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甘樫坐神社
奈良県高市郡明日香村豊浦字寺内
祭神--推古天皇
                                                                  2013.05.09参詣

 延喜式神名帳に、『大和国高市郡 甘樫坐神社四座 並大 月次相嘗新嘗』とある式内社。社名は“アマカシニイマス”と読む。

 近鉄・橿原神宮前駅の東約2km、神宮前駅東口から県道124号線を東へ、飛鳥川に突き当たる手前の辻(豊浦バス停近く)を右(南)へ、豊浦宮(寺)跡といわれる向原寺の南角を右(西)へ入った先に鎮座する。

※由緒
 今、拝殿の柱に“祭神推古天皇 甘樫坐神社”との木札が掲げてあるのみで、由緒等の案内はないが、奈良県史(1989)他の諸資料によれば、当社に関する唯一の古記録である五郡神社記(1446・室町後期)
  「甘樫坐神社 八十禍津日命(ヤソマガツヒ)・大禍津日命(オオマガツヒ)・神直毘命(カムナオビ)・大直毘命(オオナオビ)、俗に湯起請神と云う、武内宿禰(タケウチスクネ)の創祀也」
とあるという。

 これは、書紀・応神天皇9年条に記す、“武内宿禰(タケウチスクネ)が弟・甘美内宿禰(ウマシウチノスクネ)から讒言されたとき、身の潔白を主張したので、天皇が二人に盟神探湯(クガタチ)をさせ、武内宿禰の潔白が証明された”(大意)との伝承をうけて、当社の創建を、本邦最初のクガタチで勝った武内宿禰に仮託したものだろうが、武内宿禰は斉明から仁徳まで5代の天皇に仕えたという伝説上の人物であり、当社の創建を応神朝(5世紀初め頃か)まて遡及できるかといえば疑問がある。

 ただ、書紀・允恭天皇4年条に
 「9月28日、勅して『群卿百寮および諸々の国造らは皆それぞれに“帝の後裔であるとか、天孫降臨に供奉して天降ったもの”とかいう。しかし開闢以来万世を重ね、ひとつの氏から多数の氏姓が生まれ、その実(マコト)を知り難い。それで諸々の氏姓の人たちは、斎戒沐浴し盟神探湯により証明すべきである』といわれた。
 そこで甘樫丘の辞禍戸崎(コトノマガエノサキ、言葉の偽りを明らかにし正す場所)に盟神探湯の釜を据えて、諸人を行かせて、『真実であるものは損われないが、偽りのものは必ず損傷を受けるだろう』と告げられた。
 諸人は、おのおの神聖な木綿襷(ユウタスキ)をかけて、熱湯の釜に赴き探湯(タチ)をした。真実である者は何事もなく、偽っていた者はみな傷ついた。そこで故意に欺いていた者は、怖し退いて進むことができなかった。
 これ以後、氏姓は自ずから定まって偽る者はなくなった」
とある(古事記・允恭天皇条では、甘樫の言八十禍津日-コトヤソマガツヒ-の前でクガタチをおこない、氏姓を正したとある)

 前・碕(サキ)が山の突きだした先端部をいうことから、ここにいう甘樫丘の辞禍戸碕とは甘樫丘頂から西北に延びた先端部、即ち当社付近の飛鳥川畔ではないかといわれ(日本の神々4・1985)
また、弘仁私記(812、平安時代に7回おこなわれた日本書紀の講義録の一つ)にも
 「允恭天皇の御宇、姓氏紛謬して尊卑決めがたし、因りて甘樫丘にて熱湯を探らしめ、真偽を定む。今大和国高市郡にある釜是なり」(式内社調査報告・1982)
とある事から、当社の創建を允恭朝に求める説もある。

 これが史実かどうかは不明だが、記紀編纂の当時(8世紀初頭)、飛鳥の地に置かれた最初の王宮は允恭天皇の遠飛鳥宮(トオツアスカノミヤ)と伝わっていたことから、氏姓の正邪を神判するクガタチの開始も允恭天皇に結びつけられ、氏姓の乱れを正し、正当な氏姓が定まったのは允恭天皇の御代との伝承があったのではなかろうか、という(日本の神々4-大意)
 因みに允恭天皇とは、所謂“倭の五王”の一人・“済”に比定される天皇で(異論もある)、済が西暦443年および451年に宋に遣使していることから5世紀中頃の天皇とされる。

