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穴 栗 神 社
別称--穴吹神社・穴次神社・穴咋神社
奈良市横井1丁目
祭神--高御産霊尊・太玉命・青和弊・白和幣
                                                                 2014.02.12参詣

 延喜式神名帳に、『大和国添上郡 穴吹神社』とある式内社に比定されているが、神社では穴栗神社と称し、他にも穴次神社・穴咋神社とするものがある。

  JR桜井線の東を略平行して南北に走る県道169号線(上街道)の穴栗神社前(近鉄奈良駅前からバス便あり)バス停のすぐ北の角を東へ約150mほど入った道路北側の畠のなかのこんもりとした森の中に鎮座する。

 神社正面は森の東端から左(北)へ回りこんだ処に鳥居が立つが、森の西側にも狭い入口があり(嘗ては西側の正式な入口だったらしい)、傍らの藪のなかに『穴栗四社大明神』(元禄4年-1691-建立・H=1.5m)と刻した石標が立つ。


穴栗社の森(西側より)

社名石標

※由緒
 社頭に掲げる案内には、
  「この神社の鎮座する地は、古く、日本書紀・景行天皇(第12代)の条に『春日穴咋邑』(カスガアナクヒノムラ)と出ているところです。神社の名を穴吹・穴次と書くものもありますが、春日大社の記録によると、平安時代に、この地から穴栗・井栗の神が春日大社に勧請(分霊)されたと書かれています。
 境内にある元禄4年(1691)建立の社号標石にも『穴栗四社大明神』とあり、穴栗は古くからの呼び名です。
 現在、穴栗神社は横井東町の氏子がお祀りしています」
とあり、その創建由緒・時期等については記していない。

 また、古資料・大和志(1734・江戸中期)には
  「穴次神社  古市村菅内に在り。隣村横井独り祭祀に預かる」
 大和志料(1914・大正初期)には
  「穴栗神社  東(古)市村大字古市(穴栗)にあり。穴栗四社大明神と称す。本朝神社牒に、伊栗社・穴栗社・青榊社・辛榊社 右四社相殿。而して惣名穴栗神社と唱え候は即ち是なり。今村社たり」
とあり、いずれも、穴栗(穴次)神社は古市村(現古市町)にあるとはするものの、その創建由緒・時期等については記していない。

 なお、今の鎮座地は案内には横井町1丁目とあるが、奈良県史(1989)には古市町穴栗とあり、
  「古くは横井村の北西に鎮座していたが、寛文年中(1661--73)古市村の領主・藤堂和泉守によって現在地に遷座されたのもで、現在も社地は古市町ながら横井町の氏神となっている」
と、古くは現在地の西方にあったという。
 今の鎮座地付近は横井町1丁目となっているが、古市町との町界にあることから、古くは横井村・古市村いずれともとれたのかもしれない。

 当社名の2字目“栗”には諸字が充てられているが、おおまかにいって、神名帳関係では“吹”・“次”と、地元関係では“咋”・“久里”・“栗”とあるという(式内社調査報告・1982)

 これらのどれが本来の社名かは不詳だが(神名帳には穴吹とある)、大和志料は、
  「穴咋が本字で、咋・吹・次の草書体が相似ていることから、穴咋を穴吹と誤り、更に穴次と誤ったもので、今、これをアナクリと称するのは、アナクヒの転訛したものであろう」(大意)
と記し、続けて、日本書紀・景行天皇55年2月5日条に、
  「彦狭島王(ヒコサシマノミコ)を東海道十五国の都督(カミ)に任命した。これは豊城命(トヨキノミコト)の孫である。そして、春日の穴咋邑(アナクヒ)に至って病に臥して亡くなられた。」
とあるのを引いて、
  「疑うらくは、王の霊を祀りて穴咋と称せしか」
として穴咋が本字とし、且つ、当社の創建由緒をこの記録に求めている。
 なお書紀・崇神紀には、彦狭島王の祖父・豊城命(豊城入彦命)は崇神天皇の皇子とある。

