トップページへ戻る

御霊神社
奈良市薬師堂町24
祭神--井上皇后・他戸親王・事代主命
付--井上神社(旧社地)
                                             2021.03.24参詣

 近鉄奈良駅の南南東約1km、駅東の商店街を南下し、信号を過ぎ、元興寺小塔院跡(門柱一対が立つ)のすぐ南の角を東へ入った先に鎮座する。元興寺の一つ南の街区にあたる。

※由緒
 当社HPによれば、
 「当神社は延暦19年(800)人皇第50代桓武天皇の勅命により御創祀された神社です。 
 御祭神の井上内親王は人皇第49代光仁天皇の皇后で聖武天皇の皇女にて、称徳天皇の異母姉であります。
 宝亀元年(770)白壁王が即位され光仁天皇となられると同時に井上内親王は皇后となられ、翌年には御子他戸親王も皇太子になられました。
 しかし宝亀3年(772)天皇を呪詛したと疑いをかけられ皇后位も剥奪され、他戸親王も皇太子を廃され、大和国宇智郡(五條市)に幽閉されたのち宝亀6年(775)4月27日、母子ともに薨去されました。

 奈良時代の混乱と政権争いの中で、光仁天皇の第一皇子で渡来氏族の高野新笠を母とする山部親王(後の桓武天皇)を擁立する藤原百川(藤原式家の祖)の策謀によるものと伝えられています。

 薨去後、都に天変地異が相次ぎ疫病が流行したため、母子の祟りと恐れた天皇は諸国の国分寺の僧侶600人に金剛般若経の読経をさせ、墳墓を改葬して山稜とし、吉野皇太后の追号を贈り、手厚く慰霊されました。

 奈良時代・平安時代の人々は、無実の罪を着せられて非業の死を遂げた人の恨みの心が怨霊となって災いをおこすと考えました。しかし、その怨霊を丁重にお祀りすれば御霊として守護してくれる神になるという風に考えるようになりました。これが御霊信仰の始まりです。

 三代実録によりますと、最初に行われた御霊会は貞観5年(863)5月20日に神泉苑で行われています。
 早良親王・伊予親王・藤原吉子・観察使・橘逸勢・文屋宮田麻呂ら六所の御霊を祀り、御霊を慰めるための供物をし、僧侶の読経・雅楽を奏し盛大に行われました。

 奈良の町には南の出入口として三つ街道があり、疫病の侵入を防ぐための御霊会が営まれ、上つ道に早良親王を祀る崇道天王社、中つ道に井上皇后を祀る井上御霊社、下つ道に他戸親王を祀る他戸御霊社が造営されました。
 この井上御霊社が当社のはじめです。

 宝徳3年(1451)土一揆により元興寺金堂以下主要堂宇が火災で焼失し、井上郷(奈良市井上町)の井上御霊社も焼失してしまいました。
 その後、現在の地に遷座され、元興寺の鎮守社としての役割を持つようになり広く信仰されるようになりました。

 御本殿に井上皇后・他戸親王の神霊二座、東側社殿に早良親王・藤原広嗣・藤原大夫人の神霊三座、西側社殿に伊予親王・橘逸勢・文屋田麿の神霊三座をお祀りし、あわせて八所御霊大神ともうしあげます。

 豊臣秀吉の時代、町切りといわれる町域区分の確定が行われて以来、氏子関係が確立し、県下唯一の広範囲である氏子地域七十余町を守護する氏神でもあります」
という。

 奈良・平安時代には、恨みを残して非業の死をとげた人の霊は、怨霊となって、その相手や敵などに災いをもたらし、社会全体に疫病などの災いをもたらすとして怖れられたという。
 しかし、怨霊となった人の霊も、復位・諡号・官位追贈などによつてその霊が慰撫され、神として祀られれば、逆に恨みを鎮めて社会に平穏を与えるという思想も生まれ、その鎮まった怨霊を御霊という。
 これは、悪神も丁重に祀られることで善神に変貌するという古代からの思想を怨霊に当てはめたものであろう。

