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忍海の式内社/葛木坐火雷神社
奈良県葛城市笛吹
祭神--火雷大神・天香山命
付-笛吹神社
                                                                 2014.08.30参詣

 延喜式神名帳に、『大和国忍海郡 葛木坐火雷神社二座 並名神大 月次相嘗新嘗』とある式内社。社名は“カツラキニマス ホノイカヅチ”と読む。
 一般には゛笛吹神社として知られている。

 近鉄御所線・忍海駅の西南西約2km、駅から約1.5kmほど西を南北に走る県道30号線(御所香芝線)の脇田交差点(笛吹神社との案内矢印あり)を西へ、600mほど進んだ右手(北側)に鎮座する。

※由緒
 社頭に掲げる御由緒略記(大正2年10月・奈良県掲示、以下、略記という)によれば、
  「当神社は元火雷神社と笛吹神社の2社なりしを、延喜帝以前に合祀せられたり。上古来、朝廷大事を卜定せらる毎に笛吹神社より波波迦木(ハハカノキ)を進献するを倒(ナライ)とせり。

 御鎮座は神代と云ひ、神武天皇の御代とも謂うといえども詳ならず。

 社家持田家の家譜に、崇神天皇の御代10年、建埴安彦(タケハニヤスヒコ)兵を挙げて帝都を襲はんとす、仍て大彦命は笛吹連櫂子(カジシ)等を率ひ、奈良山に於て安彦の軍と戦ひて、和韓川(ワカラカワ)の南に於いて櫂子の射放ちたる矢は安彦の胸を射貫き之を斃す。故に、賊軍降て平定す。
 依て櫂子の戦功を賞して天磐笛及び笛吹連姓を給ふ。其の夜、天皇の御夢に、此の磐笛を以て瓊瓊杵尊の神霊を祭れば、国家安寧ならんことにより、当社(火雷神社)の相殿に奉祀せられたると有れば、崇神天皇御宇以前の古社にして、地誌其の他の古書に笛吹神社とあるは所謂是也

  皇室の御尊崇最も厚かりし官弊大社にして、延喜式に名神大・月次相嘗・新嘗と載せられ、毎年数度の案上官弊に預り給ひし神社にして、卜事に用ふる波波迦木を奉る等皇室との関係も亦深かりし事を拝察し奉り得るなり」
という。

 また、拝殿前に置かれている御由緒略記(以下、略記2という)には
  「火雷大神を祀る火雷神社と笛吹連の祖・天香山命を祀る笛吹神社の2社は、元々別にお祀りされていたようだが、延喜の制以前に合祀されたのではないかと考えられる。
 
 天香山命の子孫・笛吹連が代々この地に住み、祖先神に奉仕し、この土地を笛吹と称えた。その為か、現在も正式な葛木坐火雷神社という名よりも笛吹神社という名の方が地元の人々にも親しまれている。

 現在は、火雷大神が火の神様であることから、火を扱う職業(飲食業・製造業・工場)や消防関係の崇敬を集めている。又、天香山命の御神徳から笛やフルート・尺八等楽器の上達を願う方の崇敬が篤く、全国各地から奉納実演にみえる方も多い」
とあり、当社は、延喜式制定以前から、火雷神社と笛吹神社2社を併せ祀った神社という。とすれば、延喜式にいう祭神二座とは、火雷神社祭神・火雷命と笛吹神社祭神・天香山命の二座を指すと思われるが、これには下記のように疑問もある。

 略記・中段冒頭に、「御鎮座は神代とも神武天皇の御代ともいうが詳ならず」というように、火雷神社の創建年次は不明だが(創建由緒も不明)、三代実録・貞観元年(859)正月27日条に、
  「大和国正三位勲二等・・・葛木火雷神に従二位を授け奉る」
とあることから、9世記以前からの古社であることは確か。