 この景行55年の記事を以て当社創建由緒とすることについて、式内社調査報告は、「大和志料の説は必ずしも適当ではない」として疑問を呈しているが、これは、景行紀後段に
  「このとき東国の民は、王が来られなかったことを悲しみ、秘かに王の屍を盗み出して上野国(カミツケノノクニ)に葬った」
とあることかららしい。
 ただ、葬所と神社とが別々の地にあってもおかしくはなく、その霊を穴咋の地に祀ったというのも否定はできない。 
 また、4世紀末頃とされる景行朝に常設の神社があったかどうかは疑問で(その都度、神籬を設けての神マツリはあったであろう)、大和志料の記事は、後世になって地名・穴咋の一致から創建由緒を景行紀に求めたものと思われ、これらからみて、当社の創建由緒は不明とするのが妥当であろう。

 当社は今、穴栗社・伊栗社・青榊社・辛榊社の4社を以て構成されているが、その由緒は不明。また、同じ4社が春日大社境内(南門を入った右手)に末社として祀られており、古くから4社構成だったことが窺われる。

 この春日大社の末社について、大和志料には、
  「春日の末社に伊栗・穴栗・青榊・辛榊の四社あり。
 中臣祐房注進状(12世紀中葉)によれば、中院御前の南に青榊明神、其次南辛榊明神又の名天乃石立神又の名五百立明神座す、宝殿より南廿余町に穴栗明神又実名穴吹神と申す、井栗明神又実名宇奈太理坐高御魂神座すと見ゆ。
 彼の穴栗社とは当社より勧請せしか、また春日の末社よりここに合祭せしかを知らず。
 但し、中臣祐重(2代目若宮神主)記に、・・・穴栗・井栗社は若宮神主・祐房が横井村より奉御、中院に之を備進とあり、これに依れば、穴栗・井栗の二神は元本郡横井村にありしを、若宮神主・祐房が春日社境内に移祭せしものの如し。後考を俟つ」
とある。
 
 中臣祐重記に“春日末社の穴栗社は中臣祐房(初代若宮神主)が当地・穴栗神社から勧請した”とあり、その祐房が12世紀中葉(1135--56)の春日若宮の神主であったことから、横井村の当社が12世紀初め頃に実在していたのは確かと思われるが、その創建が何時の頃まで遡れるかは不明(式内社調査報告は「11世紀初めに実在したのは確実」というが根拠不明。12世紀初めの誤りか)

         *春日大社境内に鎮座する四社

 
伊栗社
(天太玉命)
 
穴栗社
(高御産霊尊)
 
辛榊社
(白和弊)

青榊社
(青和弊)

※祭神
 社頭の案内によれば祭神は次の四座で、向かって右から
 ・伊栗社--太玉命(フトタマ)
 ・穴栗社--高御産霊尊(タカミムスヒ)
 ・青榊社(アオサカキシャ)--青和幣(アオニギテ)
 ・辛榊社(カラサカキシャ)--白和幣(シロニギテ)
を祀るとある。

*タカミムスヒ
 穴栗社の祭神・タカミムスヒとは、古事記によれば、天地開闢のとき高天原に成り出た造化三神の一柱で、天御中主神(アメノミナカヌシ)に次いで成り出た神で(書紀では、本文ではなく一書4のみに記す)、その後、国譲り使者の派遣あるいは天孫ニニギ尊の降臨を主導するなど、アマテラスとともに高天原における中心的な役割を果たした神(書紀では、アマテラス以上に物事を主導したとあり、皇祖神的色彩が強い)
 また、記紀に記す皇統譜では、タカミムスヒの娘・ヨロヅハタトヨアキツシヒメ(書紀・タクハタチヂヒメ)が天孫・ニニギ尊の母とあり、タカミムスヒは母方の祖父という位置づけになっている。

 なお、タカミムスヒのムスヒは産霊とも記すが、産霊とは、万物を生みだし成長させる神秘で霊妙な力を意味するといわれ、本居宣長は、「産霊の産(ムス)とは生れ出ずることで、霊(ヒ)は神秘なる霊を意味し、そこから産霊(ムスヒ)とは凡て物を生成させる霊異なる神霊」(大意)という(古事記伝・1798)

 穴栗社がタカミムスヒを祭神とする由緒は不詳。強弁すれば、万物を生成する神として祀ったのかもしれないが確証はない。

*フトタマ
 伊栗社の祭神・フトタマ命とは、、古代宮中祭祀に携わった忌部氏(後の齋部氏)の祖神で、古語拾遺(807・忌部氏系史書)ではタカミムスヒの娘・タクハタチヂヒメの御子(タカミムスヒの孫)、先代旧事本紀ではタカミムスヒの御子(思兼命の弟)という。
 記紀によれば、天岩屋戸段でアメノコヤネ(中臣氏の祖神)とともに鹿の肩の骨を灼いて占い、真榊木を立て玉・鏡・和幣(ニギテ)などを掛けて祈祷し、天孫降臨に際して五部神の一として天孫・ニニギに従って降臨したという。