 しかし、怨霊が慰撫されて御霊になるというのには違和感がある。
 何故ならば、御霊と呼ばれる人々は、その経緯をみると、朝廷を舞台とする政争における敗者であり、そのなかで無実の罪を着せられて死に追いやられていることからいえば、御霊とは単に個人的な恨みによってなった怨霊ではなく、政治的な葛藤のなかで死に追いやられた人の怨霊であって、その祟りは己を死に追いやった相手方のみならず、広く社会全体に天災地異・疫病流行などの災禍をもたらしたことから、これらの怨霊を特に御霊と呼んで怖れたとも推測される。

 その御霊を神として祀る儀式が「御霊会」といわれるもので、記録上では清和天皇・貞観5年(863)、朝廷の手によって京都・神泉苑で行われた御霊会が最初であって、そこで祀られた御霊は、崇道天皇(早良親王)・伊予親王・藤原大夫人・橘逸勢・文屋宮田麿・観察使(藤原広継又は藤原仲成)の6柱で、これを六所御霊という(三代実録)

 その六所御霊のなかに当社の主祭神・井上皇后と他戸親王は入っていないが、この2柱は神泉苑御霊会以降に加えられた御霊であって、この8柱を八所御霊という(追加の2柱には諸説がある)


 上記HPには、当社は延暦19年、桓武天皇の勅令による創建とあるが、
 「桓武天皇・延暦19年、宇智郡の御霊神社(下記)から、元興寺南大門前に勧請したが、元興寺の大火とともに焼失、室町末期の宝徳3年(1517)現在地に再建・遷座した」
との史料もあり、この南大門前とは井上町にある井上神社(下記)の辺りを指すと思われる。


※祭神
 頂いた由緒略記には次のようにある。
 本殿--井上皇后・他戸親王(オサベシンノウ)・事代主命(コトシロヌシ)
 本殿東側社殿--早良親王(サワラシンノウ)・藤原広継(フジハラヒロツグ)・藤原大夫人(フジハラダイフジン)
 本殿西側社殿--伊予親王(イヨシンノウ)・橘逸勢(タチバナハヤナリ)・文屋宮田麿(ブンヤミヤタマロ)

 当社は、主祭神である井上皇后・他戸親王に、神泉院御霊会で祀られた六所御霊と事代主命を併せ祀っている。

*井上皇后(717--75)--聖武天皇の皇女で光仁天皇の皇后、他戸親王の母
   神亀4年(727)伊勢斎王として下向、天平16年(744)弟・安積親王の薨去により斎王の任を解かれ帰京
   帰京後、白壁王(後の光仁天皇)の后となり他戸親王を出産
   宝亀元年(770)光仁天皇の即位により同年11月立后、翌2年正月、他戸親王立太子
   宝亀3年(772)3月、光仁天皇を呪詛したとの疑いをかけられ皇后を廃され、5月他戸親王も皇太子を解任
    (水鏡によれば、「后は呪詛をして呪物を井戸に投げ入れ、天皇の早死を願い他戸親王を位に就けようとした」という)
   宝亀4年(773)10月、難波内親王(光仁天皇の同母姉)を呪詛して死に至らしめたとする讒言により他戸親王とともに庶人に落とされ、大和国宇智郡(現五條市)に幽閉
   宝亀6年(775)4月、幽閉先で他戸親王とともに急死(暗殺説もある)

 その後の経緯について、五條市HPによれば、
 ・井上廃后の死後、天変地異が続発したのは廃后の祟りと恐れられ、宝亀10年(779)に藤原百川が急死したのも、廃后が竜に変身して蹴殺したといわれた(愚管抄)
 ・延暦9年(790)、皇后薨去の地とされる宇智郡竜安寺町に御霊神社(御霊本宮、祭神:井上内親王・早良親王・他戸親王)が創建された
     (これが当社の元宮で、ここから元興寺南大門前に勧請され、その焼失により現在地に再建されたと思われる)

 ・延暦13年(794)、廃后を皇后の位に復し吉野皇太后号を贈られ、その墓も改葬されて宇智陵(井上内親王墓)と称した
という。

*他戸親王(761--75)--光仁天皇・井上皇后の皇子
   光仁天皇の即位により宝亀2年正月立太子
   宝亀3年5月、母・井上皇后の光仁天皇への呪詛事件に連座して廃太子
   宝亀4年10月、母・井上廃后の難波内親王呪詛事件に連座、庶人に落とされ、母とともに幽閉
   宝亀6年4月、幽閉先で母ととも急死