 これを以て当社の創建を允恭朝に求めるのは早計だが、弘仁私記が“クガタチに使用した釜は、今(9世紀初頭)、高市郡にある”として(現存せず)、それが当社であることを示唆しており、
 また、三代実録(901)・嵯峨天皇条に
 「貞観元年(859)正月27日、大和国従五位下・・・甘樫神・・・に従五位上を授く」
とあることから、遅くとも9世紀初頭に実在していたのは確かといえる。

 なお盟神探湯(クガタチ)とは、人の真偽・正邪を判断するためにおこなわれた呪術的な裁判(神判)で、読んで字の通り、対象となる者に、神に潔白を誓わせた(盟神)後、釜の中で沸騰する熱湯に手を入れさせ(探湯、なお泥を釜に入れて煮沸し手を入れさせる方法もあったという)、その結果により事の正邪を判断するもので、正しき者は無事だが、偽りのある者は大火傷を負ったという。

 これらの伝承からみて、当社の辺りはクガタチをおこなう神判の場として知られていたようで、当社も又それにかかわる神々を祀る社とされたのであろう。

※祭神
 今の祭神は『推古天皇』となっているが、
 ・五郡神社記(1446・室町後期)--
     八十禍津日命(ヤソマガツヒ)・大禍津日命(オオマガツヒ)・神直毘命(カムナオビ)・大直毘命(オオナオビ)
 ・大和名所記(和州旧跡幽記ともいう、1681・江戸前期)--
     豊浦村の社 推古天皇を祠奉りしとなり。この天皇は豊浦を皇居とせさせ給ひしかば、さも侍りなからん
 ・当社所蔵棟札(1631)--六所大明神(神名不明)
 ・大和志(1734・江戸中期)--甘樫坐神社四座 豊浦村に在り、今推古天皇と称す
 ・当社所蔵棟札(1758)--主祭神:推古天皇、相殿神:八幡宮・春日大明神・天照皇大神・八咫烏神・住吉大明神・熊野権現
などの諸説があり(式内社調査報告)、推古天皇とされたのは江戸時代以降とみられる。

 祭神を推古天皇とするのは、大和名所記がいうように、当天皇が当地付近といわれる豊浦宮にて即位され(592/12)、小墾田宮に遷られる(603)までの11年間皇居とされたことによるとおもわれるが、当社と推古天皇との間に直接的な関係はみえない。
 今、当社の東に隣接する向原寺が豊浦宮の跡といわれ、同寺前に掲げる解説板には、
 「豊浦寺跡  603年推古天皇が豊浦宮から小墾田宮に移った後に、豊浦寺を建立したとされている。近年の発掘調査で、寺院の遺構に先行する建物跡がみつかり、これを裏付けている。・・・」
とある。

 しかし、創建由緒を允恭天皇のクガタチに求めること、古事記で甘樫の言禍津日(コトマガツヒ)の前といっていること、延喜式に四座とあることなどから、当社本来の祭神は、五郡神社記がいうヤソマガツヒ命以下の四座ではないかと思われる。

 この四座の神々は、黄泉の国(ヨミノクニ、死者の国)から帰ったイザナギが筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原(アハキハラ)で禊ぎをしたとき成り出た神々で、古事記には
 「中っ瀬に沈み潜って身の穢れを洗い清められたときに成った神の名はヤソマガツヒ神、次いでオオマガツヒ神。この二神は、あの穢らわしい黄泉国に行ったとき触れた穢れによって成り出た神である。
 次に、その禍(マガ)を直そうとして成り出た神の名は、カムナオビ神、次いでオオナオビ神」
とある(書紀にはオオマガツヒ神は出てこない、オオは多いことを示すヤソと同意のため同一神とみたものか)

 この4神の神格は、簡単にいえば“曲がった事を起こす神”とそれを“正しく直す神”となるが、西郷信綱氏は次のように注釈している(古事記注釈第一巻、1975)
 八十禍津日神・大禍津日神
  “八十”は多いことだがオオマガツヒの“大”とともに一種の称辞である。“マガ”は曲がっていること・悪事・凶事をいう(ツは助詞、ヒは霊)。禊ぎでまず化成したのがマガツヒ神であったのは、禍事(マガコト)のうちで死のケガレが一番重大とされていたからである。
  このマガツヒ神が死の国のケガレによって成ったとあるのは、この世の禍言は即ちケガレであるとされていた消息を物語る。

 神直毘神・大直毘神
  マガ(曲・禍)にたいするのがナホ(直)で、その(マガツヒ神がもたらした)“禍(マガ)を直さむと為て”成ったのがこの二神である。“神”と“大”は称辞ないしは接頭語で、本体はナホビ、これは“マガをナホスはたらき”そのものを一種の神格と観じたものである。

