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祝 田 神 社
奈良県天理市田部町
参考地--天理市田町
祭神--豊受大神
                                                                2014.03.04参詣

 延喜式神名帳に、『大和国山辺郡 祝田神社』とある式内社。社名は“ハフリタ”と読む。

 近鉄天理線・天理駅(JR桜井線・天理駅)の北約900m、駅東を南北に走る国道169号線を北上、3っ目の信号(別所バス停のすぐ南)を西へ入った住宅地の中に鎮座する。

※由緒
 境内に由緒等を記した案内なく、由緒等不明。

 江戸中期の地誌・大和志(1734)には
  「祝田神社 田部村に在り、今天神と称す」
として、現天理市田部町に鎮座とていた天神社を式内・祝田神社に比定するが、その根拠は不明。

 これに対して、大和志料(1914・大正初期)
  「延喜式神名帳の見ゆ。今山辺村大字田部の村社・旧天神社を以て式内と称す。此れ志(大和志)に“在田部村今称天神”とあるに依りしならん。而も志の云ふ所何に依るを知らざるなり」
と、田部町にある現祝田神社を式内社とはするものの、大和志の根拠について疑問を呈している。。

 この田部村説に対して、天理市田町にあった祝田神殿を充てる説があり、石上神宮略抄(1720・江戸中期)
 「祝田神殿一座田村に在り、(石上)神宮の坤(西南)凡そ二十余町 田村旧宮の後(跡、田村後宮ともいう)に坐す今木神は日本武尊也。天平宝宇年中(757--65)従五位下吉田連智首或いは知須と云ふが祭る所ならん。名を祝田社と云ふ。延暦元年(782)11月19日今木神に従四位上の冠位を授け奉る。遂に平安京へ遷都の時、今の山城国葛野郡平野の地に神格をなさしむ。第一神殿に祭れる今木神は日本武尊是也」
とあるのをうけて、
  「これに依れば、祝田社は山辺村大字田村(現天理市田町字天王付近)にありて、天平宝宇年中、吉田連智首が今木神即ち日本武尊也を祭れる所にして、即ち今山城国平野神社の本社なりしなり。田村の法林寺の寺伝に田村の旧名を今木里と称すと云ふも亦故なきにあらず」
として、祝田神社は現天理市田町にあった田村旧宮の跡に祀られた祝田神殿(祭神:今木神=日本武尊)で、今、京都市北区にある式内・平野神社の本社(元宮)だという。

 この田部村説・田村説のいずれが真なのかは決めがたく、奈良県史(1989)
  「奈良交通バス別所下車、西方約200m、田集落西南に鎮座する。大和志に『今称天神』とあり、石燈籠の刻銘からみても元天満宮と称していたことがわかる。延喜式神名帳に式内社と登載されている社である(別所下車ということから、田部町の祝田神社を指す)
 祝(ハフリ)とは、古語辞典《岩波》に罪けがれを放る人、神に仕える神職で、令制では神戸の中から国司が選ぶとある。
 石上布留神社略抄(石上神宮略抄)に今の田町に祝田神殿があると記し、田村郷由緒書《田村法林寺蔵》では田町は石上神宮祭主の居住地とあり、天理市田町字天王付近にこの社があったとの説もある」(《 》内は原注)
として両説を併記している。

 これらによれば、式内・祝田神社については、現在地である田部町と、その南約2kmの田町(字天王というが確定不能の2説があることになるが、式内社調査報告(1982)には、「田部村と田村は石上郷中ではよく似た地勢で、いずれを是とすべきか決しがたい」とある(ネット地図の写真版を見ても、両地とも田畑の中に集落がある地形で、殆ど差異はない)

 田部町の祝田神社については上記大和志以外に資料がなく、以下、石上神宮略抄(以下、略抄という)がいう祝田神殿について記す。

 略抄によれば、祝田神社とは、8世紀中頃に吉田連一族が田村旧宮(田村後宮ともいう)の跡に祀った祝田神殿のことで、これに関連して、略抄が引く田村庄司吉田連系譜には
 「天平宝宇年中に勅して従五位下吉田連智首、田村の宮後に神籬を起こし、今木賢木の異称を立て、日本武尊を祀り奉りて鎮守とす。吉田連等を祝部と定む。仍て祝田神社祝部吉田連の略譜か
とある。

