[トップページへ戻る

天太玉命神社
奈良県橿原市忌部町一の宮
祭神--天太玉命・大宮売命・豊石窓命・櫛石窓命
                                                       2013.07.07参詣

 延喜式神名帳には、『大和国高市郡 太玉命神社四座 並名神大 月次新嘗』とあるが、今は“天”を冠して“天太玉命神社(アメノフトタマ)”と称している。

 近鉄橿原線・八木西口駅の西約1.6km。駅東側を南下、国道24号線の高架道路下を西へ、少し行った斜行する三叉路を右・国道166号線に入り、曾我川を渡ったすぐ、忌部簡易郵便局の反対側(北側)に一の鳥居が立つ。

※由緒
 古代ヤマト朝廷で、中臣氏(ナカトミ)とともに祭祀に携わった忌部氏(803年に齋部と改姓・いずれもインベと読む)が、その本貫の地・高市郡金橋村忌部(現鎮座地付近)の地で、その祖神を祀った神社とされるが、その創建年代等は不明。
 ただ、三代実録(901)・清和天皇貞観元年(859)正月27日条に、
  「大和国従五位下・・・太玉命神・・・従五位上を授く」
とあることから、9世紀以前から実在したことは確かといえる(これ以外に、当社への神階授与記録はない)

 当社の祭祀氏族・忌部氏とは、養老律令(757施行・奈良中期)の神祇令に
  ・祈年祭月次祭には、百官は神祇官に集まり、中臣が祝詞を奏し、忌部が幣帛を分けること(季冬条)
  ・践祚(即位)の日には、中臣が天神寿詞(アマツカミノヨゴト)を奏し、忌部は神璽(シンジ)の鏡・劔(タチ)を奉ること(践祚条)
との定めがあるように、古代ヤマト朝廷における宮中祭祀に際して、中臣氏とともに重要な役目を携わった氏族で、加えて、神殿・宮殿の造営、鏡・玉などの祭器製造を職掌としたという。

 記紀にいう天岩屋戸神話では、その遠祖・太玉命(フトタマ)が中臣の遠祖・天児屋根命(アメノコヤネ)とともに重要な役目を担ったとあり、天孫降臨に際して、天孫・ニニギ尊に従った五伴緒(イツトモノオ、5氏族)の一として天降ったという(下記)

 神代記以外の記録として、
 ・孝謙天皇・大化元年(645)7月14日条--忌部首(インベノオビト)子麻呂を美濃国に遣わし、神に供える弊(ミテグラ)を課せられた
 ・天武天皇9年(681)1月8日条--(壬申の乱での功により)忌部首首(コビト)に連(ムラジ)の姓を賜った
 ・持統天皇4年(690)春--(天皇即位に際し)忌部宿禰色夫知(シコブチ)が神璽の剣・鏡を奉った
 ・文武天皇・慶雲元年(704)11月8日条--従五位上・忌部宿禰子首(コオビト)を遣わして、幣帛と鳳凰文の鏡と鳥の巣模様のある鏡を伊勢大神宮に供えさせた
などがあり、飛鳥時代までは、中臣氏とともに重要な祭祀を担当していたが、奈良時代に入ると、中臣氏によって次第に祭祀から排除され衰退していったという。

 その後の経緯は不詳だが、嘉吉元年(1441)の奈良・興福寺官務牒疎(末派寺社疎記)に、
  「太玉神は同郡忌部に在り。供僧蓮光寺と号す。社司一人神人三人、祭る所は忌部連遠祖天太玉尊」
とあり、室町末期には興福寺の末になり、降って江戸中期初には、嘗て勢力を競っていた中臣氏の氏神を勧請して、春日神社と称していたという(日本の神々4)


※祭神
 当社祭神は、冒頭に記すように主祭神・太玉命以下、大宮売命(オオミヤノメ)・豊石窓命(トヨイワマト)・櫛石窓命(クシイワマト)を祀るが、古語拾遺(807・齊部広成撰・忌部氏系史書)によれば、大宮売命以下の3座は太玉命の御子神という。

