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赤 穂 神 社
奈良市高畑町
祭神--天児屋根命
付--比売神社・鏡神社

 延喜式神名帳に、『大和国添上郡 赤穂神社』とある式内社。

 近鉄奈良駅の東南東約1.7km(JR奈良駅の西約203km)。新薬師寺の北を東西に走る県道80号線(北側は春日自然林)の1本南の細い道の南側(新薬師寺より西)、民家に挟まれた白塀に開く小さな入口を入った中に東面して鎮座する(入口に「自由にお入りください」とある)
 道路沿いに鳥居なく、塀を切り込んだ窪みに「式内・赤穂神社」との石標が立つが、奥まっていて歩いている分には見えない。

※由緒
 境内に掲げる由緒書きによれば、
  「古来、高畑町の春日社神官邸町の西端に鎮座して、久しく里人の尊崇を受け給ふ。
 平安時代・延喜式所載の古社にして、かの二月堂お水取りに読み上ぐる神名帳にも赤穂明神とあり、連綿今日に至るまで読誦せらるゝ古例なり。
 上古、天武天皇皇紀6年(678)に十市皇女を、同10年(682)に氷上夫人を『赤穂に葬る』とあるは蓋しこの地辺ならむ(書紀には、十市皇女は天武7年、氷上夫人は同11年崩御とあり、1年違っている)
 もと社地広大にして数百余坪、桜樹多く、幕末頃まで桜田の地名ありき。
 近世の記録には天児屋根命を祀るとせるも、加ふるに『高貴の姫君を葬る』と口碑伝承あるは、いと久しく女人守護の霊験久しかりし証なり。

 明治御一新の後、この里荒廃し二百戸近き社家・祢宜の大半は離散して築地塀のみ虚しく残り、秋艸道人(会津八一)・堀辰雄らの文人哀惜の詩文あり、されど、より深く嘆きまさりし里人有志、滅びゆく天満宮址・弁財天を合祀して赤穂神社の左に配し、今に二社併存す。
 昭和5年(1930)以来、この地の産土神・鏡神社の別社となり、地元有志再興の至誠を注ぎつゝ今日に至る。神徳の長久を仰ぎ先人の篤信を継承して、復興の気運を待望するところなり。         
                       昭和52年9月18日 例祭の佳日 地元奉賀有志・鏡神社赤穂神社宮司 梅木春和」
とある。

 十市皇女(トイチ、653?--79)
 ・天武天皇の皇女(母:額田王)で、壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)に敗れた大友皇子(弘文天皇)の正妃。
 その死について、書紀・天武7年(679)条には、
 ・4月7日、天皇が斎宮(イツキノミヤ、天皇自ら神事を行うために隠る場所)に出立しようとしたとき、「十市皇女 にわかに病起こりて宮中に薨せぬ」
 ・4月14日、十市皇女を赤穂に葬る
とあり、赤穂は“今の奈良市高畑町の地か”という(岩波文庫版)

 氷上夫人(ヒガミノオオトジ・藤原夫人とも)は天武天皇の后で、天武11年(683)条に
 ・11月18日、氷上夫人 宮中に薨せましぬ。 
 ・ 同 27日、氷上夫人を赤穂に葬る
とあり、ここでいう赤穂は“奈良市高畑”(岩波文庫版)と“桜井市赤尾”(講談社学術文庫版)との2説がある。

 十市皇女が葬られたという赤穂の地については、古来から
 ・当地・高畑町とする説
 ・北葛城郡広陵町の“赤部”説、
 ・桜井市の“赤尾”説、
 ・天武持統陵から文武陵までの間にあった“安古”説
などの諸説があるが、高畑町内に“高貴な姫君の墓”と伝承する“比売塚”(現比売神社・下記)があることから、ここに十市皇女が葬られたとする説が有力という(Wikipedia)

 この十市皇女(あるいは十市・氷上両者)を葬った赤穂の地が当地とすれば、その霊を祀ったのが当社である蓋然性は高く、その創建は崩御年次からみて7世紀末以降となるが、傍証となる史料・伝承は見当たらない。
 ただ、式内社調査報告(1982)は、大乗院日記目録(興福寺所属の門跡寺院大乗院に伝わる1065~1504間の日記)・文亀2年(1502・戦国中期)3月10日条に、
  「高畑の南頬(ホボ)大焼亡 神功(カンボエ・高畑村にあった小字で、当社の所在地という-大和志)神躰以下悉く焼了
   東二条女院(御深草天皇中宮・藤原公子)の御願所也」(漢文意訳)
とあると記し、
  「その御願所たる理由が、十市皇女や氷上夫人の故事によるものかどうかは別しても、当社には古来、特に高貴な女性への信仰があったことは注目してよかろう」
として、当社と十市皇女(あるいは十市・氷上2者)との関わりを示唆している。

 当社由緒書きは、“二月堂お水取りに読みあぐる神名帳にも赤穂明神とあり・・・”として、当社が延喜式編纂以前からの古社であることを示唆している。
 ここでいう神名帳とは、天平勝宝4年(752)に始まったとされる東大寺二月堂の修二会(俗称:お水取り)執行に際して、日本全国60余州に鎮座する明神4900座などに対して修二会への参集を勧請して読みあげる一種の名簿で、そこで読まれる赤穂明神の名が当社祭神を指すとすれば、当社は8世紀中頃には存在していたとなる(ただ、今読まれる神名帳が当初からのものかどうかは不詳)

 当社は、延喜式神名帳(927)に列していることから10世紀初めにあったことは確実で、上記の十市皇女の件・修二会神名帳の件からみて、神階授与記録など確証となるものはないが、7世紀末から8世紀にかけて創建されたとみて誤謬はないかもしれない。