 ただ、この神階綬叙は火雷神(火雷神社)に対するもので、笛吹神社は式外社であるため神階綬叙に預からなかったと思われ、この時点での笛吹神社と火雷神社との関係は不明。

 その後、火雷神社は延喜式(927)に名神大社に列したのを最後に神封・奉幣などの記録がみえず、代わって笛吹神社の名が現れ、
 ・柿本在の影現寺(現光現寺)保有・大般若経奥書(保元2年-1157)--笛吹大明神
 ・奥義抄(12世記中頃)--笛吹社よりハハカの木をきりて、都に奉りぬれば、神司亀の卜する事にぞ、侍れるとかや
等の記録があり、平安時代末期以降は笛吹神社として知られていたのは確かという。
 また、延喜式臨時祭条に
  「凡年中、御卜料の婆婆加木の皮は、大和国有封社に仰せつけ、之を採進せしむ」(漢文意訳)
とあり、この有封社が当社を指すのであれば、ハハカの木を献納した笛吹神社(当社)の創祀は延喜式時代(10世記初頭)にまで遡れるという。

 ただ、この笛吹神社と火雷神社との関係は不詳で、略記・諸資料は延喜式制定時からの両社合祀を示唆するが、
  「火雷神社と笛吹神社が同一のものか、または並存していたかは不明」
というように(以上、式内社調査報告-1982)。はっきりしない。

 ただ、江戸時代には、大和志(1734・江戸中期)
  「葛木坐火雷神社二座  笛吹村笛吹神祠の傍らに在り」
とあるように、式内・火雷神社は笛吹神社の末社のようになっていたようだが、
 大和志料(1914・大正3)--葛木坐火雷神社--大字笛吹村にあり
                  笛吹神社--今火雷神社の相殿に祭らる
 奈良県史(1979)--明治7年(1874)、火雷神社を笛吹神社に合祀、葛木坐火雷神社と改称、郷社となす
と両社の関係に混乱があることからみると、両社は本来別々の神社で、その鎮座地が同じ所にあったため、笛吹神社の名で世に知られたのではないかと思われる(脇田交差点脇の案内矢印には笛吹神社とある)

◎笛吹神社
 略記中段は、式内・葛木坐火雷神社の由緒というより、合祀されている笛吹神社の由緒を記したもので、その大筋は、書紀の崇神天皇10年条に記す武埴安彦の反乱記事をなぞっているが、書紀には
  「大彦と和珥氏(ワニ)の先祖・彦国葺(ヒコクニフク)を遣わして山城に行かせ、埴安彦を討たせた。・・・
   武埴安彦がまず彦国葺を射たが当たらなかった。ついで彦国葺が埴安彦を射た。胸に当たって殺された」
とあって、略記がいう笛吹連の祖・櫂子ではない(古事記も同じ)

 記紀に和爾氏の祖・彦国葺と明記されているのを、略記が笛吹連の祖・櫂子とする理由は不明だが、多分に、笛吹連の後裔という社家が、笛吹神社の由緒及び自家の出自を飾るために改竄した伝承で、天皇の夢云々というのも加飾であろう。

 笛吹連とは、天皇の葬儀等に係わる遊部(アソビベ)の一つといわれ、新撰姓氏録(815)には
  ・河内国神別(天孫)  笛吹連  火明命之後也
  ・河内国神別(天孫)  吹田連  火明命児天香山命之後也(笛吹連と同族という)
 先代旧事本紀・天孫本紀(尾張氏系譜)には、
  「天火明命の子・天香語山命6世の孫・建多乎利(タケタオリ)--笛吹連・若犬甘連の祖」
とある(天火明命はアマテラスの孫)

 大和国に笛吹連の名はみえないが、当地付近には“遊びの岡”との伝承地、あるいは笛堂(今もある)・遊田との字名があったこと、略記2に「笛吹連が代々この地に住み云々」ということから、確証はないが、笛吹連一族の居住が推測され、その祖神(天香山命)を祀ったのが笛吹神社と思われる。
 なお、本殿背後に“笛吹神社古墳”と呼ばれる円墳(直径約28m、高約4m、横穴式石室あり)があり、笛吹連一族の祖先の墓ではないかという。

