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葛城の式内社/葛木坐一言主神社
現社名−−一言主神社
奈良県御所市森脇
祭神−−一言主大神・幼武尊(雄略天皇)
                                                         2013.01.19参詣

 延喜式神名帳に、『大和国葛上郡 葛木坐一言主神社 名神大 月次相嘗新嘗』とある式内社。
 社名は“カツラキニマス ヒトコトヌシ”と読む。俗称:いちごんさん

 近鉄御所線・近鉄御所駅の南西約3km弱。駅東側を南北に通る国道24号線を南下(奈良交通バスがあるが、時間1本以下)、宮戸橋交差点(バス停)より国道309号線を西進約1.1km、豊田交差点(葛城の道との交点)を右折して葛城の道を北上、突きあたりを左折(一の鳥居あり)直進、交差する県道30号線を越えた先の山麓に鎮座する。

※由緒
 社頭に掲げる案内には、
 「本社は、雄略天皇が葛城山で狩をされた時、雄略天皇4年春『吾は悪事(マガコト)も一言、善事(ヨゴト)も一言、言ひ離つ(イイハナツ)神、葛城の一言主大神(ヒトコトヌシ)なり』と、この郷(神隆)に顕現された神様を御奉斎しています。
 延喜5年(延長5年-927の間違い)制定の延喜式では名神大社に列し、祈年・月次・新嘗・祈雨のお祭には官弊に預り、文徳天皇(嘉3年・850)をはじめ歴代天皇、特に後光厳天皇から神格・正一位が贈られる(延文5年・1360とする資料あり)等官人や歌人・各階にわたる崇敬の念厚く、伝教大師最澄も入唐に際し祈願された(延暦23年・804)霊験高き最古の神社であります。
 近世では、“いちごんさん”と呼ばれ、一言の願いであれば何事も聴き下さる神様として、崇め親しまれ広く信仰されており、また全国各地の一言主大神を御祭神とする神社の総本社であります」
とある。
 また、当社配付の栞・“いちごんさん”には、
 「本社に鎮まります一言主大神は、21代雄略天皇(幼武尊・ワカタケノミコト)が葛城山に狩をされたときに顕現されました。その時の次第が古事記・日本書紀に伝えられています。
 ・・・(古事記の顕現伝承−下記)・・・
 この大神が顕現された“神降”(カミタチ)と伝える地に、一言主大神と幼武尊(雄略天皇)をお祀りするのが当神社であります。
 古事記が伝えるところによりますと、一言主大神は自ら『吾は悪事も一言、善事も一言、言離の神、葛城の一言主の大神なり』と、その神力をお示しになっておられます。そのためか、この神様を“一言さん”という親愛の情を込めてお呼び申し、一言の願いであれば何ごとでもお聴き下さる神様として、里人はもちろんのこと、古く全国各地からの信仰を集めております」
とあり、大和志料(1915)には、
 「葛木鴨一言主神社 吐田村大字森脇(葛城山の東麓)に存す。此処は土佐風土記に謂うところの高宮岡なり。今県社なり」
とある。
 (古代の葛城山は、奈良盆地西方に南北に連なる現葛城山(H=960m)から金剛山(H=1125m)にかけての連山を総称していた)

 由緒にいうように、当社は葛城山に坐す神・ヒトコトヌシを祀る神社だが、その創建時期・沿革などは不明。
 ただ、
 ・文徳実録(879)−−嘉3年(850)10月辛亥、葛木一言主神に正三位を授く
 ・三代実録(901)−−貞観元年(859)正月27日甲申、大和国・・・正三位勳二等葛木一言主神・・・に従二位を奉授
との神階授叙の記録があり、9世紀初頭の実在は確かといえる。

 また、記紀のヒトコトヌシは、悪事も善事も一言で言い放つ神(託宣の神)として記されているが、
 ・三代実録−−貞観元年9月8日庚申、大和国・・・一言主神・・・に遣使奉弊、風雨祈焉の為
とあり、この当時は、託宣の神としてではなく、風雨の順調なることを祈願する神として奉斎されていたともとれる。
 栞には、「後光厳天皇からは正一位の神格を授かっています」とあるが、その出典史料は不明(後光厳天皇-1352--71は北朝の天皇)