 当社創建後の経緯は不明だが、江戸中期の地誌・大和志(1734)に、
  「赤穂神社  南都高畑神功町(タカハタカンボウマチ)に在り」
とあることから、江戸時代には実在していたのは確からしい。
 しかし、維新後は、由緒書きに“この里荒廃、社家・祢宜など離散し云々”というように当地一帯が荒廃し、当社も一旦はなくなっていたようで、大和志料(1914・大正末)には
  「神名帳に見ゆ。亦既に紀伊神社に合祭せられしなり。大和志に南都高畑神功とあれど、何に依るか詳らにせず」
とあり、江戸時代にあったという大和志の記述に疑問を呈している。

 これらからみると、現在の社殿は、大正末期から昭和5年(1930)頃に造営されたもので(昭和5年の神官住居図には南面する社殿が描かれているという)、本来は独立社であるべきところを、地元有志のみでは祭祀もままならぬことから、当地の産土神・鏡神社(新薬師寺境内の南にある神社・下記)の庇を借りた別社として存続されたものと思われる(当社祭祀は鏡神社神主が兼務)

  当社が合祭されたという春日大社の末社・紀伊神社とは、春日大社本殿前から東南方に続く奥の院道(通称・福神15社廻り)の最遠端にある摂社で(創建由緒等不明)、大和志料には、紀伊神社について
 「長承注進状(1133)に、外院宝殿の巽(東南)方五町に紀伊神社所謂赤穂神・島田神・御前社石立命社・石立命神石吸神座す。(中略)
  (赤穂神社以下の)四神荒廃の後、春日の神地に合祭し、方位に依り紀伊神社と称せしか」
とあり、式内社調査報告は、祐房注進状(1133・長承注進状のこと)との古文書に、
 「平安末期から中世期を通じて春日の末社・紀伊神社の祭神を、神名帳所載の赤穂神・島田神・御前社石立命神・天乃石吸神四座とする信仰が存した」
とあるとして、当社と春日大社との間に何らかの関係があったのではないかと推察している
 ただ、今の紀伊神社祭神は、五十猛命(イソタケル)・大屋津姫命(オオヤツヒメ)・抓津姫命(ツマツヒメ)であって、当社他3社が祀られていた痕跡はみえない。
 
    紀伊神社(春日大社摂社)


※祭神
 社頭に掲げる案内には
   天児屋根命  一座
   天満宮     一座
   弁才天社    相殿
とあり、主祭神は天児屋根命(アメノコヤネ)となっているが、当社創建由緒からみて、本来の祭神は十市皇女であったと思われ、中臣氏の祖であるアメノコヤネとするのには疑問がある。
 多分に、嘗ての当社と春日大社との関係から、昭和の新社屋造営に際して勧請されたものかもしれない。

※社殿
 境内西側(左側)の簡単な拝殿奥の一画に朱塗り春日造の社殿が2宇、東面して鎮座し、右が当社、左が天満宮という。
 境内は清掃が行き届き、地元の方々の崇敬が篤いことが窺われる。
 社殿は、樹木に遮られて道路からは見えにくく、また、入口の左、塀を切り込んだ窪みに、「式内 赤穂神社」との石標が立つが目立つものではなく、ここに神社があることに気づく人は少ないであろう。

 
赤穂神社・社頭
 
同・社殿
(右:赤穂社、左:天満宮)


【比売神社(旧比売塚)
  奈良市高畑町(新薬師寺東南角・赤穂神社の東南約400m)
  祭神--十市皇女(トイチノヒメミコ)
※由緒
  当地には、嘗て、高貴な姫君の墓との伝承がある比売塚(国有墳墓地として奈良財務局が管理していた)があり、これを書紀にいう十市皇女の墳墓址とみて創建されたのが当社という。
  この比売塚は、長年祀る人も無く荒廃し廃絶の危機がせまっていたが、里人に祭祀を促す霊示があり(社頭に掲げる「夫婦で建てた比売神社」との新聞記事-2006・11月朝日新聞-によれば、寺島氏の奥さんに「私を祀ってくれ」という声が聞こえたという-大略)、寺島富郷氏が財務局に譲渡を乞い、その払い下げ許可を得て昭和55年に社殿を造営した小祠で、社地を新薬師寺に寄進、鏡神社の摂社として祭祀を委任したという。

※社殿
 新薬師寺入り口の右手、道路の曲がり角に立つ朱塗りの鳥居の奥一段高くなった処に、朱塗りの小祠一宇が南面して鎮座する(新薬師寺白壁の外)
 社殿の左に、手を取りあった夫婦像を浮彫にした石碑一基(道祖神的なものか)、その左に石碑数基が並び、奥から弘文天皇・十市皇女、葛野王・王妃、池辺王・王妃・淡海三船公・公妃との立札が立っているが、これらの由緒等は不明。

 
比売神社・全景

同・社殿 
 
同・石碑群


【鏡神社】
(南都鏡神社ともいう)
  奈良市高畑福井町(新薬師寺入口の左-西側-に鎮座)
  祭神--藤原広嗣・天照皇大神・地主神

※由緒
 新薬師寺入り口の左(西側)に鎮座する神社で、
 平安12年(740)に九州の地で起こった太宰少弐・藤原広嗣の乱平定後、怨霊と化した広嗣の霊を鎮めるために創建された佐賀県唐津市の鏡神社(天平17年・745)を、大同元年(806)、広嗣の屋敷跡と伝える新薬師寺の鎮守として勧請したものという。
 社務所無人のため、詳細不明。


鏡神社・鳥居 
 
同・本殿

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