 なお遊部とは、天皇崩御のとき墳・棺など葬儀に必要な祭具を用意し、葬儀の場では葬送の音曲を奏で、喪車の綱を引いた部曲(カキベ)で、平素は笛師・笛生・笛工として治部省雅楽寮に所属していたという。

 いま“遊び”・“遊ぶ”といえば、人間の娯楽・遊興といった“楽しみごと”を指すが、“遊”本来の意味について、常用字解(白川静・2003)には、
  「斿は氏族霊の宿る旗を押したてて出行することをいい、遊の元の字である。
   神霊が『ゆく』こと、気ままに行動することを遊・遊行という。
   もと神霊があそぶこと、自由に行動する意味であったが、のち人が興のおもむくままに行動して楽しむという意味に用いられるようになった」(大意)
とあり、その神の“あそび”(顕現でもある)に和して祭祀をおこない、神を楽しませたのが遊部であろう。

◎波波迦(ハハカ)の木
 略記の上段及び下段に、朝廷が卜事をおこなうに際して、当社より波波迦木を献じたとある。

 古事記・天岩屋戸の条に、
  「次にアメノコヤネ命とフトタマ命を召して、天の香山の真雄鹿の肩骨を抜きに抜きて、天の香山の天の波波迦を取りて、占合(ウラナ)ひまかなはしめて(神意を占わしめて)・・・」
とあるように、古代の占い(太占-フトマニ)によって神意を伺うとき、この木の樹皮を用いて鹿の肩甲骨(後には亀の甲羅)を灼いたという。

  波波迦木について、略記2には
 ・波波迦木は大和笛吹の社から、これを請け取るなり--古事類苑
 ・笛吹のハハカの木をきりて都に奉りぬれば 神司亀の卜する事にそ侍りけるとかや--奥儀抄
 天皇即位の年におこなわれる大嘗祭は御代一代の大祭祀で、その斎田(用いられ稲を耕作奉納する田・悠紀田-ユキデン・主基田-スキデン)の土地は占い(卜定)で決められる。
 その卜定には波波迦木が用いられ、その波波迦木は、上記にあるように、当社の神域のものを奉る吉例となっている。
とある。

 当社は鬱蒼たる森の中に鎮座し、樹木名の表示がないため、波波迦の木の特定はできないが、社頭の境内絵地図に、鳥居脇に“ハハカの木”とあることから、鳥居の左にあった樹(右写真)がそれであろう

波波迦の木

 なお、波波迦の木は橿原市の天香山坐櫛眞命神社(通称・天香山神社、香久山北山麓にある)にもあり、同社の案内には、
  「イバラ科の木で、朱桜(ニハサクラ)・ウハミザクラ・コンゴウザクラ・カバザクラの別名があります。
   古事記によれば、この木の皮で香久山の雄鹿の骨を灼いて吉兆を占ったそうです」
とある。

※祭神
 主祭神--火雷大神(ホノイカヅチ、宮中大膳職坐神)・天香山命(アメノカゴヤマ・天香語山命とも記す、笛吹連御祖神)
 相  殿--天津彦火火瓊瓊杵命(アマツヒコヒコホノニニギ)・大日孁貴命(オオヒルメムチ)・高皇産霊命(タカミムスヒ)
          ・伊古比都弊命(イコヒツベ)

*主祭神・火雷大神について、略記は、
  「火雷神は火産霊神(ホムスビ)とも火之迦具土神(ホノカグツチ)とも申し奉り、火を主宰し給ふ神にして、此の大神は宮中大膳職及び伊勢神宮斎宮の菓餅所にて奉齊せらる御同神にして、菓祖の大御神なり」
という。

