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広瀬坐和加宇加乃売神社
現社名--広瀬大社
奈良県北葛城郡河合町川合
祭神--若宇加能売命
                                                            2015.03.04参詣

 延喜式神名帳に、『大和国広瀬郡 広瀬坐和加宇加乃売神社 名神大 月次新嘗』とある式内社で、今は広瀬大社と称する。社名は“ヒロセニマス ワカウカノメ”と読む。

 JR関西線・法隆寺駅の南東約1.2km、駅西を通る国道5号線を南へ進み大和川を渡って約500m、西穴間交差点を左折(東へ)して約500m、小川を渡ったすぐの左側(北)に朱塗りの鳥居が立つ。
 曽我川・飛鳥川が大和川に合流する地点の西南にあたる。

※由緒
 境内に掲げる案内(河合町教育委員会)によれば、
  「日本書紀・天武天皇4年(675)条に記事が見られる広瀬神社は、奈良盆地の多くの河川が合流して大和川となる水上交通の要衝に位置しています。神社の西方には明治の中頃まで“川合浜”という船着場があり、物資の集散地として賑わっていました。
 神社に伝わる川相宮縁起では崇神天皇の時代の創建とされています。地理的条件や周辺遺跡の状況から、遅くとも7世紀以前には既に信仰の母体となるものがあったと考えられます。
 天武天皇4年に龍田の風神とともに祭祀が行われて以降、戦国時代に途絶えるまで毎年4月と7月に朝廷より使者が遣わされ、祭祀が行われていました。
 戦国時代から江戸時代初期にかけて一時衰微しますが、元禄年間に復興し、旧広瀬郡の総氏神として広く崇敬を受けるようになりました。
 祭神は主神が大忌神(オオイミ)の異名を持つ若宇加能売命(ワカウカノメ)で、水の神・水田を守る神・五穀豊穣の神として篤く信仰されています」
とある。

 また、当社公式ホームページによれば、
  ・崇神天皇9年(前89年)、広瀬の河合の里長に御神託があり、一夜で沼地が陸地に変化し、橘が数多く生えたことが天皇に伝わり、この地に社殿を建て祀られるようになる
  ・社地は元水足池(ミズナルノイケ)という広漠たる沼地であったが、里長・広瀬臣藤時に御神託があり、一夜にして丈余の橘数千株が生じた。今社殿の西側に小池があり、これを水足池という
との伝承があり、当社の社紋・橘はこれによるという。

 また奈良県史(1989)には
 「佐保・初瀬・飛鳥・葛城・高田川が集まって大和川に合流する低地の川合町久保田に鎮座、式内名神大社に比定される神社である。
 主神の和加宇加売命(一名保食神)を中央殿に、配神の櫛玉姫命は左殿に、穂雷神は右側に祀る。
 社記では、崇神天皇の御宇、大御膳神としてこの地に創祀せよと河合の里長に大神の託宣があったので社殿を創建されたという。
 日本書紀・天武天皇4年(675)4月10日条には、風の神を竜田の立野に祀らしめ、小錦中間人連大蓋・大山中曽祢連韓犬を遣わして大忌神を広瀬の河曲に祀らしむとある。大忌神とは、和加宇加売命すなわち保食神(稲の神宇賀美多麻-ウカノミタマ)である。風水の害の排除を祈る風神祭が竜田神であったのに対して、大忌祭は山谷の水が甘水となって水田をうるおは、五穀豊穣を祈るのが当広瀬神の祭である」
とある。

 これらによれば、当社は崇神朝の創建となるが確証はなく、HPにいう崇神9年説に関して、書紀・崇神9年条には、
  「夢告によって墨坂の神・大坂の神を祀った」
とはあるものの、その他に記録はなく、当社創建を崇神朝あるいは崇神9年とするのは根拠のない伝承であろう。

