当社の創建が津原池に関連することからみると、当社本来の祭神はアメノオシクモネであり(それが玉串(櫛)明神か)、それが明治初年の新祭神勧請に際して末社の神へと貶められた、とみることもできる。

※創建由緒
 当社の創建由緒は不詳。
 ただ、当社(玉櫛明神)にかかわって、大阪市平野区(旧河内国渋川郡)にある旭神社の摂社・若宮八幡宮に残る縁起(河内国渋川郡賀美郷橘嶋正覚寺村旭牛頭天王若宮八幡宮縁起)にある、
 「孝謙天皇・天平勝宝6年(754)8月、風雨月を越えて止まず農民困窮の折、『櫛笥(クシゲ)と橘を水上より流し、其の止まりたる処に祀りなば、水難を止め農民を安穏ならしめん』との八幡神神託があった。
 神託に従って、大和河内両国の境から其の二品を流させ、櫛笥が流れ着いた処に玉櫛明神を、橘が止まった賀美の地に若宮八幡宮を祀った」
との伝承をうけて、当社由緒は
 「(櫛笥が流れ着いた)玉櫛莊の人々が相談して、此の池(津原池)の畔に社を建て、アメノコヤネ並びに玉櫛莊の祖神・アメノタマクシヒコ・アメノクシタマヒコを併せて祀ったところ、風雨忽ころに治まり、自来池一体は甚だしい風水の害を蒙る事がなくなり、津原神社は近郷七村の総社として尊崇をあつめ今日に至っている」
という。
 この由緒あるいは式神私考にいう伝承によれば、当社の創建は津原池にかかわる水神信仰と思われるが、今の祭神・アメノコヤネ以下の3神に水神の面影は見えない。

 当地には、幾筋にも分かれて流れていた旧大和川分流の川筋に沿った地方物産の集散地としての市場があったといわれ中河内郡三野郷に属し玉串莊市場村と称したという。また玉櫛の村名は玉串明神からくるともいわれ(式内社彫塑報告)、とすれば、玉串明神の名は相当古いものといえる。
 そんな物資の集散地である市場・港を支配していた古代の地方豪族が、市場の守護神として、また河川の安定を守る川の神として祀ったのが当社の始まりかもしれない。

◎津原池
 社殿背後に残る楕円形の池(東西約30m)で、周囲には石垣を巡らし、池端の中央部に鳥居、傍らに“津原の池”との石碑が立つ。周りを叢林に囲まれ、深遠な雰囲気を漂わせている。
 当社創建にかかわる古くからの池で、古来から、雨乞い祈願を捧げてきた聖地であり、この畔でおこなわれた祭祀が当社の始まりとも思える。

津原神社/津原池前の鳥居
津原池前の鳥居
津原神社/津原池
津原池
津原神社/津原池の碑
津原池の碑

※社殿等
 当社には社頭の鳥居はなく、代わりに2本の角柱が立ち、傍らに“式内 津原神社”との社標が立つ。
 境内正面に拝殿、その奥、弊殿に連なった覆屋の中に本殿がある。
 本殿−−春日造檜皮葺・桁行梁行ともに五尺というが、今は覆屋の中に収まっていて実見不能。
 拝殿−−入母屋造・瓦葺き・桁行五間梁行二間。

津原神社/社頭
津原神社・社頭
津原神社/拝殿
同・拝殿
津原神社/本殿覆屋
同・本殿覆屋

◎末社
 社殿左(西)に、若宮神社(天押雲命−上記のアメノオシクモネを祀るか)・一葉神社(秋葉山大権現−火除鎮護の神)・稲荷神社
 社殿の裏・津原池の右(東)に、水神社(祭神・石川土佐守とあるが、水神と現祭神との関係不明)が池の左に小祠(社名・祭神不明)
 社殿の右前(東南)に、合祀殿2祠(八幡神・稲荷神他)

津原神社/末社・若宮神社
津原神社・末社・若宮神社
津原神社/末社・一葉神社
同・末社・一葉神社
津原神社/末社・水神社
同・末社・水神社
津原神社/末社合祀殿1
同・末社合祀殿1
津原神社/末社合祀殿2
同・末社合祀殿2

トップページへ戻る