 火雷神の出自について、古事記・黄泉国段に
  「(亡くなったイザナミを追って黄泉国に至ったイザナギが)一つ火をともして御殿の中に入ってご覧になると、女神の身体には蛆がたかり、頭には大雷が、胸には火雷が、腹には黒雷が、陰部には柞雷が、左手には若雷が、右手には土雷が、左足には鳴雷が、右足には伏雷がおり、合わせて八種の雷神が成り出ていた」
とある(書紀第5段一書9には、「イザナミの死体がふくれあがって、上に八色の雷があった。八色の雷とは大雷・火雷・・・をいう」とある)

 略記が同神という火迦具土神は、イザナギ・イザナミの神生みの中で生まれた火の神で、イザナミはこれを生んだがためホトを灼かれて死んだとあり、これを怒ったイザナギにより切り殺されたという(書紀・神代紀5段)

 このカグツチとホムスビとは、書紀5段・一書3にはホムスビと、一書4にはカグツチとあるように同神とされるが、カグツチをホノイカヅチの別名とする史料はない。
 略記が別名とするのは、両神とも同じ火の神であることからのもので、出自からみても、別神とするのが本来であろう。

 ただ、先代旧事本紀(陰陽本紀)に、「怒ったイザナギがカグツチを三つに斬り、その三つから雷神(イカヅチ・火の神)・大山祇(オオヤマツミ・山の神)・高靇(タカオカミ・水神)が生まれた」(大意)とあり、略記は斬られたカグツチから生まれた雷神を父・カグツチと同神とみたのだろうが、親子神の神格は同じとみれば異論はない。
 しかし、これを以て出自が異なる火雷神を火之迦具土と同神とするのは牽強付会的色彩が強い。

 また、火雷神は宮中大膳職及び伊勢斎宮で祀られているというが、延喜式・大膳職(宮内省に属し、宮中の食事、特に副食・調味料等を所掌したという)条に“菓餅所(菓・餅などを扱う下部組織)火雷神一座”とあり、大膳職に祀られていたのは確認できるが、伊勢斎宮(伊勢斎王の居所)に祀られていたかどうかは確認できない。

 火雷神とは一義的には火の神だが、続日本紀・大宝2年(702)7月8日条に、
  「山城国乙訓郡にある火雷神(式内・乙訓坐火雷神社。現角宮神社)は、雨乞いをする度に霊験がある。大弊(オオヌサ、祈年祭に際しての幣帛)と月次祭の幣帛を奉るようにせよ」
とあり、雷が雨を伴うことから、火雷神は火神であるとともに水神でもあったと思われ、
 日本の神々4は、
  「当社も本来、雷火と雷雨の神二座を祀っていたのであろう。とすれば、祭神の一座に天香山命をあてることはできない」
という。

*天香山命について、略記は
  「天香山命は石凝姥命(イシコリトメ)とも申し上げ、天照皇大神天岩屋戸に籠もり坐せるとき、天香山の天波波迦木又竹を切り取り笛を造り吹き鳴らし、亦金を掘り八咫鏡を鋳造して皇祖に奉り、大御心を慰め奉りし神に坐して、音楽及び鉄工業の祖神にして、此の御鏡は伊勢神宮の御神体と仰ぎ奉るものなり」
という。

 しかし、記紀をはじめ諸史料に、アメノカゴヤマとイシコリトメを異名同神とするものはなく、古事記に
  「伊斯許理度売命(イシコリトメ)に科(オホ)せて鏡を作らしめ」(書紀も同じ)
とあるように、鏡を作ったのはイシコリトメであってアメノカゴヤマではない、

 そもそも、天岩屋戸条にアメノカゴヤマの名はみえす、そこに出てくる“天香山”は山の名であってアメノカゴヤマではない。
 また、アメノカゴヤマは、姓氏録にあるようにアマテラスの御子・アメノホアカリの御子(アマテラスの孫)であり、世代的にみて、これが天岩屋戸条に登場するのはおかしい。

