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服 部 神 社
村屋坐弥富都比売神社境内摂社
奈良県磯城郡田原本町蔵堂
祭神--天御中主神 天御鉾神
                                                              2014.03.27参詣

 延喜式神名帳に、『大和国城下郡 服部神社二座 鍬靱』とある式内社だが、今は村屋坐弥富都比売神社の摂社として、境内の左奥(本殿域西側)に鎮座する。
 服部は“ハトリ”と読むことが多いが、当社では“ハットリ”と呼んでいる。

※由緒
 社頭に掲げる案内には、
  「服飾関係を司る神である。
 これより西2kmばかりの所に、大安寺村字神来森(カキノモリ)という土地がある。そこに鎮座して波登里村(ハトリ)・阿刀村(アト)の氏神であった。
 祭礼には、氏子が盆に綿を盛り、その上に十二祷を乗せてお参りした風習があった。今は、綿の栽培がなくなったので、此の風習はなくなった。
 元弘年間(1331--34・南北朝)の兵火に遭い社地を没収される。更に天正年間(1573--92・織田信長)にも兵火に罹り、神主が御神体を背負い本社(式内・村屋坐弥富都比売神社)境内に遷したと言われている。
 この頃、波登里・阿刀村も消滅して、神社の経営成り立たず、そのまま本社境内末摂社となる。と同時に、壬申の乱の神功を称えるお渡りも中断するに至り、未だ復興することができない。 文・村屋坐弥富都比売神社 守屋広尚 宮司
とある。

 当社に関する資料として
 ・大和志(1734・江戸中期)
  「大安寺村に在り、波都里神と称す」
とあり、これによれば、江戸中期には大安寺村にあったととれるが、
 ・大和志料(1914・大正初年)には
  「延喜神名帳に服部神社二座と、志に在大安寺村今称波都里神と見ゆ。
 村屋神主家記には、本と大安寺村にありしを天正中社殿兵火に罹り、後に村屋坐社(村屋坐弥富都比売神社)の境内に遷し祭る。今川東村大安寺に“ハトリカミ”と称する田地あり、是其の旧趾なりと云ふ。之に拠れば志に謂ふ処は旧趾を指せるものに似たり。
 祭神詳ならず。姓氏録大和神別に服部連は天之御中主神十一世孫天御鉾命之後也とあれば、古へ此地に服部氏の住するありて、其の祖神を祭れるにあらずや」
とあり、大和志の在大安寺村とは旧鎮座地の地名を指すという(磯城郡誌にも略同文あり)

 なお、大和志料がいうハトリカミとは、現田原本町大安寺にある森市神社の北にある小字・ハツリカミ(波都里神)の地を指し、そこに服部神社があったと考えられるという(式内社調査報告・1982)

 また、神社明細帳(1879)には、
  「当社は天之御鉾命。旧事記に建田背命(タケダセノミコト)神服連(カムハトリノムラジ)祖と云ふ、姓氏録に大和国神別服部連天之御中主命の十一世孫天之御鉾の後也と云ふ。
 崇神天皇の7年之創立にして、既に式下郡村屋郷大安寺に服部神社二座、其の神地に本宮の御旅御幸の時の御休所なり。
 天正の度国乱のために社頭衰微し、故に天正癸酉元年(1573)正月十三日神主森屋斎宮太夫物部通明誠敬し、謹んで服部神社を背に負い奉り、本社(式内・村屋坐弥富都比売神社)に社殿を設け遷社す。故に、旧神地字波都里神と云ふ。
 天正2年(1574)8月15日、神殿一社相殿に齋鎮せり。宝永2年(1705)・寛政9年(1797)に改装せり。然るに元亀・天正の度兵火ありて大安寺・阿刀の民家亡ぶと云時に当社の旧記失なへり。
 古史伝に平篤胤大人(平田篤胤・1776--1843)云へり、服部神社は式下郡大安寺村にありと、其地今字波都里神(ハツリカミ)と称す是なりと云ふ。今、本社村屋坐弥富都比売神社社地瑞籬(ミズガキ)の西側の神社是ぞ服部神社なり・・・」
とあり、当社の沿革をやや詳しく記している。