 このように、当社の創建年次は不明だが、神祇志料(1871・江戸中期)は、
  「広瀬和加宇加之売命神社、之を大忌神(オオイミ)又広瀬河合神と云ふ《日本書紀》。今広瀬河合村にあり。御食(ミケ)の事を知り持ち給ふ神・和加宇加乃売神を祀る《延喜式》
 天武3年(書紀では天武4年-676)4月10日、小錦中間人連大蓋(ハシヒトノムラジ オオフタ)・大山中曽祢連韓犬(ソネノムラジ カライヌ)を遣わして、大忌神(オオイミノカミ)を広瀬河曲(カハワ・河合町川合)に祭り、次年7月16日、又之を祀る。是後毎年4月7月祭を行ふ《日本書紀》
という。
 これによれば、当社は広瀬大忌祭がはじまった時点(天武4年)には既にあったととれ、これを以て当社の創建とする資料もある(神社覈録-1870)
 なお、小錦中・大山中とは、天武3年(664)に制定された“冠位二十六階”のひとつ(以下同じ)

 これに対して、大和志料(1914・大正3)は、
  「創祀の年代詳かならず。
 日本書紀に、天武天皇5年(4年の誤記)4月10日、小紫美濃王・小錦下佐伯連広足(サエキノムラジ ヒロタリ)を遣わして、風神を竜田立野に祠り、小錦中間人連大蓋・大山中曽祢連韓犬を遣わして、大忌神を広瀬河曲に祭る。7月16日、龍田風神・広瀬大忌神を祭るとあり、此れ龍田広瀬両神の国史に見ゆる始めなり。

 此に依れば、二神の創祀は天武帝の朝に在るが如くなれども、龍田社は遠く崇神帝の創祀に係ること既に彼神の下に詳かに述ぶるが如く、且つ当社は古来龍田と並称せられ、祭儀も亦日を同じくし、密接の関係を有するは世人のよく知る所なり。

 龍田の創立既に崇神帝の朝の在りとすれば、当社の創祀亦同時に在るは因より論を俟たず。
 国史に所謂天武帝5年(4年の誤記)4月の記録は即ち官祭に諸王五位以上の人を特遣する事実を示せるものして、此時創祀せられたるに非ざるなり」
として、常に当社と並記される龍田大社が崇神朝の創建であるから、当社も又崇神朝の創建とみるべきだという。

 確かに、大和志料は龍田大社の項で、龍田社の創建は崇神朝とする理由を縷々述べているが、これは記紀の記述を絶対とみた時代の風潮をうけたもので、今の知見からすれば、古墳時代前期(4世記)とされる崇神朝に常設の神社があったとは思えず(必要の都度設けられる神マツリの場はあったであろう)、当社及び龍田社の創建を崇神朝とするのには疑問がある。

 なお、龍田大社の創祀について、延喜式所収の龍田風神祭祝詞には「志貴嶋宮で天下を治められた天皇の御代」とあり、この志貴嶋宮は欽明天皇(539--71)の磯城嶋金刺宮(シキシマノカナサシノミヤ)を指すとみられることから、龍田大社の創祀は確証はないものの欽明朝あるいはそれ以降とするのが妥当かと思え(以上、別項「龍田大社」参照)、当社も又それに準ずると思われる。

 崇神朝・欽明朝の何れが史実かは判断できないが、書紀の記述からみて、天武4年に当社が広瀬河合の地にあったのは確かで、
 ・当社は遅くとも天武4年以前の創建とみられるが
 ・諸史料に、常に広瀬・龍田と並記されること、
 ・当社古縁起に「欽明天皇の治世に池辺採則が大明神を拝してから、その子孫が代々神主になった」とあること(日本の神々4)
からみて、欽明朝まで遡及できるかとも思われる。

