トップページへ戻る

殖 栗 神 社
奈良県桜井市上之庄
祭神--殖栗王・天児屋根命
                                                                 
2014.7.24参詣

 延喜式神名帳に、『大和国城上郡 殖栗神社』とある式内社。社名は“エクリ”と読む。

 JR桜井線・桜井駅(近鉄大阪線・桜井駅)の西北約1.3km(南西約900mに近鉄・大福駅あり)、駅北から市道を北へ約600m(右に大神神社あり)を左折、桜井市役所北側の道路を西へ、国道169号線を越えて約200m、寺川の北・県道14号線の東に鎮座する。

※由緒
 創建由緒・時期等不明、また当社への神階綬叙記録等も見えない。

 当社に関する近世以降の資料として(括弧内は引用者注)
 ・大和志(1734・江戸中期)
   在所未詳
 ・大和志料(1914・大正3)
   延喜神名帳に見ゆ。志に所在未詳とあるに神名帳考証には在外山村と(神名帳考証にそれらしき記述はない)、何に拠るを知らず。今三輪町大字上ノ庄の村社を以て之を称す
   祭神詳ならず。殖栗氏の祖か。氏は中臣と祖を同じくし天児屋根命の後なり
 ・桜井市史(1979)
   寺川の北側、上之庄集落の南西隅にある旧指定村社
   江戸時代は三十八神社[安永2年-1773・寛政3年-1791・文化2年-1805の各石灯籠に三十八社との銘あり]といったが、明治10年(1877)の記録[区有文書]では上之庄神社、明治24年(1891)の大和国町村誌集では既に殖栗神社となっている
   祭神に殖栗王・天児屋根命をまつり、式内社の殖栗神社をここにあてている
 ・奈良県史(1989)
   近鉄大阪線大福駅の東北900mの位置で、上之庄集落の西南隅、寺川の右岸に鎮座する
   元は初瀬川南岸で同集落の東北隅、上ツ道のすぐ西小字江繰(エクリ)に鎮座していたと伝える
   祭神は殖栗王と天児屋根であるが、殖栗王は用明天皇の第三皇子で母は穴穂部間人皇女。姓氏録左京皇別の蜷淵真人の祖である
   延喜式神名帳の小社・殖栗神社に比定されるが、「安永2癸歳(1773) 三十八社 九月吉祥日」との石灯籠銘があり、明治7年(1874)頃まで三十八神社と称していた。同40年(1907)小字十ノ森の春日神社を合祀、社名を殖栗神社と改めた
などがあり、

 これらを総括する形で、式内社調査報告(1982)
   明治7年(1874)の郷村社取調帳に三十八社とあり、境内の安永2年(1773)・寛政6年(1794)・文化2年(1805)の石灯籠に三十八社との銘文があり、元は三十八社と呼ばれていたことがわかる
   従って、当社は元々殖栗神社ではなかったわけで、大和志の城上郡神廟の条では「在所未詳」とある
   しかし、旧鎮座地は上之庄領の東北隅にあたる字十ノ森(トヲノモリ)付近ともいわれ、現在も水田の中に雑木林をのこしている(当社の東北約300m、今十ノ森との字名は確認できないが、森の南に十ノ森神社との小祠があり、この辺りが字十ノ森であったと思われる)
   たまたま、字十ノ森(トヲノモリ)の春日神社の近くに字江繰(エクリ)があることから、殖栗神社に改めたものであろう
   ただ、肝心の字十ノ森鎮座の春日神社は、明治40年(1907)に殖栗神社の境内へ合祀された
という。

 これらからみて、当社は元字十ノ森近くの江繰にあったようだが、それが明治40年に合祀された春日神社を指すのか、別社を指すのかは不詳。
 大和紀伊・寺院神社大辞典には、
  「春日神社の祭神は不詳ですが、江戸時代には『藤森(トウノモリ)六社』とあって、6柱の神を祀っていた。
 また、春日神社記に、鹿島の神を大和へ奉遷する際、随行の時瀬・秀行に殖栗連の姓を賜ったと記されている」
とある。
 これによれば、この藤森の神社が春日神社で、その古称が式内・殖栗神社ともとれるが、今、春日神社は末社扱いとなって本殿域の右手に祀られていることからみると、春日神社が式内・殖栗神社とは思えない。

