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河内(渋川郡)の式内社/都留彌神社
大阪府東大阪市荒川3丁目
祭神−−速秋津日子命・速秋津比売命他7座
                                                       2010.04.03参詣

 延喜式神名帳に、『河内国渋川郡 都留彌神社』とある式内社。曾ては“都留美”とも記したが、大正5年(1916)古称・都留彌に戻ったという。いずれもツルミと訓む。

 当社は、近鉄奈良線・河内永和駅あるいはJRおおさか東線・JR河内永和駅の西南約300mの住宅地内に鎮座する(市立荒川小学校の北に当たる)。元々、現在地の西約800m(現足代戎神社−足代1丁目:布施駅前商店街の西)にあったが、大正3年(1914)国の神祇政策によって、近傍8社とともに合祀され、現在地に遷座している。

※創建由緒
 創建年代・由緒は不詳だが、当社由緒略記には
 「当神社の創祀は頗る古く、今より千百年以前に、仁和2年(886)第58代光孝天皇の御代の国史所載の由緒深き式内社」
とある。国史所載とは、三代実録(901撰上)の光孝天皇・仁和2年条に記す、「授河内国従五位下垂水水神二前従五位上」との記事を指すというが、疑義もある。

 社名・都留彌(都留弥・ツルミ)の意味不明。式内社の研究(1977)には、「川中島の多いなかで目出度い一対をなす島があったので、この神名となり豊漁を祈ったのであろう」とあるが、推測の域を出ない。
 由緒略記には、
 「醍醐天皇の延喜10年(910)、春から続く大旱魃で田植えができず百姓が困っていた。それを聞いた天皇が、河内国の12社に勅使を遣わし雨乞いを祈願された。これにより大雨が降り伝畑を潤し喜びの声が国々に満ち、その後も順雨が続き連年豊作が続いた。この奇瑞に感動した天皇が親しく当社に参詣され、都留彌神社の社号を賜り、従五位上を贈られた」(大意)
とある。
 これは、社名および神階授与の記事であって創建由緒ではなく、また、これを証する史料はないという。ただ、祈雨祈願した河内12社の中の一社であることから、10世紀当初以前からあった神社とはいえる。

 当社祭神と、三代実録にいう“垂水水神”との同異について、
 ・当社祭神と垂水水神の神階は、共に従五位上だが、垂水水神が仁和2年に従五位下から従五位上に昇っているのに対して、当社祭神は延喜10年に社名と神階が始めて授与されたと読め、その間に約25年の差があること。
 ・当社祭神と垂水水神とは共に水に関係する神だが、両神をつなぐ由縁は見当たらず、都留彌・ツルミと垂水・タルミの語音が似通っていることから、ツルミ=タルミと解釈された可能性があること(式内社調査報告・1979)
などから、当社祭神と三代実録にいう垂水水神とは無関係ではないか、ともいう(河内志-1733-には、当社祭神と垂水水神の関係について、「此の是非は知らず」とある)。

 往古の当社は、先述のように現鎮座地の西約800mの旧足代村にあったという。現在地への遷座について、由緒略記には
 「現社殿は大正3年(1914、明治43年・1910との資料もある)旧布施村八大字の神社を整理合祀することとなった。そして、布施神社となる処、当時政府の勧告に基づき、由緒深き都留彌の社号を残し、現在に至る」
とある。
 所謂、明治末から大正にかけて国がおこなった神社統合整理の一環として、近傍大字の氏神社を統合し、式内社の由緒をもつ都留彌神社との社名を残したもので、現鎮座地は旧鹿島神社の跡地という。

 この時合祀された神社(カッコ内は旧鎮座地の大字名)について、由緒略記には都留彌神社(足代)・天神社(岸田堂)・稲荷神社(菱屋西)・子守神社(大平寺)・大歳神社(長堂)・産土神社(三の瀬)・子守神社(永和)・鹿島神社(荒川)の8社とあるが、大阪府全志(大正11年・1922刊)に記す合祀社とは、一部の神社名・旧社地の大字名に違いがある。

◎足代戎神社−−都留彌神社御旅所(旧鎮座地)
 旧足代村にあった都留彌神社旧鎮座地には、今、足代戎神社が鎮座し、その境内に『都留彌神社御旅所』がある。

 近鉄・布施駅の西南約200m、布施駅前から南下する広幅員道路の一本西に連なる駅前商店街の中程を西へ入ったすぐに鎮座する(案内看板あり)

 境内正面に位置する戎神社本殿の右隣に『都留彌神社御旅所』があり、柵に仕切られた奥に神明造の小祠が鎮座する。また境内に入った左隅に、『都留彌社趾』(昭和3年-1928-建立)との石碑が立つ。
 傍らに立つ案内には、
 「この地は、その昔、足代村の氏神として延喜式神名帳にみえる都留彌神社が祀られていた。江戸後期の河内名所図会・享保元年(1801)には、『都留彌神社 足代村にあり』とみえている。
 明治18年(1885)の淀川大洪水により、神殿・宝物・古文書など全て流出したが、その後、村民の手により再建されて、足代村の氏神社として祀られていた。
 都留彌神社は、明治40年(1907)から始まった国の神社合併により、近隣の荒川・長堂・岸田堂などの神社を合祀して、この地から東方約1kmの現在地に移転し祀られたが、この時に当境内地は、地元足代の有志に払い下げられ、民有共有地として保管されてきた」
とあるが、御旅所が設けられた時期は不明。
 なお戎神社は、地元の要望を受けて、昭和29年(1954)西宮の戎大神を勧請したのに始まり、更に同63年(1988)大阪の今宮戎(祭神:コトシロヌシ)を勧請したという。別名・布施戎社ともいう。