 この両者は、井上皇后の光仁天皇及び難波内親王の呪詛事件により廃后・廃太子され、幽閉先で急死したというが、皇后であり皇太子である両者に天皇や難波内親王を呪詛する理由はなく、
 この一連の事件は、他戸親王の異母兄(母は高野新笠)である山部親王(後の桓武天皇)を天皇に擁立しようとする藤原式家による他戸親王追い落としの陰謀によるとする見方が有力で、その裏には藤原式家と北家間の勢力争いがあったという。
 なお、山部親王は他戸親王が皇太子を廃された翌年(774)正月に立太子し、天応元年(781)光仁天皇の薨去により第50代天皇として即位(桓武天皇)している。

*早良親王(750--85)--光仁天皇の皇子で、桓武天皇の弟
   母・高野新笠が下級貴族出身のため立太子をあきらめ出家していたが、桓武天皇即位のとき要請されて還俗して皇太子となったが、延暦4年(785)長岡京造営長官・藤原種継の暗殺事件に連座して皇太子廃位のうえ乙訓寺に幽閉され、絶食して無実を訴えるも聞き入れられず、淡路国への配流途中で憤死したという
   最強の御霊として怖れられ、延暦19年(800)に「崇道天皇」(スドウテンノウ)と追贈されたが、皇統譜には含まれていない

*伊予親王(783--807)--桓武天皇の第3皇子
   父・桓武天皇から寵愛され朝廷内でも高官に就いていたが、大同2年(807)謀反を企んとして捕らえられた藤原宗成(北家)が伊予親王が反逆の首謀者であると自白したことから逮捕され、母・藤原大夫人とともに河原寺に幽閉され、母子ともに自害したという
   藤原北家と南家の勢力争いに巻き込まれての憤死ともいう

*藤原大夫人(?--807、藤原吉子)--桓武天皇の夫人で伊予親王の母、藤原南家出身
   子・伊予親王の謀反事件に連座して幽閉され、親王とともに自害したという

*藤原広継(?--740)--藤原式家出身の貴族
   天平9年(737)、聖武朝での権力者・藤原4兄弟が相次いで亡くなったのち政権の中枢に座したが、翌年、反藤原勢力の要・吉備真備や僧・玄昉の排除を謀った(同族であった時の右大臣・橘諸兄への批判ともいう)として太宰府に左遷され、天平12年(740)反乱を起こすも敗れ処刑されたという
   なお、この藤原広継が史料的に確認できる御霊の最初というが、異説もあるという

*橘逸勢(782--842)--平安初期の貴族
   延暦23年(804)、最澄・空海とともに唐にわたり書・琴を学び、帰国後その道の第一人者として名を為し三筆と呼ばれた
   承和9年(842)嵯峨天皇の没後すぐに謀反を企てているとの疑いで捕縛され、謀反人として伊豆国に流される途中で病没したという

*文屋宮田麿(生没年不明)--平安初期の貴族
   承和10年(843)従五位上の官位にあったが、従者からの謀反を謀っていると告発されて逮捕され、家宅から武器等が押収されたこともあって謀反人として伊豆国に配流され、その地で没したという

 いずれも、時の朝廷内あるいは同族間での勢力争いに敗れ、無実の罪を科せられ失意の中で不慮の死を遂げさせられた人の御霊というが、その真偽を云々するに足りる資料はない。

*事代主命
   いわゆる御霊を祀る当社に、出雲の神である事代主命を併祀する由縁は不明。
   あえていえば、ヤマト朝廷からの国譲り強要に際し、これを受諾して乗っていた船を傾けて海中に入ったというから、国譲りを強制されたということから御霊としたのかもしれないが、事代主命はエビス神と習合しているものの御霊的神格はみえない。


※社殿等
 道路脇に立つ朱塗りの鳥居を入り白壁に挟まれた門を入った先が境内で、その正面に入母屋造・亙葺きの拝殿が南面して建つ。

 
御霊神社・鳥居

同・拝殿 

同・拝殿(側面) 

 拝殿の背後、朱塗りの瑞籬に囲まれた中に本殿3宇が南面して鎮座する。
 本殿は3社構成となっており、中央に本殿、向かって左に本殿西側社殿、右に本殿東側社殿が鎮座し、それぞれ3柱の祭神を祀っている。

