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河内(若江郡)の式内社/弓削神社
A:大阪府八尾市東弓削町1丁目(旧河内国若江郡東弓削村)
祭神−−天日鷲翔矢命・彌加布都神・比古佐自布都神
B:大阪府八尾市弓削町1丁目(旧河内国志紀郡弓削村)
祭神−−饒速日命・宇麻志麻治命・天照皇大神
                                                              2010.06.12参詣

 延喜式神名帳に、『河内国若江郡 弓削神社二座 月次相嘗新嘗』とある式内社。本来は一社だったと思われるが、江戸時代以降、旧大和川(現長瀬川)をはさんで東西にある二社をこれに当てている。(以下、Aを東弓削社・Bを西弓削社という)

 JR関西線・志紀駅の東北約200mに東弓削社が、駅前を通る国道25線・銀行の角を入ったところに西弓削社が鎮座する。両社とも、周囲は建物密集地。

※祭神
 当社は2社とも、当地一帯(若江郡弓削郷)を本拠地としていた古代豪族・弓削氏が、その祖神を祀った社という。

 弓削氏とは、弓などの武器の製造に携わった弓削部を支配する伴造(トモノミヤツコ)で、新撰姓氏禄(815)には
 「河内国神別(天神) 弓削宿禰 天高御魂乃命孫天毘和志可気流夜命(=天日鷲翔矢命)之後也」
とあり、東弓削社が天日鷲翔矢命(アメノヒワシ カケルヤ)を祭神の最初に挙げるのは之による。
 アメノヒワシカケルヤ命は天日鷲命(アメノヒワシ)の別名ともいう。アメノヒワシは阿波の忌部氏(インベ・古代の宮中祭祀を司った氏族)の祖とされ、とすれば弓削氏は忌部氏系となるが、弓削氏の出自については諸説があってはっきりしない。

 残る祭神のうち、アマテラスを除く4柱は物部氏系の神々で、
 *東弓削社の祭神−−彌加布都神(ミカフツ)・比古佐自布都神(ヒコ サジフツ)は、物部氏系の香取神宮(千葉県佐原市香取)の祭神・経津主神(フツヌシ・斎主-イワヒヌシ-ともいう)を指し、三代実録(901)
 「清和天皇・貞観二年(860)秋七月、河内国従三位彌加布都神・比古佐自布都命の神階を進めて、従二位を加ふ」
と出ている(フツヌシは、藤原氏の氏神として春日大社に祀られているが、これは藤原氏(中臣氏)が勢力を広げるなか、自家の氏神として取りこんだもの)
 *西弓削社の祭神−−饒速日(ニギハヤヒ)と御子・宇麻志麻治(ウマシマジ)は、記紀神話のなかで物部氏の祖神とされる。

 弓削氏が祀る社に、物部系の祭神を祀るのは、弓削氏が同じ中河内で勢力を広げた物部氏と結んだためで、弓削連の祖・倭古連の娘・阿佐姫が物部尾輿に嫁して物部守屋を生み(物部弓削守屋大連ともいう)、その子孫が弓削氏を名乗ったことから、父方(物部氏)の祖神を祀ったものと思われる。
 なお姓氏禄・左京神別に、「弓削宿禰 石上同祖 神饒速日命之後也」とあり、この弓削宿禰と河内のそれとの関係は不詳ながら、弓削氏が物部氏系を名乗ったことは確かといえる。

 今の祭神は、2社合わせてアメノヒワシカケルヤ以下6座となっているが、延喜式にいう二座がどの神を指すのか不明。
 古史料・河内志(1733)・神名帳考証(1813)は、東弓削社−ミカフツ命・西弓削社−サジフツ命として、天日鷲翔矢命を欠き、
 特選神名牒(1925)には、高御魂命・天日鷲翔矢命とある。

 明治以降の史料・大阪府全志(明36-1903)・大阪府史蹟名称天然記念物(大11-1922)には
   饒速日・宇麻志麻治・彌加布都・天日鷲・品陀和気・比古佐自彦・菅原道真
の7座を挙げ、現祭神からアマテラスが抜け、ホムタワケ・菅原道真が加わっているが、その由緒は不明。
 なおアマテラスを祀るのは、当社東方・二股にあった天照皇大神社(アマテラス)を合祀したもので、昭和以降と思われる。

※創建由緒
 当社の創建年代ははっきりしないが、当地は弓削氏の本拠地で弓削道鏡(700?--72)の出身地といわれ、道鏡を重用された称徳天皇(在位764--70)の由義宮(ユゲ・弓削宮の佳字、西の京ともいう)が置かれた地で、氏寺・弓削寺(竜華寺)とともに当社もまた氏神社として存在したと思われる。
 由義宮とは、称徳女帝が道鏡の故郷に置いた宮廷で、女帝は神護景雲3年(769)から同4年にかけて何度も行幸しているが(続日本紀)、女帝の崩御とそれに伴う道鏡の失脚により放棄されたという。東弓削社の北約1.4kmにある由義神社(八尾木北5丁目)がその跡というが、確証はない。

 東西弓削神社のどちらが元の神社かは不明だが、延喜式に“若江郡”とあることからみると今の東弓削社がそれに当たり、現在地の東方約30mにあった小字古宮の辺りではなかったかと推測されている(案内板)

 また、弓削神社が東西2社に別れた理由・時期は不明だが、河内志(1733・江戸中期)に「(若江郡)弓削神社一座」とあることからみて、江戸期以前の何時の頃かに、旧大和川(現長瀬川)の氾濫により村が崩壊し、その一部が川向こう(西側・志紀郡)へ移動したのに伴って、神社も2社に分けられたのではないかという。

 西弓削社の方に両社の関係をお聞きしたが、“先代なら知っていたかもしれないが・・・”とのことで、今では分からなくなっているらしい。なお、東弓削社は無人。

※社殿等

◎東弓削社

 鳥居に掲げる神額、およびその横に立つ石標には
 「式内 河内大社 弓削神社」
とあり、西弓削社と区別している。

 そんなに広くない境内には、白壁の拝殿と、白い土塀に囲まれたなかに本殿が建つのみで、末社等はない。
 本殿−−神明造、間口一間二尺・奥行五尺
 拝殿−−間口二間五尺・奥行一間三尺、割拝殿様式
弓削神社(東弓削)/社標
弓削神社(東弓削)・社標
弓削神社(東弓削)/鳥居
弓削神社(東弓削)・鳥居
弓削神社(東弓削)/拝殿
同・拝殿
弓削神社(東弓削)/本殿
同・本殿

◎西弓削社

 鳥居を入った正面に拝殿、その奥に本殿が鎮座する。
 本殿−−春日造、間口一間・奥行一間七尺
 拝殿−−流造、間口五間・奥行二間
  拝殿横の石板に、“平成7年・第51回正遷宮祭”とある。25年毎に遷宮祭がおこなわれているようで、51回とあることからみると当社創建は奈良時代・元明天皇(715--24)の御代となるが、そこまで遡及できるかは不明。

 社殿の左に、末社の天満宮・金刀比羅神社・猿田彦神社・稲荷神社の祠4殿があり、
 社殿右手奥に、明治天皇遙拝所がある。

 境内右手に“延命水”との古井戸があり、龍頭の吐水口が残っている。旱魃にも枯れたことがなかったというが、今、涌水の状態は不明。
弓削神社(西弓削)/社標
弓削神社(西弓削)・社標
弓削神社(西弓削)/鳥居
弓削神社(西弓削)・鳥居
弓削神社(西弓削)/拝殿
同・拝殿
弓削神社(西弓削)/本殿
同・本殿

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