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氷 室 神 社
奈良市春日野町1-4
祭神--大鷦鷯命・闘鶏稲置大山主命・額田大中彦命
                                                          2018.09.11参詣

 近鉄奈良駅前の登大路を東へ約1km ほど進んだ北側に鎮座する。奈良国立博物館の道路を挟んで北側に当たる。式外社
 社名・氷室は“ヒムロ”と読む。

※由緒
 参詣の栞によれば、
 「元明天皇の御世、和銅3年(710)7月22日、勅命により平城新都の左京・春日の御蓋(ミカサ)の御科山(春日山)に鎮祀され、盛んに貯氷を起こし冷の応用を教えられた。これが平城七朝の氷室(ヒムロ)で、世に平城氷室とも御蓋氷室とも春日の氷室とも言われた。
 翌和銅4年6月1日、初めて献氷の勅祭を興され、毎年4月1日より9月20日まで平城京に氷が献上せられた。奈良朝七代七十余年間は継続せられたが、平安遷都後はこの制度も廃止せられ、遂に150年を経て、清和天皇の御世、貞観2年(860)2月1日 現在の地に奉遷せられ、左右二神を増して三座とせられた。

 以来、現在の春日大社の別宮に属し、式年に営繕費・年中の祭礼等は、興福寺・春日社の朱印高二万石の内と社頭所録三方楽所料二千石の一部によっておこなわれたが、明治維新後はこの制度も廃せられ、専ら氏子と冷凍業界の奉賛によって維持せられて今日に及んでいる。
 また、本殿東側には、末社として南都舞楽の楽祖なる狛光高公(コマノミツタカ)を祀った舞光社(ムコウシャ)がある」
という。

 当社は古代の冷蔵庫・氷室に関係する社だが、文献上での氷室の初見として、書紀・仁徳62年夏5月条に
 ・額田大中彦皇子(ヌカタノオオナカツヒコ)が、都祁(ツゲ・現奈良市都祁小山戸町付近か)に猟に行かれた。
 ・山の上から野を見ると、何か廬(イオ)の形をした物があったので、調べさせると、帰ってきて『窟(ムロ)です』との報告があった。
 ・そこで土地の人・闘鶏稲置大山主(ツゲノイナギオオヤマヌシ)を呼んで、『あの野中にあるのは何の窟だ』と問うと、大山主は、『氷室です。土を掘ること一丈余り、萱を以てその上を葺き、厚く茅すすきを敷いて、その上に氷を置きます。夏を越しても消えません。暑いときに水酒にひたして使います』と答えた。
 ・皇子はその氷をもってきて御所に奉られた。天皇はお喜びになった。
 ・これ以後、師走になる毎に必ず氷を中に納め、春分になって始めて氷を配った。
とある(大要)

 氷室から献上される氷は(4月1日から9月30日まで)、宮中で夏の暑さをしのぐために用いられようで、ひとつの事例として、枕草子(39段)に、
 「あてなるもの(上品なもの) ・・・削り氷に甘葛(アマヅラ・甘味料のひとつ)入れて あたらしき鋺(カナマリ・金属製の器)に入れたる・・・」
とある。
 ただ谷川健一氏は、避暑という用途に加えて
 ・喪葬令に、『親王及び三位以上、暑月に薨じなば、氷給へ』とあり、
 ・暑月(現7・8月)に親王などの貴人が亡くなったとき、遺体の腐食を防ぐために氷が支給され、用いられたのことが、喪葬令で確認できる
として、盛夏での殯(モガリ)に際して腐食防止にも使われたのではないかという(賤民の異神と芸能・2009)

 この都祁氷室の発見が仁徳朝かどうかは不詳だが、昭和63年調査の長屋王(676?--729)邸跡(奈良市二条大路南・現イトーヨーカドー奈良店)から出土した氷室関係木簡3枚には
 ・1号木簡  都祁氷室二具 深各一丈 廻各六丈・・・ 和銅五年(712)二月一日
 ・2号木簡  都祁氷進始日  閏月・閏六月(和銅4年閏6月に当たる)
 ・3号木簡  進上氷一駄  九月十六日
とあり、8世紀前半には都祁氷室から氷が献上されていたことを示している。


 この都祁氷室(福住氷室とも)は、今の天理市福住町付近にあったといわれ、江戸中期の地誌・大和志(1734)には
 ・都介氷室 山田村に在り 隣村福住に氷室神祠あり。・・・本邦氷室の始まりは此也
とあり、今も、福住町浄土には福住氷室神社(祭神3座は奈良市のそれと同じ)が鎮座している。