 桜井市史によれば、江戸時代の三十八神社が明治24年の古文書には殖栗神社と記されていたとあり、これによれば明治40年の春日神社合祀前に三十八神社を殖栗神社に充てていたととれるが、その根拠は不詳。

 いずれにしろ、字十ノ森近くに字江繰との地名があったから、式内・殖栗神社と改称したというのは安易すぎ、大和志がいうように「所在不詳」とするのが妥当かもしれない。

 なお、明治40年の春日神社の合祀は、明治末年におこなわれた明治政府によって半強制的におこなわれた神社の統廃合政策によるものであろう。

※祭神
 今の祭神は、
  ・殖栗王(エクリノキミ)
  ・天児屋根命(アメノコヤネ)
というが、延喜式に一座とあることから、本来の祭神は殖栗王一座で、天児屋根命は合祀された春日神社の祭神であろう。

 殖栗王について、奈良県史(1989)
  「殖栗王は用明天皇の第三皇子で、母は穴穂部間人皇女。姓氏録・左京皇別の蜷淵真人(ニナフチマヒト)の祖である」
とし、用明天皇(在位585--57)・第3皇子の殖栗皇子(聖徳太子と同腹の弟、生没年不詳)という。
 新撰姓氏録(815)に、
  「左京皇別  蜷淵真人  用明皇子殖栗王より出ず」
とあることから、殖栗王と殖栗皇子は同じ人物と解されるが、殖栗皇子及びその子孫とされる蜷淵真人氏と当社との係わりは不明。

 式内・殖栗神社は、江戸時代には在所不詳ということから、その祭神名も忘れられていた蓋然性は高く、三十八神社を式内・殖栗神社と改称するに際して、社名・人名が殖栗と一致することから、用明の皇子・殖栗王を充てたものとも解され、式内・殖栗神社本来の祭神である確証はない。

 因みに、書紀・天武11年(683)6月条に
  「12日、五位殖栗王が卒した」
とあり、これによれば、殖栗皇子の百年ほど後に殖栗王なる人物がいたとなるが、この殖栗王の出自・事績当社との関係は不明(官位・五位というのは皇族の子孫としては低く、殖栗皇子とは無関係か)

 一方、続日本紀(797)元明天皇・和銅2年(709)6月28日条に
  「従7位下の殖栗物部名代(エクリノモノノベナシロ)に殖栗連の姓を賜った」
とあるが、この物部名代が殖栗連を賜る由縁は記載されておらず、また蜷淵真人氏との関係も不明。

 また、特選神名牒(1876・明治9)・殖栗神社項は
  「今按ずるに、社伝に祭神詳かならずとあれど、こは中臣殖栗連の祖神・天児屋根命なるべし。・・・
 新撰姓氏録に殖栗連は大中臣と同祖とみえ(左京神別 殖栗連 大中臣同祖とある)、春日社司辰市の系図に、神宮の神官の預り中臣時風が神護慶雲2年(768)11月の神幸に扈従、天児屋根命25世孫・鹿島の大宮司中臣連大宗の長男に殖栗の姓を賜ふとあり(鹿島の神の春日への遷座に従った中臣時風・秀行が、名張の薦生山で、神から頂いた焼栗を植えたところ芽が出たことから殖栗連の称号を賜ったという伝承がある)
 必ず殖栗連の祖神なるべく思はるるなり」
として、その殖栗連の祖神(天児屋根命)が当社祭神ではないかという。

 これによれば、続日本紀・特選神名牒(姓氏録)にいう殖栗連は、いずれも物部氏系氏族ということでは同じだが、賜姓時期・賜姓人物が異なり、別系譜で、当社に関係する殖栗連は後者と思われる。
 ただ、神護慶雲2年とは現春日大社の創建年次とされる年だが、続日本紀・神護慶雲2年条に春日社創建、殖栗連賜姓を示唆する記事はない(春日大社の創建は藤原氏・中臣氏の私的行為であるとして、正史には記録がないのかもしれない)
 また、この殖栗連が祀った祖神とは、当社に合祀されている春日神社の祭神を指したものと思われ、式内・殖栗神社の祭神かどうかははっきりしない。

