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平 群 神 社
奈良県生駒郡平群町西宮1丁目
祭神--大山祇神
                                                      2015.02.15参詣

 延喜式神名帳に、『大和国平群郡 平群神社五座 並大 月次・新嘗』とある式内社。社名はヘグリと読む。

 近鉄生駒線・竜田川駅の北約600m、線路沿いに北上し、川を渡って二つめの角を左に曲がってすぐ右に当社への参道がある。

※由緒
 境内に掲示する由緒記には、
  「祭神大山祇神は山野を司る神で、平群氏の祖・武内宿祢が神功皇后と共に朝鮮へ出兵の際、戦勝を祈願しこの地に祀ったと伝う。
 のち五穀豊穣と武運長久・家内安全の守護神として信仰を集め、今日に至る。
 延喜式神名帳に『平群神社五座並大 月次新嘗』とあり、神宮寺としても龍華山西宮密寺があった古い社格の神社である」
とある。

 案内は、当社の創建を神功皇后の朝鮮出兵に求めているが、皇后・武内宿祢と当地との関わりはみえない。
 当社が平群氏にかかわる神社と考えられることから、その遠祖・武内宿祢および関係の深い神功皇后にことよせて作られた伝承であろう。

 当社に関する古資料として、
 ・大和志(1734・江戸中期)--在所未詳、或は曰く西宮村西宮是也と
 ・神社覈録(1870・江戸後期)--祭神平群朝臣祖か、在所詳ならず、或曰西宮村西宮是也大和志
   姓氏録左京皇別石川朝臣、孝元天皇皇子彦太忍信命之後也、
   また紀朝臣、石川朝臣同祖、建内宿祢男紀角宿祢之後也、
   同右京皇別平群朝臣、石川朝臣同祖、武内宿祢男平群都久宿祢之後也
   また平群文室朝臣、同都久宿祢之後也、また紀朝臣同祖、屋主忍雄建猪心命之後也
 ・神祇志料(1871)--今平群郡平群谷西宮村にあり大和志、蓋し平群朝臣の氏神也、
   平群木菟宿祢の裔には、平群臣・佐和良臣・馬御樴連・平群文室朝臣・韓海部首・額田首・味酒首など凡そ七氏あるが、その内、平群文室姓は平群に文室を複ねたるにて、平群臣より出たる姓と見え、額田首は母の姓なりと云へば、此の二氏を除きて即ち五氏なり。
   依て思ふに、五座は即ち五氏の別れたる祖を各一人づつ祭れるにはあらむ
 ・大和志料(1914・大正3)--明治村大字西宮にあり、俗に西宮と称す。延喜式に平群神社五座と見ゆ。今村社たり。
   祭神詳ならず
とあるが、創建由緒・時期等に関する記述はない。

 また、奈良県史(1989)には
  「西宮集落の北端に鎮座する神社で、式内大社にあてられている。
 祭神について明治の“明細帳”や昭和の“宗教法人法登記”には大山祇神と記している。
 嘉吉元年(1441)の”興福寺官務牒疏“には平群氏の祖神で、供僧二人神人六人とあるが、延喜式神名帳に祭神五座とあることについて、池田源太氏は“平群町史”に、最初は一座か二座であったのを平群氏氏人の尊信から、かなり時代が下がった時、その祖神または関係神を添加したのではないかと考えられている。
 延宝7年(1679)の検地帳や天保3年(1832)の“西之宮村報告書”からみると、近世は春日大明神と呼ばれていたことになる。 境内右側の社務所の位置に、元西宮密寺と称する神宮寺があったが、明治の神仏分離で廃絶した」
とある。

 当社の創建年代は不詳。
 当社案内は神功皇后に付託しているが、これは論外で、当社が平群氏に関係するとすれば、履中朝(5世記中葉か)以降、あるいは平群都久宿祢の子・真鳥が活躍した雄略朝(5世記末か)以降とみることもできる。
 しかし、古墳時代中期とされる5世記に常設の神社があったとはおもえず、6世記初頭(武烈朝)頃に没落した平群氏が、その後復帰して朝臣の姓を与えられた天武朝(7世記末、天武13年11月1日条に「・・・平群臣・・・らに朝臣の姓を賜った」とある)以降とみるのが妥当かもしれない。