 この都祁氷室跡について、谷川健一氏は、
 ・延喜式によると、大和国山辺郡都介(ツゲ・天理市福住町)に氷室があり、都介氷室または福住氷室と呼んだ。
 ・室山の麓、標高約490mの所にある深さ2.5m、縦横10m前後のすり鉢状の竪穴2基が氷室跡とされ、穴の周囲には木が茂って日光を遮るようになっている。
 ・氷室跡の南の谷間に氷池跡があり、氷室神社境内の小池にも氷室跡が見られる。
 ・都祁地方では、このほか都祁村の葛神社境内にも氷室跡と伝えるものがあり、また都祁村貝那木池では、近年まで氷を作っていた。
 ・大和志によれば、大和国の氷室跡は11ヶ所と記されているが、この他にも多数存在したことは明らかで、そのうち、大化改新以前からあった都祁氷室が最も古い氷室であることは間違いない。
という(谷川・前掲書)

 当社の創建について、大和志料(大正4・1914)には
 「氷室神社  奈良町大字登大路にあり。祭神は闘鶏稲置大山主命・仁徳天皇・額田大中彦皇子の三座なり。
 和銅3年の創始に係り、もと吉城川(ヨシキ・水谷川ともいう)の上・所謂月日磐の辺りにありしを、建保5年(1217)11月朔日今の社地に移し祭れり。
 氷室とは氷を蔵むる所にして・・・(仁徳62年条を略記)・・・その氷室を闘鶏氷室(後、福住氷室)と称す。
 允恭帝3年(5世紀中頃か)正月三田宿禰に勅して其の地に就き宮殿を造り、氷室神を祭らしむ。(中略)

 仁徳天皇より文武天皇までの間は、毎年春分の献氷は闘鶏の氷室よりせしが、元明帝和銅3年都を奈良に遷するに及び、之を春日の三笠山の麓、吉城川上の崖に作り、以て朝廷に献ぜしむ。之を吉城川氷室、一に吉城氷室・水谷氷室とも称せり。
 乃ち神殿をここに作り、以て其の霊を祭る。是 実に当社の創始なり。
 古 高橋氷室神社の称号あり。延喜式神名帳に所謂高橋神社は蓋し当社なるべし」
とあり、仁徳朝の頃闘鶏(現福住)の地に発見された氷室に倣って、和銅3年・吉城川上流部に氷室を造り神社として奉祀したのが当社の始まりで、鎌倉初期・建保5年に現在地に遷座したとなる。


◎旧社地(月日磐)
 また、当社の前身・吉城氷室(御蓋氷室・春日氷室・水谷氷室とも)について、大和志料には
 「建保5年11月朔日 今の社地に遷座せしは明らかなるも、其の吉城川上の氷室の址何れにあるべきや。其の址の在る所即ち旧社地なり。
 天平勝宝8年(756)勅定の東大寺古図を案ずるに、三笠山神地の北、水谷川(吉城川)の辺りに一池を図し、これに氷池(ヒイケ)の二字を記入せり。(中略)

 また氷室社記に、『元明天皇御宇 氷室の巌窟を三笠山麓吉城川上の崖に遷造、毎歳6月朔日に氷を朝廷に献ず。
 今 日月磐(月日磐とも)と謂ふ、即ち此れ也。此の地に神殿を造営、守護神を斎祀、氷室神社と号す』とある。

 所謂日月磐は、名所図会に日月磐氷室の旧地と伝へる所にして、水谷川上にあり。故に当時之を水谷氷室とも吉城川上氷室とも称せり。
 而して社殿の位置は均しくして一は水屋に祭ると云ひ、一は川上の南崖日月磐の地に造営すと云ふも、要するに水屋に祭れるものは古図にみえたる水池の風神なるべく、日月磐に祭けるものは氷室神にして即ち根本なるべし。
 水池に風神を祭り、氷室に氷室神を祭ることは延喜式に見ゆ」
とある。

 月日磐へは、登大路・大仏殿交差点を東へ越えて道なりに直進(斜め右の道は春日大社への参道)、途中、水谷橋(歩行者用の朱塗りの橋と、車用の橋が架かり、手前左手に愛宕社・聖明社との朱塗りの小祠がある)を渡って右折、吉城川沿いの春日山遊歩道を東へ、道路脇に立つ“右:月日磐 左:鶯の瀧”(“の”は変体仮名)と刻した石碑(H=1m強)を過ぎて少し行った道路右下を流れる吉城川(流れは細い)左岸の川縁に、“三日月と日輪を彫り込んだ苔生した岩”があり、これが月日磐だという(大仏殿前交差点から約1.3km)
 ただ、月日磐の辺りに案内表示なく、注意しないと見落とす(道路の反対側に料理旅館・月日亭への案内看板がある)

 
月日磐と吉城川(水谷川)
 
