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深 溝 神 社
A:鹿嶋神社
奈良県香芝市下田西1丁目
祭神--武甕槌大神
B:貴船神社
奈良県北葛城郡上牧町上牧
祭神--罔象女命
                                                        2019.01.08参詣

 延喜式神名帳に、『大和国葛下郡 深溝神社』とある式内社だが、今 上記2社が論社となっている。
 しかし、近世の資料・神社覈録(1870)に『深溝は不可美曽と訓ずべし 祭神在所詳ならず』とある以外は当社についての記載なく、また当社に関するまとまった資料もなく、式内・深溝神社の由緒・祭神等は一切不明で、上記2社のいずれかを式内・深溝神社とする根拠はない。

 鹿嶋神社--近鉄大阪線・下田駅の北約100m、駅北のロータリーから前面道路を渡った角にみえる鎮守の森の中鎮座し、白塀に沿った小道を東へ行った左手に朱塗りの鳥居が立つ。
 貴船神社--JR和歌山線・志都美駅の東北約700m、駅西の道を北上して上中交差点を右折して東へ進んだ先に鎮座するが、集落内の道路が輻輳していて地図があっても到達しがたい(地元の人に伺って何とか到達できた)

※由緒
【鹿嶋神社】
 社頭の鳥井脇に立つ「鹿島神社結鎮座文書と渡御行事」との案内には
 「鹿島神社は、承安2年(1172・平安末期)3月、源義朝の家臣であった鎌田小次郎政光が常陸国(現茨城県)鹿島本宮の御分霊(武甕槌命)を勧請したのが始まりと伝えられています」
とあるが(結鎮座文書・ケツチンザモンジョとは、当社に伝わる宮座関係の記録)

 式内社調査報告(1982)他によれば、
 ・相模の武士・鎌田兵衛藤原政清は、平治の乱(1159)に破れた源義朝とともに東国へ逃れ、その途中、政清のの舅にあたる尾張国の長田庄司忠政の所にかくまわれた。
 ・しかし、恩賞に目がくらんだ忠政は義朝を風呂場で暗殺、政清以下の家臣もほとんどが殺されたが、政清の子・政光はかろうじて難を逃れ、常陸国鹿島神宮に辿り着いた。
 ・政光は、源氏の再興を念じて鹿島神宮に百日の参籠をなしたところ、満願の夜、夢に一老翁が現れ『庚子の年源氏栄え、汝の福西にあり』との託宣があったので喜んで西へと向かった。
 ・大和国葛下郡下田村に着いたとき、夕刻だったので土手の松の木の下で野宿し、翌朝起きて辺りを見回すと、この地の景色が鹿島のそれと極めて似ていたことから懐かしく思い、ここに小祠を建てて鹿嶋大明神を祀り、その地に住むこととし
 ・神社の地を“森の宮”と、自らの居所を鎌田と称した
という。

 源義朝が尾張の長田忠政によって風呂場で暗殺され、鎌田政清も殺されたことは史実らしいが、この時義朝に従っていたという4人の家臣のなかに政清の子・政光の名はなく、鹿嶋に逃れた政光が鹿嶋明神に源氏復興を祈願し云々との記述の信憑性は低い。


 これらによると、当社の創建は承安2年(1173)となるが、それは延喜式制定(927)より250年ほど後のことで、当社を式内・深溝神社とすることはできない。

 ただ、「結鎮座文書と渡御行事」とのネット資料によれば、
 ・(結鎮座文書にみえる)当社の別当寺(神宮寺)だった法楽寺(当社の東方・下田東4丁目にあり)の天治元年(1124・平安後期)祭礼記録の参列者の中に宮聖(神主)一人がみえることから、当社創建という承安2年を遡る48年前以前から古社があった可能性がある。
 ・当社が鎮座する“森の宮”との地名は、古く神が坐す聖なる場所として人の立ち入りを拒んできた場所を示す“杜”(モリ)に通じ、当社勧請以前から神聖視されていた樹叢であった可能性がある。
 ・当社の当初の鎮座地は下田の“宮中”・現下田西3丁目付近ともいわれ、そこは現在の今池親水公園(当社の西方・香芝市役所の東隣り)の辺りにあたり、池の南側に“鹿島前”との小字名が残っている。
として、
 「これらのことから、勧請に先行する古社があったとするなら、それを所在地不明とされる式内・深溝神社に当てる説が有力として注目される」
というが、承安2年以前に古社があったことを証する史料はなく、結鎮座文書を以て当社を式内社とするのは疑問。