 これらのことから、式内・殖栗神社は祭神も不詳とするのが妥当であろう、

 なお、当社の前身・三十八神社の創建由緒・祭神等は一切不明だが、境内にある石灯籠で、「安永二癸歳(1773・江戸中期) 三十八社 九月吉祥日」と刻したものが最古であることから、そう古くからの神社ではないのかもしれない。

 なお、本殿内には、市杵島神社(市杵島姫神)・天満神社(菅原神)・須佐之男神社(須佐之男神)が合祀されているというが(式内社調査報告)、その合祀由緒・時期等は不明。

※社殿等
 国道169号線の桜井西小学校北側の交差点から西へ入る小路(西への小路は2本あるが右・北側の小道を進む)を道なりに進んだ突き当たりに当社への入口がある。

 入口から参道を進んだところに立つ鳥居の右手が社殿域で、正面に横長の拝殿(切妻造・銅板葺)が、その奥、玉垣と土塀に囲まれた中が本殿域で、中央の朱塗りの本殿(春日造・銅板葺)が南面して鎮座する。

 境内には石灯籠15基があるといわれ、その殆どが三十八社と刻銘されたもので、見たところでは、鳥居裏の一対だけに殖栗神社とある。。

 
殖栗神社・正面入口
 
同・鳥居
 
同・石灯籠(三十八社とある)
 
同・拝殿

同・本殿
 
本殿域
(本殿前に神門が見える)

◎末社

 本殿域の右手、正面を玉垣、三方を白い土塀に囲まれ一段と高くなった一画に、末社2社が鎮座する。

 右小祠--字十ノ森から遷した春日神社
 左小祠--字二ツ神から遷した稲荷神社

 小祠はいずれも春日造・銅板葺で、朱塗りが映える本殿に比べて、大分古くなっている。

 字十ノ森から遷した春日社が末社扱いとなっていることは、これが式内・殖栗神社ではないことを示唆するのかもしれない。

末社・左:稲荷社、右:春日社

◎十ノ森

 国道1639号線を約1.8mほど北上した道路東側に広がる田畑の中にこんもりとした森があり、春日神社があった十ノ森と推定されている。

 森は東西には長いが南北には浅く、周囲に近づける畦道もなく、内部の状態は実見不能で、ここに春日神社があったかどうかは確認できない。





。 

十ノ森推測地

◎十ノ森神社
 十ノ森推定地の南、国道169号線と県道105号線の交差点の東、スーパー・コメリの東横に、十ノ森と称する神社が鎮座している。
 神社といっても、鳥居と御神体を覆う小舎からなるもので、小舎の中には御神木らしい古木(枯木)が祀られているのみで、傍らの由緒略記には
  「十ノ森鎮座の春日神社は、大正8年殖栗神社へ合祀された。しかし、十ノ森に自生する大樹は霊木であったので種々の事象を経て、大東を戦争末期の昭和18年頃に再び元の十ノ森に遷御し敬仰せられた。
 この度、中和幹線道路が十ノ森の地を横断するに当り、この地を御神木の鎮座にふさわしい地と定め、遷座せしめたものである。 平成2年12月建之 区長 神社総代」
とある。

 春日神社の殖栗神社合祀の時期に相違はあるものの(明治政府による神社統廃合は、明治末から大正初めにかけておこなわれたもので、大正8年としても大きな違いはない)、これが史実ならば、殖栗神社に合祀された春日神社は、大戦末期に元の地に復帰し、平成になっての道路工事で現在地に遷座したことになり、式内・殖栗神社とは無関係となる。
 ただ、元の地・十ノ森に復帰した春日社を現在地に移したのは幹線道路(小祠の南を通る県道105号線か)工事のためというが、現在地と十ノ森とは離れており工事のため支障になったとは思えない。

 この小祠は、地元に残る伝承による鎮座と思われるが、管見した諸資料にこれを示唆するものはなく確認不能で、これを証するためには、春日神社が十ノ森地区の何処に復帰したのかの確認が必要であろう。

 
十ノ森神社・全景
 
同・御神木

トップページへ戻る