◎大忌祭
 神祇志料がいうように、天武4年に大忌神を広瀬の河合に祀ったのが広瀬大忌祭の始まりだが、この祭は、
 神祇令に
  「山谷の水変じて甘水と成り、稲稼を浸潤し、其の全ての稔りを得んと欲する故に此の祭有り」
 延喜式・広瀬大忌祭の祝詞に
  「皇神等の領知せられます山々の口から、谷間を急流として下されます水を、灌漑に適する良い水と受けて、天下の公民の耕作している御稲を、暴風洪水の災害に会わせられず、あなた様が実らせ幸いならしめて下さいますならば・・・」
とあるように、
 稲作に必要な水が必要な時に必要な量がもたらされ、悪風による被災がなく、五穀が豊かに稔ることを神に祈願する祭であって、
 延喜式に
 ・四時祭  四月祭--大忌祭(広瀬社 七月之に準ず) 風神祭二座(龍田社 七月之に準ず)
 ・太政官  凡大忌・風神二座は四月七月四日之を祭る
 ・式部省  凡大忌・風神二座への遣使は王臣五位二人臣一人
とあるように、毎年、孟夏(夏の真ん中・四月・田植え前)と孟秋(秋の真ん中・七月・収穫期の前)の四日に、五位以上の王臣各一人六位以下の神祇官一人を遣わして奉幣したという。

 この風神祭・大忌祭について、書紀には略毎年のようにその執行が記されているが(天武5年から持統11年の21年間に27回)、続く続日本紀(697--791の記録)にはその記録はみえない。
 しかし、上記のように10世記に成立した延喜式に詳細な記述があることは、文武朝(697--707)以降も恒常的に行われていたことを示している。

 正史にみる当社に関する記録としては、
 ・聖武天皇・天平2年(730)--広瀬川合神に神戸稲租20束を奉る(大倭国正税帳)
 ・光仁天皇宝亀9年(778)6月--参議正四位上左大弁藤原朝臣是公等をして広瀬・竜田二社に幣帛を奉り、
                       雨風調和して秋の稔り豊かならむことを祈らしむ(続日本紀)
 ・平城天皇大同元年(806)--広瀬川合神神封二戸(新抄格勅符抄)
 ・文徳天皇嘉祥3年(850)7月--大和国龍田天御柱神・国御柱神・若宇加乃売神(広瀬神)に従五位上を加う(文徳実録)
 ・  同   仁寿2年(852)7月--大和国天御柱神・国御柱神・若宇加乃売神に従四位下を加う、
                       散位従五位下安宗王等を遣わして弊馬を奉る。祈年の為也(同上)
 ・  同    同      10月--大和国天御柱神・国御柱神・若宇加乃売神に従三位を加う(同上)
 ・清和天皇貞観元年(859)正月--大和国従三位広瀬神・龍田神に正三位を奉綬(三代実録)
 ・  同    同       9月--大和国広瀬・龍田神に使いを遣りて弊を奉る、風雨の為に祈りしなり(同上)
 ・  同   貞観12年(870)7月--大和国広瀬・竜田神に弊を奉りて、
                        河内堤を築くに際し雨澇の患なからむ事を祈らしむ(同上)
 ・陽成天皇元慶2年(878)7月--大和国広瀬・竜田の両社に、倉各一宇を造立、神宝を納めむが為なり(同上)
 ・  同   元慶3年(879)6月--使いを大和国広瀬・竜田に遣りて、神財(カムタカラ)を奉る(同上)
などの記録があり、当社が竜田社とともに風雨の神・豊穣の神(水神)として重要視されていたことを示している。
 なお、白河天皇・永保元年(1081)に正一位に昇ったというが、その出典先不明で未確認。

※祭神
  主祭神--若宇加能売命(ワカウカノメ)
  相殿神--櫛玉命(クシタマ)・穂雷命(ホノイカヅチ)

 記紀等にワカウカノメ命との神名はないが、当社公式HPには
 「主祭神・若宇加能売命は、別名
  ・広瀬大忌神(ヒロセオオイミ)--日本書紀
  ・豊宇気比売大神(トヨウケヒメ)--伊勢外宮
  ・宇加之御魂神(ウカノミタマ)--京都稲荷神社
  ・屋船豊受姫神(ヤフネトヨウケ)
とも呼ばれ、総て同神である」
とある。