 吉田連とは、新撰姓氏録(815)に、
  「左京皇別 吉田連 大春日朝臣(古代豪族・和邇氏の直裔氏族)同祖 孝昭天皇皇子天帯彦国押人命四世の孫彦国葺命の後也」
とある氏族で、本姓は吉氏、古代豪族・和邇氏に連なる氏族と思われる。
 また、姓氏録の説明欄に
  「吉氏の男(後裔)従五位下知須(吉田連智首のこと)等、奈良京田村里間に家居」
とあることから、山辺郡田村の辺りに居住していたのは確かなようで、その吉田連一族が、勅をうけて当地に社を建て鎮守社としたというのであろう。

 ただ、略抄は、平安遷都時に田村にあった祝田神殿に祀る今木神を山城国葛野郡平野(現平野神社)に移したというが、平野神社境内に掲げる案内には、
  「続日本紀・延暦元年(782)に『田村後宮の今木神を従四位上に叙す』とあり、平城京内に祀られていました。ここは桓武天皇の父・光仁天皇の御所でした。この地には延暦13年(794)平安遷都と同時に遷座」
とある。
 田村後宮(田村旧宮)とは、藤原仲麻呂の私邸・田村第の跡で、仲麻呂没落(764)後官有となり、光仁天皇(在位770--81)が即位前に住まわれた御殿といわれ(続日本紀・光仁天皇・宝亀6年-775-及び同8年条に「田村の旧宮で酒宴を催し云々」とあり、即位後も私的な御殿として使われていたらしい)、平城宮左京四條二坊(現奈良市四條大路)の辺りにあったという説が有力という。

 また、この田村後宮から平野神社に遷座した今木神(今木=今来・新しくやってきた神)とは、光仁天皇の后で桓武天皇の実母である渡来系氏族(和史・ヤマトノフヒト)出身の高野新笠が祀っていた渡来神といわれ(元々は、百済系氏族が多い高市郡に祀られていたらしい)、平安遷都と同時に、桓武が母親が祀っていた(即位前の桓武も祭祀に関わっていたらしい)今木神を平野の地に勧請したのが平野神社という。

 略抄は、この光仁天皇の旧邸とされる田村後宮が当地・田村にあったいうのだが、それを証する資料はない(神社があったという伝承もないという)。地名・田村からの付会であろう。
 また、その田村神殿に祀られていた今木神を京都の平野神社に遷したというが、当地で祀られていた今木神がどのような神なのかはっきりせず、吉田連系譜に「今木=賢木を立て」とあることからみると、神マツリの場に立てて神の降臨を仰ぐ神籬であって、神名ではないともとれる

 なお、略抄が今木神=日本武尊というのは、平野神社の主祭神・今木神は源氏の氏神・日本武尊であって、平野神社は源氏・平家(久度神-仲哀天皇)・高階氏(古開神-仁徳天皇)・大江氏(比咩神-天照大神)4姓の氏神を祀る神社という説によるもので、これからみても、略抄にいう由緒は源平など武士階級の台頭後に作られたものとみるべきであろう。

 略称がいう祝田神殿は、天理駅の南南西約900mの天理市田町の北端、布留川の北の辺り(小字天王)にあったらしいが、今は田畑が広がるだけで、祝田神殿(祝田神社)があったとする痕跡はない。

 これらからみて、式内・祝田神社が田部町の祝田神社(旧天神社)とする確証も、田町にあったとする痕跡もなく、その所在地を含めて、鎮座由緒は不明というべきであろう。

※祭神
 今の祭神は、豊受大神(食物神)となっているが、他にも
  ・日本武尊(山辺郡誌)
  ・天神・天満神
  ・祭神不詳(神社覈録)
とする説があるという。

 豊受大神とは、火の神・カグツチを生んで病臥したイザナミの尿からうまれたワクムスヒ(穀物の生成を司る神)の子で、五穀を司り豊穣をもたらすとされる女神で(書紀には登場しない)、伊勢外宮の祭神。
 当社には、穀物の豊穣をもたらす神として祀られたと思われるが、その詳細は不明。
 ヤマトタケル説は、当社から遷座したという平野神社の祭神をヤマトタケルとしたことからのもののようで、後年の付会であろう。
 天満神は、江戸時代の当社が天満宮と称していたことによる。

※社殿
 東面する鳥居を入った境内の右手に、南面して拝殿(切妻造・瓦葺)、その奥、一段高い石垣上瑞垣に囲まれて本殿(屋根の四方に千鳥破風を有する得意な様式・銅板葺)が鎮座する。
 なお境内には天満宮との銘を刻した石灯籠が数基(江戸時代の奉納)ある。

 
祝田神社・鳥居
 
同・拝殿
 
同・本殿

 本殿域の右に末社・春日神社の小祠がある。
 また、境内右手(東側)に小さい注連縄を乗せた自然石が並び、十二支石という。干支に因んだものらしいが詳細不明。


末社・春日神社 
 
十二支石 

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