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河内(若江郡)の式内社/宇婆神社
大阪府東大阪市加納2丁目
祭神−−埴安姫命
                                                2010.03.26参詣

 延喜式神名帳に、『河内国若江郡 宇婆神社』とある式内社だが、今は『宇波神社』と称し、いずれも“ウハ”と訓む。旧河内国若江郡の北辺(加納村字瓦口)・同国讃良郡(現大東市)との境界近くに位置する。

 行政区は東大阪に属するが、大東市内にあるJR学研都市線(片町線)・住道駅からが近い(北へ約700mで大東市)。駅ビルの東を南北に通る狭い路(一車線道路、旧八尾街道か)を南へ約1.5km 、消防倉庫の建つ角を左(東)へ入ったすぐに鎮座する。

※創建由緒
 式内社ではあるものの、創建由緒・祭祀氏族など不明という神社で、社頭の案内石板には、大阪府全志(大11・1922)をそのまま引用して、
 「宇波神社は北方字瓦口にあり。延喜式内の神社にして埴安姫命を祀り、今は熊野と称す。創建の年代は詳ならず。河内国内神名帳には神位を従三位と記せり。明治5年村社に列せられる」
とあり、近世までは、熊野権現社として加納村の氏神だったという。また、神名帳(金剛寺本・1127写本)記載の様式からみて、延喜式より前の弘仁式の頃(840頃)からの官社ではないかともいう(式内社調査報告、1979)から、相当古くからの神社らしい。

 また、社頭に立つ“宇波神社の秋祭り”の説明板によれば、
 「神社の周囲は、まわりより少し高くなった所で、古代は“白肩の津”と呼ばれる水辺(港)にあったらしく、波打ち際に祀られた神社だったらしい」(大意)
とあるが、今は住宅が建て込んだなかの神社であり、古の面影はない。

 社頭の案内によれば、当社が宇波神社と称したのは明治8年(1875)以後のことで、それまでは宇婆神社と称していたというが、宇婆の意味は不明。案内には、
 「宇婆の宇は宇宙の宇を指し、物理的にも真理学的にも計りしれない大自然の神秘にして、婆は娑婆の婆であり、世の中または社会を指します。
 仏教では、忍土堪忍土忍界を漢訳したものです。また婆の字は心経では釈迦一代の経八万四千字の中より選び出された二百六十余文字の中の一字です。神前にて唱え奉れば、宝の御経、仏前で唱え奉れば花の御経なりといわれ、神仏一体のいさせ給う真理の心経であります」
とある。宇婆の意味を解説したもので、曾ての神仏習合的な解釈を示すものとして面白いが(心経とは般若心経を指すのだろうが、同経260余文字の中に婆の字はない)、後世の付会とも推測され、宇婆本来の由縁を語るものではない。

※祭神
 今の祭神は埴安姫(ハニヤスヒメ)となっているが、江戸時代の古書(河内志-1733・河内名所図会-1801)には「今熊野と称す」とあって、埴安姫の名はない。
 明治以降になっても、
 ・延喜式内の神社にして埴安姫命を祀り、今は天王と称す。−−大阪府誌(明36・1903
 ・延喜式内の神社にして埴安姫命を祀り、今は熊野と称す。創建年代不詳。−−大阪府全志(大11・1922)
とあるように、祭神はハニヤスヒメとはするものの、今“天王”あるいは“熊野”と称すという。天王とはゴズテンノウ、熊野とは紀伊の熊野三社大神(権現)を指すと思われ、ハニヤスヒメとは関係ない。

 江戸期の古書の中で、神名帳考証(度会延経・寛文年中1661--73・江戸初期)のみが祭神・埴安姫命とするが、その根拠が示されておらず、その信頼性には疑問があるという(式内社調査報告・1979)

 埴安姫(埴山姫ともいう)の“埴”は“土”を意味し“安”は美称で、ハニヤスとは“土を練って柔らかくすること”ともいう。土の神。
 ハニヤスヒメの出自については2伝があり、
 @古事記では、イザナミが火神・カグツチを生んで病んだとき、屎からハニヤスヒコ・ハニヤスヒメが生じた、
   書紀では、カグツチを産んだイザナミが亡くなろうとされるときに、土の神・埴山姫(ハニヤマヒメ)を生んだ、
とあり、いずれもイザナミの御子とする。

 A古事記・日本書紀共に、その孝元天皇の条に
 「(孝元は)河内青玉(カワチアオタマ・書紀ではカワチアオタマカケ)の娘・ハニヤスヒメを娶ってタケハニヤスヒコを生んだ」
とある。父・河内青玉の出自は不明だが、河内を冠することから河内国と関係があるのかもしれない。因みに、崇神紀は、タケハニヤスヒコは崇神10年に反乱を起こし討伐されたが、その時、逃げる兵が追いつめられて屎をもらした。その袴から屎が落ちた処を屎袴(クソバカマ)といい、今の樟葉(楠葉・クズハ・枚方市)はこれが訛ったものである(大意)、との地名説話を記している。

 当社祭神のハニヤスヒメが、記紀にいうそれか、崇神紀のそれかは不明。また、いずれにしても当社との関係ははっきりせず、当社祭神は不詳とするのが妥当と思われる。

※社殿等
 境内南側道路脇の鳥居を入ってすぐに瓦屋根の門が建ち、境内正面に拝殿(間口五間・奥行二間)と本殿覆屋が建つ。覆屋内の本殿は流造で方五尺というから、小祠らしい。
 今の社殿が何時のものかはっきりしないが、資料には嘉永7年(1854)地震により大破、安政4年(1857)宮御殿造作、明治10年(1877)拝殿普請という(式内社調査報告)


宇波神社・社頭

同・拝殿

同・本殿覆屋

◎末社等
 式内社調査報告には、境内神社として吉野神社・水分神社(ミクマリ・水神社)がある。吉野神社は明治5年(1872)加納村字下ノ内よりの移転、水分神社はそれ以前のもので由緒不詳とあるが、いま、それらしい社殿はみえない。
 代わりに、境内左の樟の大樹の下に東面して“神武天皇遙拝所”との石碑、その横に壊れかけた小祠があり、中に“宇□王”と記した木札と、“熊野那智大社”・“那智御滝”と記した小皿他の祭祀用具が納められている。曾て、当社が熊野社と呼ばれていた頃の名残かもしれない。木札の□の字はかすれていて判読不能だが、龍とも推測される。

 当社入口に建つ門について、社頭の案内には、
 「宇波神社は昔から門のある神社でして、門のあるのも仏教的な影響をうけて祭祀されたものと思われるが、深い因念があるのでしょう」
とある。神仏習合時にあったと思われる神宮寺の門の名残かとも思われるが、詳細不明。

宇婆神社/神武天皇遙拝所
神武天皇遙拝所
宇婆神社/小祠
小祠
宇婆神社/入口の門
入口の門(裏側から)

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