都留彌社趾の碑
都留彌社趾の碑
都留彌神社御旅所
都留彌神社御旅所
足代戎神社本殿
足代戎神社本殿
(右に御旅所の小祠が見える)

※祭神
 今、当社祭神は
 ・速天津日子命(ハヤアキツヒコ)・速秋津比売命(ハヤアキツヒメ)−−当社本来の祭神
 ・素盞鳴命(スサノヲ)−−旧大歳神社(永和)
 ・豊受姫命(トヨウケヒメ−五穀豊穣の神)−−旧稲荷神社(菱屋西)
 ・少彦名命(スクナヒコナ−産業医薬の神)−−旧天神社(岸田堂)
 ・武甕槌命(タケミカヅチ−鹿島の大神、武勇勝運野の神)−−旧鹿島神社(荒川)
 ・保食神(ウケモチ−食物の神)−−旧鹿島神社(荒川)
 ・推古天皇(33代女帝)−−旧産土神社(永和)
 ・菅原道真公(菅原天神、学問成就の神)−−古くからの合祀神
となっているが(由緒略記)、古資料には合祀以前の祭神として、
 「足代村にあり。延喜式出。今天神と称す。此地の生土神とす」(河内名所図会-1801、河内志-1733もほぼ同じ、江戸中期)
 「速秋津日子神・速秋津比売神及び菅原道真を合祀せり、明治5年(1872)村社に列せられ当時大字永和の素盞鳴命神社を合祀し、・・・」(大阪府誌-明治36・1903)
とあり、古くはは菅原道真を祀る天神社(テンジンシャ)として知られていたようで、今も菅原道真として祀られている。

 元々の天神信仰とは、御霊信仰と雷神信仰などが習合した防疫防災神信仰だが、中世の頃には雪冤・至誠・国家鎮護・往生守護・詩文和歌書道などの神へと変化し、江戸時代になると、道真を主人公とした人形浄瑠璃の流行ともあいまって庶民化し、寺子屋の神として流行したという。
 上記天神社は、江戸時代の流行神として祀られた神社と思われるが、詳細不明。
 なお、岸田堂から合祀された神社に同名の天神社があるが、大阪府全志によれば、この神社の祭神はスクナヒコナとなっていて、道真を祀るテンジンシャとは異なる。スクナヒコナはカミムスヒの御子(古事記)だから、この天神社の読みはアマツカミノヤシロであろう。

 現祭神9座のうち、ハヤアキツヒコ・ヒメの2神が都留彌神社本来の祭神で、他は合祀された神社のそれだが、大阪府全志にいう合祀社の祭神のうち、三穂彦神(旧鹿島神社・旧子守神社2社)と勝手大神(旧産土神社)が消えているこの両神の神格は不明だが、子守神社のコモリとは、水を司る水分神(ミクマリ)が→ミコマリ→ミコモリ→コモリと訛り、子守・子育ての神へと変化たというから、三穂彦神はミクマリの神・水神であって、同じ神格をもつハヤアキツヒコ・ヒメに吸収されたのかもしれない。

 因みに、ハヤアキツヒコ・ハヤアキツヒメとは、古事記・国生みの段でイザナギ・イザナミ双神が生んだ一対の神(書紀ではハヤアキツヒメのみ)で、水戸(湊)・河口を司る水神であり、また罪穢れを祓い清める祓除の神ともされる(祝詞・大祓詞にハヤアキツヒメがみえる)。推論として、旧鎮座地の辺りが曾ての河内湖(潟)時代の島であり、水運などの水戸の神か、河内平野干拓に伴う水神として祀られたのではないか(式内社調査報告)、という。

※社殿等
 南面する鳥居を入った正面に、唐風破風の向拝をもつ入母屋造の拝殿と本殿が前後に並ぶ。
 建物の詳細は不詳だが、本殿は間口三間・奥行一間半の住吉造、建坪13坪・向拝3坪の拝殿を建坪11坪の弊殿が結ぶ構成で、記録によれば、明治18年(1885)の大洪水で建造物が大破し、明治21年(1888)に修復されたが、大正3年の合祀によって現在の社境に遷座した、という(式内社調査報告)

都留彌神社/鳥居
都留彌神社・鳥居
都留彌神社/拝殿
同・拝殿
都留彌神社/本殿
同・本殿

◎末社
 社殿の両側には、石上大神・諏訪大神・塩釜大神合祀殿、荒龍大神・石龍大神合祀殿(磐座、稲荷社か)、稲荷社、三輪大神・戎大神合祀殿や遙拝所などが並ぶが、これらの鎮座由緒・時代など不明。

都留彌神社/末社
末社
(左:荒龍・白龍社−磐座、右:石上・諏訪・塩釜社)
都留彌神社/末社
末社
(戎社・三輪社合祀殿)

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