※祭神
 由緒記には
 ・本社御祭神  大山祇神
 ・境内社御祭神  天照大神
とあり、主祭神は山の神である大山祇神(オオヤマツミ)という。

 今の社殿は樹木に覆われた山麓に造成された石壇上にあり、当社旧地名を平群町大字西宮小字城山ということから、背後にある城山を在地の人々が神奈備として崇敬し、そこに坐す山の神を人々の生活を潤す水の神・豊穣神として祀り、それに大山祇の名を充てたのかもしれない。
 なお、神社背後から西へ続く一帯は山頂が削平され平群中央公園として整備されていて、神奈備山(城山)の面影はない。

 また、上記古資料に見るように、江戸時代までは当社祭神をオオヤマツミとする資料はなく、平群氏にかかわる名があがっているが、これが今のオオヤマツミに変わった由緒等は不明。
 なお、江戸後期・天保3年(1832)の古文書に、当社祭神を春日大明神と記していることから、江戸時代には春日神を祀る神社と認識されていたらしい。

 当社にかかわると思われる平群氏とは、伝説上の人物・武内宿祢の子・平群都久宿祢(木菟宿祢とも記す・ツクノスクネ)を祖とする古代氏族で、当地・平群谷を本拠地として勢力を張ったといわれ、古事記(孝元天皇記)には
  「武内宿祢の子・男七たり、・・・次に平群都久宿祢 平群臣・左和良臣・馬御樴連(ウマノミクヒノムラジ)等の祖なり」
とあり、新撰姓氏録には
  「右京皇別 平群朝臣 石川朝臣同氏 武内宿祢男平群都久宿祢之後也」
とある。

 正史上での平群都久宿祢の初見は、履中紀(17代)にある
  「2年冬10月、磐余に都を造った。このとき平群木菟宿祢・・・らは、共に国の政治に携わった」
との記録で、その前仁徳紀(16代)冒頭には
 「仁徳天皇と都久宿祢は同じ日に生まれたが、その時、太子の産屋にはミミズクが、宿祢の子の産屋にはミソサザイが飛び込んできた。
 応神天皇が、その吉凶を武内宿祢に問うたところ、目出度いことですと答えたので、天皇は「これは天のお示しだろうから、その鳥の名をとって互いに交換して子供に名づけ、後の標としよう」といわれ、太子はオオサザキと、宿祢の子はツクと名づけた」
との説話が残っているものの、両朝ともに国政上での事跡はみえず、父・武内宿祢と同じくその実在は疑問という。

 その後の平群氏は、雄略朝(21代)に都久宿祢の子・真鳥(マトリ)が大臣に任ぜられて全盛期を迎えたが、専横を極め国政をほしいままにしたとして、即位前の武烈天皇(25代)によって、真鳥大臣とその子・鮪(シビ)がともに誅殺されて没落したという(その後、用明朝頃に複権し、天武朝には人臣のトップである朝臣の姓を賜っている)。

 この平群氏が当地に居たとの確証はないが、氏族名と地名・社名との一致から、当社は平群氏一族がその祖神を祀った社ではないかという。

 祭神数について延喜式に五座とあるが、その祭神が誰なのかは判然とせず、上記のように
 ・神社覈録
   新撰姓氏録で、武内宿祢の後裔とされる
    石川朝臣(蘇我石川宿祢の裔)・紀朝臣(木角宿祢の裔)・平群朝臣(平群都久宿祢の裔)
     ・平群文室朝臣(平群都久宿祢の裔)・紀朝臣(屋主忍雄猪心命の裔)の5朝臣それぞれの祖神
 ・神祇志料  
   平群都久宿祢の後裔である
    平群臣・佐知良臣・馬御樴連・韓海部首・味酒首の5氏の祖神
などの説があるが確証はなく、
 ・奈良県史が引用する平群町史がいう
   最初は一座(平群都久宿祢か)か二座であったのが、時代が降るにつれ関係神が加えられたのではないか
というのが、実際に近いのかもしれない。

 境内社として天照大神を祀る由緒・奉祀時期等は不明。

※社殿等
 当社は、城山山麓に高い石垣を築いた壇上に南面して鎮座する。
 石垣の前に朱塗りの鳥居(笠木の上に屋根を付く)が立ち、入ったすぐに石段がある。
 石段を上がったすぐに、又、玉垣に囲まれた社殿域に上る石段があり、上がった直近に横長の拝殿が、その奥、白壁に囲まれた本殿域にある簡単な覆屋の中央に本殿(切妻造妻入・桧皮葺)が、その左に境内社(春日造桧皮葺)が鎮座する。
 社殿域が狭く横からの実見は不能で、拝殿の中から覗き見するのみ。


平群神社・全景 

同・正面鳥居 
 
同・拝殿
 
同・本殿
 
同・境内社

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