 ワカウカノメの別名というウカノミタマについて、本居宣長は
  「宇迦は食(ウカ)なり、御魂(ミタマ)とは其の功徳(神徳)を称える名なり」(古事記伝9巻、要約)
として、ウカノミタマは“食物を司る神”とあり、ここから、同じ“ウカ”を有するワカウカノメも食物を司る女神となる(ワカは尊称、ウカノメはウカノミタマの女性名ともとれる)

 また、大和志料が
  「和加宇加乃売命は豊受気姫(トヨウケヒメ)一名保食神(ウケモチ=ウカノミタマ)の別名にして、水穀を守護し且天照大神の御膳を掌り、特に潔斎し其の職を奉ずるを以て大忌神(オオイミ)とも称せらる」
とあるように、ワカウカノメをトヨウケヒメの別名とする資料は多い。

 トヨウケヒメとは、古事記によれば、火神カグツチを生んで病臥したイザナミの尿(ユマリ)から生まれた和久産霊神(ワクムスヒ)の御子だが(書紀一書2には、カグツチが土神・埴山姫を娶って生んだ御子がワクムスヒとあるが、トヨウケヒメとの関係は記されていない)
 ・ワクムスヒの“ワク”が若々しい、“ムスヒ”が生成を意味することから五穀の成育を司る神とされ
   (書紀には、死んだワクムスヒの頭から桑と蚕が、臍から五穀が生成したとある)
 ・トヨウケヒメの“ウケ”もまた食物を意味することから(ウカからウケへの転訛、トヨは尊称)、食物の神とされ
 同じ神格をもつウケモチ・ウカノミタマ・オオゲツヒメ・ワカウカノメなどと同神視され、一般には伊勢外宮・豊受大神宮の祭神として知られている。

 このように、ワカウカメは一義的には食物神・穀神だが、穀神は五穀の豊穣にかかわる水神であり、祝詞がいうように山谷の悪水を良水に変え、枯れることなく水田を守り、河川の氾濫を防ぐ神でもある。
 当社が大和川・曽我川・飛鳥川の3川合流地に鎮座するのも、水田農耕に欠かせない水を安定的に供給する水神としての鎮座であって、農事に欠かせない大切な神として、朝野の尊崇を受けたのも当然のことであろう。

 なおも当社祭神は別称・大忌神ともいうが、これは、ワカウカメの別名・トヨウケヒメが、特に潔斎して伊勢内宮の神・アマテラスの御膳を掌ることによるという(祭を大忌祭というのも同じ)

 別名の一つ、ヤフネトヨウケヒメとは、延喜式・大殿祭祝詞(宮殿の安定を祈願する祝詞)
  「平らけく安らけく護(イハ)ひ奉る神の御名は、屋船久々遅命(ヤフネククノチ)・屋船豊宇気姫命と称え奉りて・・・」
とある神で、延喜式祝詞教本(1959)には、
  「屋船は住居を意味し、ヤフネククノチは是木霊也、ヤフネトヨウケヒメは是稲魂也、俗にウカノミタマと謂ふ」
とあり、屋船が家屋を指すことからヤフネトヨウケヒメは庫に貯蔵された稲穂に宿る稲魂を指すのかもしれない。

 相殿神二座について、HPには
  櫛玉命--物部氏の遠祖・饒速日命(ニギハヤヒ)という
とある。
 これは、先代旧事本紀(9世紀前半、物部氏系史書)にいうニギハヤヒの神名・天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(アマテルクニテル アメノホアカリ クシタマ ニギハヤヒ)にある櫛玉によるものだろうが、この長々しい神名は、ニギハヤヒをアマテラスの長子・天火明命(アメノホアカリ)と同神とするために、両神名の間に櫛玉との文字をはさんで創られた旧事本紀独自の神名で、櫛玉とは“奇(ク)しき魂”の意と思われるが、それが何故両神の間に挿入されたのかは不詳で、これを以て櫛玉命=ニギハヤヒとするには疑問がある(アメノホアカリ=ニギハヤヒ説は本居宣長など先学によって否定されている)