 なお、神殿背後の山中に磐座(イワクラ、今は山中が荒れているとかで登拜禁止)があることからみると、古く、この磐座の前でおこなわれた祭祀が当社の原点とも解され、その始まりの時期を憶測すれば、
 ・記紀で、ヒトコトヌシが雄略天皇の御世(書紀では雄略4年)に顕現したということからみて、雄略朝(5世紀後半頃)以降に始まったとも推測され、また
 ・当地一帯(古地名:高宮)が、4世紀(あるいは、それ以前)から5世紀前半にかけて勢力を張っていた葛城氏の本拠地とされること
 ・境内に葛城氏の祖とされる葛城襲津彦(ソツヒコ、5世紀前期頃に実在したとされる伝説的人物)の名を詠み込んだ万葉歌碑があること
  「葛城の襲津彦真弓 荒木にも 頼めや君が わが名告(ノ)りけむ」(2639)
  (葛城のソツヒコの弓の 荒木のようにしっかりと 頼りにする気であなたは 私の名を人に言ったのでしょうか
      −−恋人の名をみだりに人に告げることはタブーであるのに、それをあえてしたあなたは、そんなに私を頼もしく思ってくれているでしょうか)

からみると葛城氏が関与していた可能性もあり、とすればも少し早くなるかもしれない(葛城本宗家は雄略3年に没落したという−書紀)

※祭神
 当社祭神・一言主神(ヒトコトヌシ)は、葛城山(古くは、現葛城山・金剛山を併せて葛城山と呼んでいた)に坐す山の神で、古く、当地方一帯に勢力を張っていた葛城氏が奉斎していたと思われる。
 その顕現の有様は記紀に詳しいが、そのニュアンスには多少の差異がある。
 ・古事記(雄略記)
 天皇が百官を従えて葛城山で狩をされたとき、天皇らと全く同じ服装をした男ら一行と出会った。それを見た天皇が、「この国には自分をおいて王はないのに、同じ格好をしたお前らは何人か」と問うと、全く同じ答えが返ってきた。そこで、天皇は怒って、百官の弓に矢をつがえさせると、男の従者達もみな矢をつがえた。
 天皇が「まず、そちらから名を名乗れ、互いに名乗った後で矢を放とう」と問いただすと、男は「吾は悪事(マガコト)も一言、善事(ヨゴト)も一言で言い放つ神、葛城の一言主の大~なり」との答えが返ってきた。
 それを聞いた天皇は、「恐れおおいことだ、大~が現身(ウツシミ・現実の姿)をお持ちとは気づかなかった」と申して、自分の太刀や弓矢を始め百官の衣服をも脱がせて献上し、拝礼された。
 一言主の大~は悦んで献上品を受け、天皇が帰るときは、泊瀬の山の入口まで見送られた。(大意)

 ・日本書紀(雄略紀)
 4年春、天皇が葛城山に狩に行かれたとき、姿形が天皇とよく似た長身の人と出会った。天皇は、これは神であると思ったが、わざと「どちらの御方ですか」と問うと、その人は「現人神(アラヒトカミ)である。貴方が名を名乗れば、自分も名乗ろう」と答えた。
 天皇が「吾は幼武尊(ワカタケノミコト)である」と答えると、その人は、「吾は一言主神である」と名乗った。
 二人は一緒に狩を楽しみ、日が暮れて狩が終わると、神は天皇を久目川まで見送られた。(大意)

 古事記のヒトコトヌシは、天皇より上位の尊者(神)として記されているが、書紀のそれは、対等あるいは下位の存在として記されている。おそらく、“古事記の記述が古い伝承”であって、書紀にみられる変化は、“ヒトコトヌシを奉斎していた葛城氏が、天皇家と対等に近い地位、親密な姻戚関係を失った雄略朝以降の政治情勢(葛城宗家は雄略朝初期に没落したという−雄略3年条)を反映して改作されたのであろう”という(日本の神々4、2000)

 一方、時代は降るが、鎌倉末期の書紀註釈書・釈日本紀(13世紀末頃)の一言主神の項に、
 「或説に曰く、此の時、天皇と神とが獲物を競いあい、神に不遜の言葉があったので、天皇が大いに怒り、神を土佐に流した。
 それを天平法宇8年(764)、賀茂朝臣田守等が奉請して葛城山東下の高宮岡の上に迎え鎮め奉った。その和魂は、なお土佐国に留まって、今も祭祀している」
とあり、ここでのヒトコトヌシは、天皇と獲物を競いあい且つ不遜の言葉を吐いたので、怒った天皇が土佐国へ流したと、記紀雄略条とは異なる伝承を記している。