 また志賀剛氏は、その著「式内社の研究」のなかで、
 ・鹿島神社は下田の西部にあって、鬱蒼たる森の広さは一町四方に及ぶ(今は半分以下となっている)
 ・下田は式社である加守・穴虫・畑浦へ各々半里程あって、式社分布の原則にも合う(こういう原則があるとは知らない)
 ・下田を東西に堺する鳥居川も葛下川の本流(鹿島社の東を南北に流れる2本の川か)も堀川で、深溝川といってよく、大和の川に多い堤防がこの地に無いのもこの故である
 ・以上によって、下田地方一帯は深淵(溝)郷とも称すべく、その西部にある鹿島神社は式内・深溝神社と断定して間違いないであろう
として、式内・深溝神社を鹿島神社に比定しているが(式内社調査報告)、これらは地形等からみた状況証拠であって確証となるものはなく、これを以て当鹿島神社を式内社とするのは疑問。


【貴船神社】
 境内に案内表示等なく由緒等不明だが、寺院神社大辞典には、
 「北上牧の旧集落北東の小丘陵上に鎮座。罔象女命を主神とし、相殿に天児屋根命・保食神・素盞鳴命・別雷神を祀る。
 延喜式神名帳葛下郡の深溝神社にあてる説もある。
 付近には智照寺谷・真言堂・堂ノ前などの小字が残り、神社と一体の智照寺と称する寺があった。しかし享保9年(1724)頃には南上牧の字柏手山に真言宗智照寺薬師堂の名がみえるので(堀内家文書)、当社近くから移転されたものと考えられる。
 柏手山には菱目大明神が遷座していたが、ここに新たに智照神社(五社明神ともいう)を創建、貴船神社を奥宮とし、寛政3年(1761)に石鳥居を貴船神社から智照神社に移したという」
とあるという(ネット資料)

 式内社調査報告には
 ・貴船神社は智照神社の元宮とされて、智照寺山にあり、智照神社はその名称にもかかわらず柏手山にあるのは、両社が以前は一社ではなかったかと思われる
とあり、上牧町史に、
 ・明治7年9月の記録によると、元禄年間前との口碑だけで、・・・両社分離の事由経緯に関しては不祥
 ・貴船神社は智照神社と分離する以前は深溝神社と呼ばれていたということは、北上牧住民において伝説・口碑となって現在も強く語り継がれている
とあり、町史編纂委員の言として、(貴船・智照両社の分離、その後の経緯等の記述に続いて)
 ・貴船神社は智照神社の単なる元宮(奥宮)ではなく、所在不明になっている延喜式神名帳の深溝神社であることは、最早疑いなしとの断定を敢えてする蓋然性を有するものではなかろうか
とある。

 いずれも貴船・智照両社の関係はわかるものの、貴船神社を式内・深溝神社とする根拠は不祥。

※祭神
【鹿嶋神社】
   武甕槌命(タケミカツチ)
 当社が常陸の鹿島神宮からの勧請であれば、祭神を武甕槌命とするのは当然で、式内・深溝神社としての祭神は不明。
 深溝神社の祭神は、その社名からみて水神ではないかと思われるが、神社覈録(1870・明治初年)は「祭神詳ならず」として祭神は不明としている。

【貴船神社】
  主祭神--罔象女命(ミズハノメ・水神)
  相殿神--天児屋根命(アメノコヤネ)・保食神(ウケモチ)・素盞鳴命(スサノオ)・別雷神(ワケイカヅチ)
 貴船神社との社名からみて、水神・罔象女命を祀るのに異論はなく、それは深溝神社のそれに通じるともいえる。
 相殿神4座の勧請由緒等は不明。

※社殿等
【鹿嶋神社】
 近鉄下田駅前ロータリーの先にみえる鬱蒼とした鎮守の森の中に鎮座し、森を囲う白壁に沿って右手の小道を東へ入った先に朱塗りの大鳥居が立つ。
 境内正面に入母屋造・瓦葺きの拝殿が南面して建ち、その奥に鎮座する本殿は春日造檜皮葺きというが、拝殿左右がガードされていて境内から本殿域は見えず詳細不明。

 
鹿嶋神社・鎮守の森
(白壁に沿って右に入った先に鳥居が立つ)
 
鹿嶋神社・鳥居
 
同・拝殿

【貴船神社】
 道路脇に鳥居が立ち、その傍らに手水舎があるが、境内に社務所なく、由緒・祭神等を記した案内等もない。
 鳥居を入って低い石段を上った上に切妻造・瓦葺の覆屋が建ち、拝殿に至る通路となっている。


貴船神社・社頭 

同・鳥居
 
同・通路覆屋正面

 通路覆屋突き当たりの低い石垣の上に切妻造・瓦葺きの拝殿が、その奥に神明造・銅板葺きらしい本殿が鎮座するが、本殿は周りの樹木等に阻まれてよく見えない。

 
同・通路覆屋と拝殿(右)
 
同・拝殿
 
同・本殿

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