月日磐
 
道ばたにある石碑


※祭神
 参詣の栞には
  ・大鷦鷯命(オオササキ・仁徳天皇)
    献氷の典礼を開かせ給いし大神なり
  ・闘鶏稲置大山主命(ツゲノイナギ オオヤマヌシ)
    是冷の応用を教え、氷室を創始し貯氷の術を育て給いし大神なり
  ・額田大中彦命(ヌカタノオオナカツヒコ)
    貯氷の術を奏上し給いし大神なり
とある。

*大鷦鷯命
  仁徳天皇の本名で、氷室の発見が仁徳朝であり、始めて氷を献上された天皇としての奉祀であろう。

*闘鶏稲置大山主命
  古代、大和国山辺郡都祁(ツゲ・闘鶏とも記す)を本拠とした地方豪族・都祁氏(都祁国造)の一族で、大山主は仁徳朝頃の人物というが、詳細不明。
  闘鶏稲置の“稲置”とは古代の姓(カバネ・称号)だが、都祁氏の姓は元々“直”(アタイ)だったといわれ(地方豪族は直が多い)、それが下位の稲置に下ろされた理由として、書紀・允恭2年条に
 ・允恭の皇后・忍坂大中姫が若かったとき、通りかかった闘鶏国造が馬上から姫をあざけった。
 ・これを忘れずにいた大中姫は、皇后になった時、国造からうけた昔の侮辱を責めてこれを殺そうとされた。
 ・驚いた国造が平身低頭して詫びたので死罪に処すことを止め、姓を下げて稲置とされた。
とあるが(大要)、允恭朝より3代前の仁徳朝(允恭の3代前)の記録に稲置とあることからみて、時代があわない。

 闘鶏大山主命が祭神とされるのは、都祁の氷室で貯蔵されていた氷を額田大仲彦命に献上し、以後、氷室の管理者となったことからの奉祀であろう。

*額田大中彦命
  応神天皇の皇子(母:高木入姫)で、仁徳天皇の異母兄。
  氷室の氷を、まず最初に天皇に献上したことからの奉祀であろう。


※社殿等


氷室神社・境内案内図
(参詣の栞より転写、左が北) 
 
大和名所図会・氷室社(1791)
(左下に描かれる氷室社の社殿配置等はは現状と殆ど同じ。
上半分は吉城氷室の辺りというが、氷室の位置は不詳)

 登大路北側に立つ朱塗りの大鳥居をくぐり、短い参道先の低い石段上に建つ四脚門(朱塗り、瓦葺き、左右に東西廊が延びる。県指定文化財)を入った奥が境内。
 境内には、四脚門に接するように渡廊が建ち、その後ろに接して舞殿を兼ねた拝殿が、その奥、正面の鳥居から左右に延びる瑞籬に囲まれた基壇上に本殿か南面して鎮座する。


氷室神社・大鳥居 
 
同・四脚門
 
同・渡廊正面


◎拝殿/舞殿  奈良市指定文化財
 四方吹き通しの入母屋造・瓦葺で、拝殿と舞殿を兼ねている。

 拝殿脇の案内には、
  「桁業二間 梁間一間  (奈良市指定文化財)
 氷室神社は、江戸時代に朝廷や幕府の行事に参勤した三方楽所(サンポウガクショ)のひとつ、南都方の拠点とした神社で、神主も楽人が勤めていました。
 ここでは楽人による舞楽奉納を中心とする祭りが行われてきました。

 この拝殿は舞楽を上演するための舞台で、表門(四脚門)両側の東西廊を楽所にして左方(サホウ)と右方(ウホウ)の楽人が出て拝殿でで舞を行いました。
 建築年代は明らかではありませんが、遅くとも18世紀には現況のような建物が建てられていたと考えられます。
 古来、雅楽の中心地のひとつであった奈良に残る舞楽上演のための舞台として貴重なものです」

 また、当社では10月1日の例祭で舞楽が奉納されているが(氷室の舞楽祭)、その始まりについて、参詣の栞には
  「第74代鳥羽天皇の御代、永久5年(1117)9月1日、悪疫鎮止のため始められたが、源平の乱後絶えた。
 順徳天皇の御代、建保5年(1227)には南都方楽所の氏神に仰ぎ、日の使も参向された。これが現在の例祭の起源である」
とある。


拝殿/舞殿
左:渡廊、中央:拝殿・右奥:本殿 

 舞楽とは、器楽合奏(管楽器・打楽器のみ)を伴奏として舞われる舞で、古代律令制の頃から朝廷を中心に行われ、10世紀頃には京都宮廷・奈良興福寺・大阪天王寺に楽人の集団(楽所)が成立し、これらに属する楽人達が朝廷に召されて舞ったという。
 その後、応仁の乱以降の動乱などによって次第に衰退したが(特に京都楽所)、江戸幕府によって京都楽所・奈良南都楽所・大阪天王寺楽所(これを「三所楽所」という)にまとめられ、舞楽の復興が図られたという。