 これらの4神は一般には馴染みがなく、その神格も現今の世相では理解しがたい(神学的なワザワイとかケガレとかいっても理解困難)、いわば忘れられた神々であって、当社が、祭神を推古天皇以下の神々とするのは、その時代の風潮にあわせて、その時々に流行した神々を祀ったということであろう。

※社殿等
 向原寺山門を過ぎて南側の塀に沿って西へ入った突き当たりが当社。
 数段の石段を登った境内正面に拝殿(切妻造平入、短い向拝あり、瓦葺)があり、その右手に立石(下記)が立つ。
 拝殿の後ろ、低い石垣と玉垣(中央に鳥居あり)に囲まれた中が神域で、中央に本殿(春日造、銅板葺)、その左右に相殿舎2棟(一間社流造、銅板葺)が、いずれも東面して建つ。

 各社殿に祭神名の表示はないが、中央本殿は推古天皇とみて間違いなかろう。
 左右の相殿舎については、式内社調査報告(昭和57年)に「本殿の左右に三間社が各一棟ずつ並ぶ」とあることから、宝暦8年の棟札にいう八幡宮・春日大明神・天照皇大神・八咫烏神・住吉大明神・熊野権現の6座を祀るのかもしれない(本殿を含めてまだ新しく、近年になって、三間社が一間社に改築されたらしい)
 当社本来の祭神と思われるヤソマガツヒ神以下4座を祀るとみる場合は、今の社殿構成ではどのように祀られているのか説明困難で、たぶん、この神々は早い時点で忘れられたのであろう。

 
甘樫坐神社・拝殿
 
左:拝殿  右:立石
 
同・神域
 
同・本殿
 
中央:本殿  左右:相殿舎

◎盟神探湯神事(クガタチシンジ)  
 当社では、拝殿右手の塀に囲まれた中に立つ“立石”(高≒3m、巾≒1.5m、厚=1m)の前で、盟神探湯神事と称する神事がおこなわれるという。

 境内に立つ案内によれば、
 「現在では毎年4月、境内にある“立石”の前に釜を据え、嘘・偽りを正し、爽やかに暮らしたいという願いを込め、大字豊浦・雷が氏子となって“盟神探湯神事”として、その形を保存・継承しています」
とある。

 ただ、本来のクガタチは熱湯の中に手を突っこんで、神判を仰ぐものだが、今は、湯の中に笹あるいは榊の枝などを差し込んで含ませた湯を周囲に振りまく、所謂、湯立神事(ユダテシンジ)を以て、これに充てているという。

 この立石が何処にあったものか、クガタチに関わるものかどうかは不明(たぶん、無関係であろう)
 祭祀遺跡・結界石(神域を示す境界石)あるいは条里制地割りの標石など諸説があるが、飛鳥に多い石造遺構の一種というだけで定説はない。 

立石
 なお、書紀・斉明天皇・3年(657)条および5年(659)条・6年(660)条に、飛鳥寺の西(3年)や甘樫丘東の川原(5年)、石上池の畔(6年)に須弥山石(シュミセンセキ)を造って、都貨羅人(トカラビト、イラン系のゾロアスター教徒ではないかという)や蝦夷(エミシ)・粛愼(ミツハセ、旧満州方面のツングース系の人々)といった客人を饗応したとある

 須弥山石が甘樫丘の辺りにあったことからみて(石上池の位置不明、現和田池か)、古く、当社付近には宮廷饗応の場があり、当社の立石も、そういった場に設けられた特殊な遺物のひとつかもしれない、ともいう(式内社調査報告)

 なお須弥山とは、仏教世界の中心にそびえる聖なる山をいう(仏典では、高さ16万由旬-約56万km-の聖山で、仏・菩薩・諸天など多くの仏等が坐すという)
 石神遺跡(飛鳥寺の西北)出土の須弥山石は石造噴水施設の類で、内部が刳り抜かれ、底から水を引き上げて下の石に溜め、小さな穴から四方へ吹き出させる構造で、今の噴水のようなものという(飛鳥資料館)
 飛鳥資料館(明日香村奥山)内に石神遺跡から出土したもの(4段中下から2段目の石は未発見という)、前庭にそれを想定復元したレプリカ(4段石)が立っている。 
須弥山石-1
(石神遺跡出土品)
須弥山石-2
(資料館前庭・レプリカ)

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