 ここで、当社創建を崇神7年としているが、これは崇神紀7年条にある、
  「(大物主神と大国魂神を祀ったとき)別に八百万の群神を祀った。よって天つ社・国つ社・神地・神戸を定めた」
との記述によるものだが、これは我が国における神マツリの始まりを崇神朝に求める書紀の方針に基づくもので、史実とは受け取れない。
 また、古墳前期(4世記)とされる崇神朝での神マツリは、その都度神籬(ヒモロギ)を設けてのものであって、恒常的な祭祀施設としての神社はなかったと思われる(弥生時代の遺跡から神殿らしき建物跡が何カ所か出土しているが、当地にそれらしき遺構はない)

 なお、当社の創建が延喜式神名帳(927)編纂以前であるのは確かだが、当社に対する神階・封戸など綬叙記録はみえず、当社の創建時期が何時頃まで遡及できるかは不明。

※祭神
 今、当社の祭神は天御中主神(アメノミナカヌシ)・天御鉾命(アメノミホコ)となっているが、
 ・磯城郡誌(1915・大正初年)--式内服部神社に天御鉾命・誉田別命(ホムタワケ・応神天皇)を祭る 
 ・大和名所旧跡案内(刊行年不明)--村社服部神社二座鍬靱 祭神天御拝(鉾の誤字)命・誉田別命
 ・式内社調査報告(1982)--神社明細帳(1879・明治12)に『祭神・天之御中主命・天之御鉾命』とありしを、明治19年(1886)8月27日祭神の誤りを大阪府庁へ更正願許可されている
とあり、一座を誉田別命という。
 ただ、上記由緒等からみて、当社に誉田別命を祀る由縁はなく、また、当社を八幡宮と呼んだとの資料もなく、誉田別命とする根拠は不明。

 天御鉾命とは記紀等には見えない神だが、神宮雑例集(13世記初頭頃、上古から鎌倉初頭までの伊勢神宮に関する雑記録集)に、
  「天照大神が高天原に坐せし時、神部(カムハトリベ)等の遠祖・天御鉾命を以て司とし、八千々姫を織女と為して織物を奉る」(漢文意訳)
とあるように、機織・織物を司る神とされ(足利市にある神部神社では、天御鉾命・八千々姫を七夕伝説の牽牛・織女に充てている)
 また、新撰姓氏録(815)
  「大和国神別(天神) 服部連(ハトリノムラジ) 天御中主命十一世孫天御鉾命之後也」
とあることから、当社は、大安寺村の辺りに住んでいた服部氏が、その祖神・天御鉾命を祀ったのではないかという(式内社調査報告)

 また、姓氏録に
  「摂津国神別(天神) 服部連  熯之速日命(ヒノハヤヒ)十二世孫麻羅宿祢(マラスクネ)之後也
                       允恭天皇の御世、織部司に任じられて諸国織部を統領し、服部連と号す」
とあるように、出自は異なるものの同じ服部連を名乗り(熿之速日命は尾張氏系の祖神-先代旧事本紀)、諸国の織部を統括した氏族があることから、当地の服部連も同じく織物に関係した氏族と思われる。

 天御中主神が当社に祀られるのは天御鉾命の遠祖ということからだろうが、この神は、古事記冒頭の天地開闢に際して、混沌のなかから最初に成り出た造化三神の中心神だが、成り出るとともに身を隠した神でその事績は記されていない。
 これが中世になっての記紀神話の再解釈のなかで、この神を天地創造の主宰神とする思想が生まれ、神仏習合の進展とあいまって、北極星を宇宙の中心神とする星辰信仰(妙見信仰)と習合して“妙見さん”として信仰され、明治の神仏分離により神道系妙見信仰の主祭神へと展開している(仏教系では北辰妙見菩薩という)

 妙見信仰の根源が星辰信仰・北極星信仰であり、それが七夕信仰・棚機姫(タナバタツメ)信仰へと変遷していったことから、当社の天御中主神は、天御鉾命の遠祖であると共に、機織りの神としても祀られたともいえる。

※社殿

 式内・村屋坐弥富都比売神社の境内左奥(本殿域の左隣)簡単な門をもつ板塀の奥に鎮座する。

 門の左に
 「延喜式内社 蔵堂 服部神社 
     祭神・天之御中主神 天之御鉾神
と刻した石標が立つ。

 案内に、「社殿 切妻造・妻入り・庇付きカラー鉄板葺」とあるが、春日造の変形ともとれる。


 
服部神社・正面

同・社殿

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