 伊栗社にフトタマ命を祀る由緒は不明。
 先代旧事本紀がフトタマ命をタカミムスヒの子とすることに関係するのかもしれないが、それを示唆する史料はない。
 ただ、伊栗社との社が、当地の古地名・伊久里の杜(イクリノモリ)に因むものとすれば、その祭神は在地の神かとも思われ、それを忌部氏が祖神・フトタマ命としたのかもしれないが、当地と忌部氏との関係は不明。

*和弊(ニギテ)
 青榊社・辛榊社の祭神は青和幣・白和弊となっているが、和弊とは、古事記・天岩戸段に
  「香山の真賢木(榊)を根ごと引き抜いて、下の枝に白和弊・青和弊を取り垂れて・・・」
とあるように、祭具の一つであって神名ではない(青和弊は麻の、白和弊はコウゾの繊維を裂いて造ったニギテという)

 そのような祭具を祭神とする由縁は不詳だが、先代旧事本紀に
  「天太玉命に諸々の部の神を率いて幣帛を作らせた。
 麻積の祖・長白羽神(忌部氏の一族というがはっきりしない)に麻を植えさせ、これを青和弊とした。また、津咋耳神(フトタマの孫)に穀木綿を植えさせ、白和幣を作らせた。どちらも一晩で生い茂った」
とあるように、フトタマ命(忌部氏)が和弊の製作に関係することから、一族が作った青和弊・白和幣を神格化して祀ったのかもしれない。

 これらからみて、当社は産霊の神・タカミムスヒを主祭神とし、これに旧事本紀などにいう御子・フトタマ及びそれが関与する和弊の神を配祀したといえる。
 ただ、配祀神の祀り方としては、本殿内に合祀という形をとるのが普通なのに、当社が4社それぞれが独立社として祀られている理由は不明。

※社殿等
 社域(森)の東側道路に東面して立つ鳥居を入り、参道(地道)を進んで森に入ったところに色あせた朱塗りの神門(瓦葺・四脚の控柱をもつ)が建つ。
 神門の奥、南面して横長の割拝殿(切妻造平入り・瓦葺)が、その後ろ、一段と高くなった処が本殿域で、正面中央に朱塗りの鳥栖が立ち、その左右に朱塗りの木製瑞籬が延びる。

 当社本殿は春日造社殿4宇を横に連ねた形態で、1本の棟木で連ねられた屋根(流造構造)の各社殿毎に千鳥破風4箇を有し、「七間社流造・正面千鳥破風付」という。
 4棟の社殿の間も壁で連なっており(社殿4間と繋壁3間で7間となる)、各社殿間の壁面には孔雀牡丹・孔雀松・菊の絵が描かれているというが、外から絵柄までは確認できない。

 
穴栗神社・鳥居
 
同・神門
 
同・拝殿
 
同・本殿域正面
 
同・本殿1
 
同・本殿2

◎末社

 式内社調査報告によれば、
  「末社に厳島・稲荷・神武天皇の三社がある」
とあり、拝殿の左手に末社3小祠が並ぶが、社名・祭神名の表示なし。

 祠の様式は、3宇とも同じ春日造・朱塗り・黒塗トタン葺きで、一社のみが朱塗りの小鳥居をもつ。



※万葉歌碑

  神門近くの参道脇(右手)に、自然石に彫り込んだ万葉歌碑がある(平成10年建立)

 その歌とは、高安王(天武天皇の御子・長親王の孫)
  「妹(イモ)が家に 伊久里の杜の 藤の花 今来む春も 常かくし見む」(巻17-3952)
   (イクリの杜の藤の花を また巡ってくる来る春も ずっとこうして眺めていたいものだ)
というもので(万葉集注釈では、妹の家とはイクリにかけた枕詞というが、“恋しい人の家があるイクリノモリ”とも解釈できる)、天平18年(746)8月7日、大伴家持の館での宴で、僧・玄勝が伝誦したものという。

 社頭の案内には、
  「歌に詠まれている“伊久里の杜”(イクリノモリ)は、井栗の神を祀っていた、この地です」
とある。

万葉歌碑

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