 ただ、当社の社家とされる曽祢氏について(ネット資料)、新撰姓氏録に
  「和泉国神別(天神) 曽祢連 采女臣同祖 神饒速日命六世孫伊香我色雄命之後也」
とあることから、社家・曽祢連一族が、その遠祖・ニギハヤヒの神名を櫛玉と変えて祀ったのかもしれないが、姓氏録の大和国に曽祢連が見えないのが気にかかる(大阪府泉大津市にある曽祢氏関連の曽祢神社は、主祭神:ニギハヤヒとある)。

 これに対して、大和志料は、
  「(本殿の)左は櫛玉姫命(クシタマヒメ)を祭る、延喜式神名帳なる櫛玉比売神社即是なり、右は水穂火雷命(ミズホノイカヅチ)を祭る、同帳に所謂穂雷命神社(ホノイカヅチ)是なりと云ふ」
という。

 ここでいう櫛玉比売神社とは、北葛城郡広陵町弁財天にある式内・櫛玉比売神社を指すといわれ、その祭神・櫛玉姫命は、長髄彦の妹でニギハヤヒの妃・御炊屋姫(ミカシヤヒメ)のことということから、物部氏が関連する神社かもしれない。

 もう一社の穂雷命神社とは、同じ広陵町安部にある式内・穂雷命神社を指すといわれ、同社社頭の案内には、「始め火雷神を祀り、今は手力男命・天照大神・武雷神・保沼雷神・栲幡千々姫を祀る」とあり、また社伝には「天文3年(1534)、川合の広瀬神社から勧請」とある。

 なお穂雷命神の出自は不明だが、これを火雷神(ホノイカヅチ)とみれば、死んで黄泉国に降ったイザナミの体に化生した八雷神の一・胸に生じた火雷神を指すと思われる。

 これら相殿神として祀られている式内2社は、元々は独立した神社としてそれぞれの地に祀られていたが、何らかの理由で当社に合祀されて旧社地が消失したが、それが再び元の地に複社した(穂雷命神社社伝では天文3年-1534-という)後も、そのまま当社の相殿神として祀られたのではないかという(式内社調査報告)

※社殿等
 当社は小川に沿った南北に細長い叢林中にあり、南端の一の鳥居(朱塗)から長い参道を進んだ先に二の鳥居(朱塗)があり境内に入る。

 鎮守の森の北端部・二の鳥居を入った先が境内で、その正面に拝殿(入母屋造桧皮葺)が建ち、その奥、瑞垣に囲まれ一段高くなった区画が本殿域で、正面に中門がある。
 本殿域の中央に一間社春日造(朱塗・桧皮葺)の本殿が鎮座するが、瑞垣が高くかろうじて屋根部分が見えるだけで全容は実見不能。

 この本殿について社頭の案内には、
 「神社に伝わる和州広瀬郡広瀬大明神之図(推定室町時代)には、八町四方の四至に鳥居を立てた広大な姿が描かれています。本殿は3殿が並ぶ姿に描かれ、相殿に櫛玉比売命と穂雷神を祀っていますが、永正3年(1506)年の戦乱により往時の建物は灰燼に帰したと伝えられています。
 現在に残る最古の建物は、正徳元年(1711)に造営された本殿で(奈良・春日若宮の用材を使用したという)、一間社春日造の様式をよく伝えるものとして、昭和63年(1988)3月に奈良県指定文化財に指定されました」
とある。

 
広瀬大社・一の鳥居
 
同・二の鳥居

同・拝殿

同・本殿域正面 
 
同・本殿
 
同・本殿

◎末社
 一の鳥居から二の鳥居に至る参道の左右に末社4宇が鎮座する。
 参道左(西側)--(南より)日の丸稲荷社(稲倉魂命、伏見稲荷より勧請)・祖霊社・祓戸社
 参道右(東側)--稲荷社の反対側、低い高地に日吉社
が鎮座し、境内右手に神馬舎(絵馬舎か)があり中に馬の像が安置してある。

 
末社・祖霊社
 
末社・祓戸社
 
末社・日吉社

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