 また、記紀他の古史料に、アメノカゴヤマが笛等音曲に係わったことを示唆するものはなく、その後裔子孫・笛吹連が音曲を職掌する遊部であったことから、その祖・アメノカゴヤマも音曲の祖とされたのであろう。
 (記紀にアメノカゴヤマの事績はなく、先代旧事本紀のみにアメノカゴヤマの別名を高倉下-タカクラジとし、タカクラジの事績が記されている)

*相殿神4座について、略記は
  「高皇産霊神・大日孁之尊・瓊瓊杵尊は皆皇祖の大神に坐し、伊古比都弊命は御食都神(ミケツ)にして所謂衣食住の神なり」
という。
 ホノニニギ・オオヒルメムチ・タカミムスヒはいずれも記紀皇統譜にいう皇室の祖神だが、これらが当社に祀られた由緒・時期等は不明。
 残るイコヒツベ命は、明治43年(1910)、明治政府の神社統廃合政策によって当社に合祀された為志神社の祭神で、食物を司る神という(別項・為志神社参照)

※社殿等
県道30号線・脇田交差点を西へ、道なりに約600,程進み、道が南に緩やかに屈曲する北側(右手)に、白木の大鳥居が立つ。 
 鳥居の左に大きな境内案内の絵図(下写真)が立っている

 境内は大きく4層にに別れ、大鳥居を入ったすぐ左の石段を登った上が2層目の広場で、広場右手(北側)の石垣上、広場から石垣に沿って“く”の字に折れた石段を登ったうえが境内。
 また、広場の左には古い大砲(日露戦争後明治42年政府から奉納された由緒あるもの)が置かれている。

 
葛木坐火雷神社・境内案内絵図
 
同・大鳥居
 
同・境内への石段

 石垣最上段が境内で、石段を登った3層目のすぐ前に拝殿(入母屋造・瓦葺)、その裏・4層目、祝詞舎を介した奥に本殿(一間社神明造・銅板葺)が、何れも南面して鎮座する。
 ただ、本殿周囲には樹木が多く、社殿全景は見えない。


同・拝殿 
 
同・本殿

◎末社
 2層目広場の西側、樹木におおわれた下に小祠3宇(末社)が東面して並ぶ。
 右(北)から
  ・空屋神社 ・浅間神社 ・森木神社
 いずれも春日造で、中央の浅間神社がやや大きい。

 1層目から2層目へ至る石段下の右手に小祠3宇(末社)が南面して並ぶ。
 右から
  ・春日神社 ・稲荷神社 ・熊野神社
 いすれも春日造で大きさは同じ。

 これら末社の祭神(特に、空屋神社・森木神社)および鎮座由緒・時期等は不明。
 なお、式内社調査報告には、上記6社の他に大三輪神社・都波神社・梅室神社の名を挙げているが、それらしき小祠は見えなかった。


2層目広場西の末社 
 
1層目石段下の末社

◎笛吹神社古墳

 本殿域の左奥、玉垣に囲まれた中に横穴式石室をもつ笛吹神社古墳(径20~25m程の円墳、6世記初頭頃と推定)があり、緩やかに登る羨道(センドウ)の先に石室(玄室)の入口が見える(周囲の樹木に阻まれて全体は実見不能)

 略記2には
  「境内ご本殿の傍らに棺槨を完備した円形墳があります。
 槨は租質の花崗岩を以て積み、玄室の中央に石棺を置く。
 棺は凝灰岩で蓋の突起が特に大である。
 横穴式石室は玄室の長さ5.95m、幅2.24m、羨道長さ5.1m、幅1.6m。
 又、神域である神山一帯には80基程の古墳が分布している」
とある。

 古墳の被葬者は不明だが、当地に関係する笛吹連一族の陵墓ではないかという。

玄室へ至る羨道
 
玄室入口

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