 これに関連して、続日本紀(797)・淳仁天皇天平宝字8年(764)条には
 「高鴨神について、賀茂朝臣田守らが、『昔、雄略天皇が葛城山で狩をされたとき、老夫があって天皇と獲物を競いあい、天皇がこれを怒って、その人を土佐国に流しました(原注:今前記を検するにこのこと見えず)。これは私らの先祖が祀っていた神が化身して老夫となったもので、この時、天皇によって放逐されたのです』と言上したので、天皇は田守を土佐に派遣して高鴨神を迎え、元の場所(葛上郡)に祀らせた」(大意)
とあり、雄略天皇によって土佐に流されたのは、ヒトコトヌシではなく鴨神となっている。

 このヒトコトヌシ(又は高鴨神)の配流先とされる土佐国で唯一の式内大社・都佐坐神社(現土佐神社)の社伝によれば、
 「祭神は高鴨神といわれ、元は大和の葛城山に坐したが、雄略天皇の怒りに触れて都佐国に流された、・・・」
とあり、土佐国風土記(逸文)には、
 「土佐郷 郡役所から西方四里のところに土佐の高賀茂の大社がある。その神の名をヒトコトヌシとする。一説ではオオナムチの子・アジスキタカヒコネという」
とある。

 これら一連の記述によれば、土佐に流された神はヒトコトヌシあるいは鴨神と異なっているが、
 ・土佐からの復祀を願い出た賀茂朝臣田守とは、当社の南約4kmにある鴨神社(式内・鴨阿治須岐詫彦根命神社)の神主で(葛城鴨氏)、田守が「私らの先祖が祀っていた神」ということ(続日本紀)からみると、同社に祀られている“鴨神”(又はアジスキタカヒコネ命)ともとれるが、記紀には鴨神なる神はみえず、これを同社の祭神・アジスキタカヒコネとみても雄略天皇との間に接点はない
 (鴨神とアジスキタカヒコネを別神とする見方と、タカカモアジスキタカヒコネとして一神とする見方があり、混乱に拍車をかけている)
 ・この神をヒトコトヌシとすれば、その復祀を鴨神社の神主が願い出たというのは不可解だが、ヒトコトヌシ=アジスキタカヒコネとして、整合性を取ろうとする説もある(大和志料)
  ヒトコトヌシとコトシロヌシを同一神というのなら、その神格の類似性からみて理解できないこともないが、ヒトコトヌシ(託宣神)とアジスキタカヒコネ(農耕神)とでは神格が違う。
 ・釈日本紀に、土佐からの復祀先は“葛城山東下の高宮岡”とあるが、高宮岡とは当社鎮座地一帯の古地名であることから、復祀したのはヒトコトヌシであって、復祀を奏上したのが高鴨神社の神主であることから、続日本紀が鴨神と誤って伝えたのであろう(神々と天皇の間・1970)
 ・記紀の内容は、天皇を至誠の人とするための粉飾とも考えられ、書紀に、雄略天皇の性格は荒っぽく、わずかの過ちで臣下を殺したとあることなどから、釈日本紀にいう伝承が事実であったとも思える(同上)
などといわれ、管見のかぎりでは、ヒトコトヌシとする説が有力ととれるが、その真偽は判断できない。


 因みに、賀茂氏の出で葛城山で修業し修験道の祖とされる役行者(エンノギョウジャ、役小角・エンノオヅヌ)と、ヒトコトヌシとの関係について、日本霊異記(平安初期・822頃か)・今昔物語(平安末期・12世紀前半頃か)は、次のように記している。
 ・日本霊異記
  鬼神を自在に操ることができた役行者が、鬼神を集めて「大和国の金の峯から葛木の峯まで橋を渡せ」と命じた。神々はみな嘆いた。文武天皇の御世に、葛木の峯の一言主大神がある人に憑依して、「役行者が陰謀を企てて、天皇を滅ぼそうとしています」と申し上げた。天皇は勅して、行者をとらえようとされた。・・・
  その一言主の大~は、役行者に呪縛されて、今の世に至るまで解放されていない。(大意)
 ・今昔物語
  役の優婆塞(役行者)は、諸々の鬼神を召し集めて、「葛木山と金峯山の間に、我が通う橋を造り渡せ」と命じた。鬼神らは愁え嘆いたが許されなかったので、「われらの姿は極めて見苦しいので、夜に隠れて橋を造ろう」として、夜のみ働いた。
 これを見た優婆塞は、一言主神を呼んで、「汝は何の恥があって姿を隠すのか。それでは橋は造り渡せまい」と怒って、呪をもって神を縛り、谷の底に閉じ込めた。
 その後、一言主神が人に憑いて、「役の優婆塞(エンノウバソク)が謀(ハカリゴト)をなして、国を傾けようとしている」と告げた。これを聞いた天皇が、役人を遣わして優婆塞をとらえようとされた。・・・(大意)