 舞楽には二つの流れ、中国・ベトナム・インド・ペルシャ系の楽舞を源流とする左舞(左方・唐楽ともいう)、朝鮮半島系のそれを源流とする右舞(右方・高麗楽ともいう)があり、服装の色・舞台への出方など幾つかの違いがあるという。


◎本殿--奈良県指定文化財
 拝殿後ろの基壇上、正面の朱塗りの鳥居から左右に延びる瑞垣(左右は築地塀)に囲まれた中に、南面して鎮座する。

 社頭の案内には、
  「三間社流造 桧皮葺  文久3年(1863・江戸後期)の造営
   本殿下に左右の二室を造り、側面に両開板戸があります。
   ことに、左側(向かって右)の出入り口には庇を設け、その屋根も桧皮葺です(下写真・右)
   このような社殿形式は他には類例がなく、独特なものです」
とある。

 
同・本殿
瑞垣・樹木が邪魔して、大屋根が見えるだけで
本殿の全容は見えない
 
同・本殿正面
祭神3座にあわせた3扉の前に、3本の御幣が立つ
中央が仁徳天皇か
 
本殿右の出入り口
瑞垣の格子が邪魔してよく見えないが
桧皮葺きの庇が突き出ている


◎舞光社(ムコウシャ) 末社

 本殿の向かって右、本殿背後の瑞垣に接して鎮座する小祠。一間社春日造・銅板葺(右写真)
 ただ、前に願い事を書いた絵馬の奉納所があり、注意しないと見落とす。

 社頭の案内には
  「祭神--狛光高の御魂
   平安中期の雅楽家で、雅楽・舞楽の達人として知られ、楽人たちの氏神とされています。
   当社の舞楽面・『陵王』(重要文化財)は、ここに納められていました。
   現在は学芸成就の神様として崇敬されています」
とある。

 狛光高(959--1048)とは、平安中期の南都楽所所属の楽人で左方舞楽の達人だったというが、その出自は不詳(ネットには幾つかの系譜がみえる)。狛という氏名からみて渡来人の後裔かと思われる。 


◎鏡池

 境内の南東隅に、蓮の葉で覆われた“鏡池”と称する池がある(右写真)
 一見、何処の神社にもある神池と同じだが、案内なく由緒等不明。
 ただ、大和名称図絵にも同じ位置に池が描かれているので、古くからのものであるのは確か。

 当社参詣前の禊ぎの場であるとともに、嘗て、吉城氷室近くにあったという“氷池”を移したものかと思われる。


  

◎住吉神社(祓所) 末社
 参道の左手に東面して、小さな朱塗りの鳥居(祓所鳥居)の奥に簡単な拝殿と社殿(一間社春日造・銅板葺)とをもつ小社があり、社頭の案内には
  「住吉神社 相殿七座
    祭神--底筒男命(ソコツツノオ)・中筒男命(ナカツツノオ)・表筒男命(ウワツツノオ)の住吉三神
          瀬織津比咩命(セオリツヒメ)・速開津比咩命(ハヤアキツヒメ)・気吹戸主(イブキドノヌシ)・速佐須良比咩命(ハヤサスラヒメ)の四神
          よろずの罪・穢れや災などを除き祓う神様です」
とある。

 瀬織津比咩以下の4神は、延喜式にある六月晦大祓の祝詞(ミナツキノツゴモリノオオハラヘノノリト)に登場する神々で、人々が知らず知らずのうちに身につけた穢れを、4柱の神が順送りに送って、最後に根の国・底の国へ吹き放ってくれる神々という。
 (大祓は旧暦6月と12月の晦日に行われた神事で、、今、6月末あるいは7月末に行われる茅の輪くぐりは、旧暦6月に行われた大祓・別名:夏越しの払いを受け継いだものという)

 
住吉社・鳥居
 
同・社殿

 今の案内には住吉神社とあるが、当社参詣の栞や古資料には“祓所”(ハライトコロ)とあり、元々は瀬織津比咩以下の4神を祀っていたもので、住吉三神は後年の合祀という。
 祓所とは、神社参詣に先立って身についた穢れを祓う所で、往年の参詣者は、向かい側の手水社(あるいは鏡池)で身を清め、当社に参って身についた穢れを祓い、清浄な身体となって本殿に詣でたと思われる。
 今、これを住吉社というのは、穢祓の神との神格をもつ瀬織津比咩以下の神々より、著名な住吉三神を表に出したのだろうが、社前という鎮座位置からみて、本来の社名・祓所とすべきであろう。

 なお、住吉社の西少し離れて、氏子祖先の霊・西南役以下殉難士の霊を祀る“招魂社”があるる。

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