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河内(若江郡)の式内社/矢作神社
大阪府八尾市南本町6丁目
祭神−−経津主命
併祭神−−品陀別気命・住吉三神・八重事代主命
(長柄神社)
                                                             2010.06.06参詣

 延喜式式内町に、『河内国若江郡 矢作神社』とある式内社。矢作には“ヤハギ”・“ヤツクリ”の訓があるが、ヤハギと訓む。

 近鉄大阪線・近鉄八尾駅の南約1.3km、駅の東を南北に走る府道174号線(八尾道明寺線)を南下、八尾税務署の角を西に入った先にある。

※祭神
 社頭に掲げる案内板によれば、
 「主祭神・経津主命(フツヌシ)の後裔である矢作連の一族は、早く此の地に住して朝命を受け矢作業に従事した。当時、この地方は豪族物部氏の繁栄に伴い、祖先を氏神として祀ったものと伝えられている」
とあり、明治以降の諸史料でも、主祭神をフツヌシとするに異論はない。

 矢作連とは、新撰姓氏禄(815)に、
 「河内国未定雑姓 矢作連 布都奴志乃命之後也」
とある物部氏系の氏族で、書紀・綏靖(スイゼイ)天皇紀に
 「異母兄・手研耳命(タギシミミ)が自分らを殺そうとしているのを知って、弓部稚彦(ユゲノワカヒコ)に弓を、倭鍛部(ヤマトノカネチ)天津真浦(アマツマラ)に鏃を、矢部(ヤハギベ)に箭(矢)を造らせた」
また垂仁天皇39年条に
 「五十瓊敷皇子(イニシキノミコト)が茅渟川上宮で太刀一千口を作ったとき、楯部・・・神矢作部(カムヤハギベ)・・・など十種の品部(トモノミヤツコ)を皇子に賜った」(これらの品部が作った武器は、物部氏が管理する武器庫-石上神宮-に収められたという)
とあるように、物部氏に属して武器を製作する伴造の一として、弓矢の矢の製作にかかわった氏族という。

 併祭神のホムタワケ(応神天皇)は、当地が11世紀前半頃に石清水八幡宮の荘園となったためで、江戸中期の古書・河内志(1733)には「今八幡と称す」とある。
 住吉三神(ウワツツノオ・ナカツツノオ・ソコツツノオ)の勧請時期・由緒は不明。
 河内名所図会(1801)には、主祭神・八幡神、相殿神・住吉神と白山神となっていて、フツヌシの名は見えないという。
 またヤエコトシロヌシは、明治40年(1907)政府の命により合祀された長柄神社の祭神(別稿・長柄神社参照)

※鎮座由緒
 社頭の案内には「当社の創建は不詳であるが、・・・」とあり、古史料もまた「創建の年月詳ならず」とある。

 国史の中に直接当社神名を挙げての神階授与の記事はみえないが、大阪府誌(1903)などの史料では、三代実録(901)にある
 「清和天皇貞観16年(874)12月29日 河内国正六位上掃部神に五位下を授く」
とは当社祭神への授与とみて、当社祭神(矢作神)と掃部神(カモン)は同神として、当社は9世紀頃からの古社と見ている。

 掃部神とは、振魂命四世の孫・天忍人命(アメノオシヒト)から出た“掃守氏(カモリ)(姓氏禄・河内国神別)が齋き祀る神とされ、掃守氏は、宮中でおこなわれる諸行事に際してその設営、殿中の清掃を司る掃部寮に属する氏族であって、河内の掃守氏は、宮中で使用する薦や筵などを製作したのではないかという。この掃守氏と矢作りを業とする矢作氏との関係は不詳だが、無関係であろう。

 この矢作神・掃部神同神説は、11世紀前半頃から、当社が八尾八幡掃部別宮と呼ばれたためで、社頭の由来板には、
 「平安時代、この地は石清水八幡宮が荘園として領しており、・・・後三条天皇・延久4年(1072)の石清水八幡領荘園に対する文書には、承認された荘園の中に掃部別宮とある。
 この頃より、八幡神(ホムタワケ)を祀り、別宮八幡宮とも呼ばれてきた」
とある。
 ここに当社を掃部別宮と呼んでいるのが、上記神階授与記事にいう掃部神を当社のことと解する一因と思われるが、11世紀の呼称をもって9世紀の記事を解するのには疑問もある。
 ただ、当社が石清水八幡宮の別宮として当地辺りを支配していたのは事実で、その奉祀氏族としての掃守氏が勢力をもっていたと思われる。

 この八尾八幡掃部別宮時代の当社は、地福山大満院金性寺との宮寺(神宮寺)を有する大きな神社だったといわれ、社前には嘉元3年(1305)建立の十三重の石塔が立っていたという。また、今、境内に残る“経碑”はその頃の名残という。

 そのご、南北朝の戦乱や戦国時代の兵火によって社殿は焼失し、荘園制の崩壊とともに石清水神社との関係はなくなったものの、江戸時代には、別宮村の八幡宮として村人から崇拝されていたが、明治初年の神仏分離によって神宮寺・金性寺は廃寺となり、式内・矢作神社として旧に復したという。

※社殿等
 道路に面した鳥居を入り、民家にはさまれた参道を進み、注連柱をくぐって境内に入る。
 境内正面に拝殿(間口五間・奥行二間)、その奥、土塀に囲まれた中に流造の本殿(間口二間九尺・奥行二間二尺)が鎮座する。
 中世の頃、当地辺りは兵乱が続き社殿も荒廃したが、元禄16年(1703)に拝殿を新築、その後安政5年(1858)に本殿を新築したという(式内社調査報告)。その後の修復などの経緯は不明。 

矢作神社/鳥居
矢作神社・鳥居
矢作神社/拝殿
同・拝殿
矢作神社/本殿
同・本殿

◎末社
 境内左手の一画、生け垣に囲まれて末社3祠が並列する(右写真)
左から
 ・琴平神社−−大物主命
 ・白山神社−−菊理姫命(ククリヒメ)・豊玉姫命(−−江戸時代−応神天皇だったという)
 ・八坂神社−−スサノヲ尊(−−江戸時代−ゴズテンノウ)
 また、社殿左手に稲荷神社あり。
矢作神社/末社

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