 古く、神が活動するのは夜のみとされることから、神々が夜のみ働いて橋を架けようとしたのは当然のことだが(一晩で長い石段を築こうと約束した神が、最後の一段を築く直前に朝となったため、完成せずに去ったとの類の話が各地に残っている)、それを怒った役行者がヒトコトヌシを呪縛したというこの説話は、葛城山を拠点とする山岳宗教・修験道の隆盛化にともなって、古くからの葛木山の神・ヒトコトヌシの神威が衰微していったことを示唆するものという。
 (役行者は、文武天皇頃-7世紀末-に実在した人物で修験道の祖といわれ、続日本紀・文武天皇3年(699)条には、役小角の弟子・韓国連広足(カラクニノムラジ ヒロタリ)が、「小角の呪術言動は人々を迷わすものである」と讒言したため捕らえられ伊豆に流されたとあり、こちらが史実に近いであろう

 今昔物語は、「われらの姿は極めて見苦しいので、・・・」といっているが、これに因んだ俳人・芭蕉の句碑が、境内左手の植え込みの中に立っている。
 この句は、句集・笈の小文(1709)にあるもので、そこには
 「やまとの国を行脚して、葛城山の麓を過るに、よもの花は盛りにて、峯々は霞わたりたる明ぼのの景色いとど艶なるに、彼の神のみ形悪ししと、人の口にいひつたへ侍れば」
との詞書きの後に
   猶みたし 花に明行(アケユク) 神の顔 
とある。
 その意は、一言主は顔が醜かったというが、本当は、この花盛の山々の曙にふさわしく、きっと美しかったにちがいない。そんな神の顔を見たいものだ、ということか。
一言主神社/芭蕉句碑
芭蕉・句碑

※社殿等
 国道309号線と交差する(豊田交差点)葛木の道を北上し、突きあたり左に一の鳥居が立ち、西進する葛城の道が県道30号線を越えた先に二の鳥居が立つ。
 参道の突きあたりにある石段(50段)を登った上が境内で、正面に大きな唐破風付向拝を有する拝殿(入母屋造・瓦葺)が、その奥、石段の上に本殿(一間社流造・銅板葺)が東面して鎮座するが、樹木繁茂し屋根の一部が見えるのみ。

一言主神社/一の鳥居
一言主神社・一の鳥居
一言主神社/二の鳥居
同・二の鳥居
一言主神社/参道
同・参道
一言主神社/拝殿
同・拝殿
一言主神社/本殿
同・本殿(見えるのは屋根の一部のみ)

◎境内末社
 社殿域の右手山裾(左から)−−一言稲荷社(保食神)、市杵島社(市杵島姫命)、天満社(菅原道真)、住吉社(住吉三神)
                    神功皇后社(神功皇后)・八幡社(誉田別尊)合祀殿
 境内左手の植え込み脇−−祓戸社(瀬織津比売命)


末社・市杵島社
一言主神社/末社・天満社
末社・天満社
一言主神社/末社・住吉社
末社住吉社
一言主神社/末社合祀殿
末社合祀殿
一言主神社/末社・祓戸社
末社・祓戸社

 境内には、乳銀杏と呼ぶ銀杏の老大木と、蜘蛛塚と称する石がある
 栞に記す案内には、
 ・乳銀杏−−推定1200年の銀杏の老大木で、この木に祈願すれば子供が授かり、お乳の出が良くなると伝えられている
 ・蜘蛛塚−−神武天皇即位前紀に、「高尾張邑(タカオハリムラ・当地の古地名)に土蜘蛛がいた。その人態は身丈が短くて手足が長かく、侏儒(シュジュ)に似ていた。皇軍は葛の網を作って覆い捕らえ、これを殺した。そこでこの邑を改めて葛城とした」と伝え、境内には、この土蜘蛛の頭と胴と足を三つに分けて埋められたという塚が三つ伝えられている
とある(同じく土蜘蛛を埋めた塚というのが、高天彦神社近くにもある)
一言主神社/乳銀杏
乳銀杏
一言主神社/蜘蛛塚
蜘蛛塚

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