◎本殿--春日造・朱塗り・銅板葺き
   祭神--井上皇后・他戸親王・事代主命


同・本殿 
 
同・本殿(側面)

◎御本殿西側社殿・御本殿東側社殿
 本殿の左右に、切妻造平入り・朱塗り・銅板葺きの社殿2宇が鎮座する。
  祭神--西側社殿--伊予親王・橘逸勢・文屋宮田麿
        東側社殿--早良親王・藤原広継・藤原大夫人

 
本殿西側社殿
 
本殿東側社殿

◎末社
 当社には末社5社があり、境内右奥に若宮社・水蛭子社が、境内左側に出世稲荷社・祓戸社が鎮座する
 なお当社HPによれば、末社として「えびす大黒社」(石碑)があるというが、参詣時に気づかず写真なし。

*若宮社
  本殿域の右に朱塗りの鳥居が立ち、その奥に春日造・朱塗りの小祠が南面して鎮座する。
   祭神--菅原道真

*水蛭子社
  若宮社の右前に西面して鎮座する小祠で、社殿は一間社流造・銅板葺き
   祭神--蛭子命(ヒルコ)

 蛭子命とは、伊邪奈岐・伊邪奈美が国生みにあたって最初に生んだ御子だが、足が萎えていて3年経っても立てなかったため天磐樟船に乗せられて風のまにまに放ち流されたという神。
 その後、エビス神と習合して豊饒の神・商売繁昌の神として信仰されているから、当社もエビス神として祀られたのであろう。

 
若宮社・鳥居
 
同・社殿

水蛭子社 

*出世稲荷神社
  祭神--大己貴命(オオナムチ)・稲倉魂命(ウガノミタマ)・猿田彦命・天鈿女命(アメノウヅメ)・保食命(ウケモチ)
 当社HPには、
 「天正15年、聚楽第の造営に際し、邸内に稲荷神社を勧請、翌年、後陽成天皇が聚楽第に行幸し、稲荷神社に参拝したときに立身出世を遂げた秀吉公に因んで『出世』の称号を授けたと言われています」
とある。

*祓戸社
  祭神--市杵島比売神(イチキシマヒメ)
        ・瀬織津比売神(セオリツヒメ)・速秋津比売神(ハヤアキツヒメ)・伊吹戸主神(イブキドヌシ)・速佐須良比売神(ハヤサスラヒメ)
 当社HPには、
 「心身を清めるお社です。先ずここにお参りしてから御本殿にお参りしましょう」
とある。

 瀬織津比売神以下の4神は、延喜式・六月晦大祓(ミナツキノツゴモリノオオハラヘ)の祝詞に見える神々で、人々が半年間に知らずして犯した種々の罪穢れを黄泉国へ祓いやってくれる神という(12月の大晦でも奏上された)
 市杵島比売神は宗像三女神の一柱で海神というが、それが当社に祀られる由縁は不明。   

 
左:祓戸社・右:出世稲荷社
 
祓戸社・社殿
 
出世稲荷社・社殿

【井上神社】
 奈良市井上町
   祭神--井上皇后・他戸親王

 御霊神社の南約300m弱・井上町の東南部に鎮座する小社。
 御霊神社HPに「中つ道に井上皇后を祀る井上御霊社を造営云々」とあるのが現御霊神社のの前身で、宝徳の大火後現在地に遷り、その跡地に建てたのが井上神社という。
 奈良市史には
 「かつて御霊神社が当地にあったが、宝徳の大火で伽藍が焼失後、元興寺観音堂近くに遷ったため、旧社地である当地に二神のみを祀った」
 また、Wikipediaには、
 「奈良薬師堂町の御霊神社は、かつて井上郷にあったが、宝徳3年の元興寺焼失後観音堂大塔の坤(南西)に奉遷した。
 その後、焼け跡に民家が連なるようになり、住民によって祠が造られ、二柱の霊を慰めるとともに町内の安全を祈願した」
とある。

 今、井上町会所の西隣りに(町会所敷地内らしい)、格子門の後に朱塗りの鳥居が立ち、南北に細長い境内の奥に色あせた朱塗りの小祠が南面して鎮座する。


井上神社・鳥居 

同・社殿 
 
同・側面
(建物:町会所)

トップページへ戻る