【太玉命】(フトタマ)
 当社の主祭神・太玉命は、忌部氏の遠祖といわれ、その事績として記紀は次のように記している。
[天岩屋段]
 *古事記
  ・(スサノヲの乱行に恐れをなしたアマテラスが天岩屋に隠れたとき)思金命(オモヒカネ)が・・・天児屋根命(アメノコヤネ)・布刀玉命(フトタマ)を召して、香具山の雄鹿の肩の骨を抜いて、その骨を灼いて占わせ・・・
  ・(勾玉・八咫鏡・幣帛などを付けた榊を)フトタマ命が神聖な幣として捧げ持ち、アメノコヤネ命が祝詞を称え・・・
  ・(岩屋の前で神々が笑っているのを怪しんだアマテラスが顔を覗かせたとき)アメノコヤネ命とフトタマ命が、八咫鏡を差し出し・・・
  ・(鏡を見ようと身を乗り出したアマテラスが、アメノタジカラオによって岩屋より引き出されたとき)直ちに、フトタマ命が注連縄をアマテラスの後ろに引き渡して、「この縄から後ろへお戻りになってはいけません」と申し上げた。
 *書紀(本文)
  ・中臣氏の遠祖・アメノコヤネ命、忌部の遠祖・太玉命(フトタマ)は、天香山の榊を掘り、枝に勾玉・八咫鏡・幣を掛けて祈祷した
  ・(アマテラスが岩屋から外に出られたとき)中臣神や忌部神が、注連縄を引き渡して、「もう内へ戻らないで下さい」とお願いした

[天孫降臨段]
 *古事記
  ・(天孫・ニニギの降臨に併せて)アメノコヤネ命・フトタマ命・アメノウズメ命・イシコリトメ命・タマノオヤ命、併せて五伴緒(イツトモノオ)の神を加えて天降したまひき フトタマ命は忌部氏の祖なり
 *書紀(一書1)
  ・中臣氏の遠祖・アメノコヤネ命、忌部の遠祖・フトタマ命、猿女の遠祖・アメノウズメ、鏡作りの遠祖・イシコリトメ命、玉造の遠祖・タマノオヤ命 全部で五部(イツトモノオ)の神たちを配して,付き添わされた。

 記紀におけるアメノコヤネ命とフトタマ命の扱いは、どちらかといえばアメノコヤネが主でフトタマは従のようにとれるが、これは、記紀編纂時、アメノコヤネを遠祖とする中臣氏が藤原氏の隆盛に伴って宮廷祭祀を主導し、忌部氏(齋部氏)の地位が低下していたことを反映したものという。

 これに対して、忌部氏復権のために編纂された古語拾遺には、
[日神の石窟幽居段]
 ・(アマテラスが石窟にお隠れになったとき)茲に思兼神(オモヒカネ)、深く思い計りて曰く、太玉神をして諸部(モロトモノオ)の神を率いて、和幣を造らしむべし。仍りて、石凝姥神をして日の鏡を鋳しむ(以下、神々が祭祀に必要な品々を作ったと続く)
 ・(アマテラスが石窟を出て、神殿に移られた後)天児屋根命・太玉命を以て、日御綱(注連縄)を其の殿に廻らし、大宮売神をして御前に侍はし、豊磐間戸命・櫛磐間戸命をして殿戸を守らせた-是、皆太玉命の子なり。

[天祖の神勅段]
 ・天児屋根命・太玉命の神、天津神籬(アマツヒモロギ)を持ちて葦原中国に降り、吾が孫の為に斎き奉れ。・・・太玉命諸部の神を率いて、其の職(ツカサ)に仕へ奉ること、天上の儀(ノリ)の如くせよ。

 これらの記述からみて、フトタマ命はアメノコヤネに従った神というより、その時々に諸々の諸神を率いて事をおこなったとなるが、これは古語拾遺が、忌部氏の衰退を憂える齊部広成が、その復権を目途として上奏した書であることからみて当然であろう。

【大宮売命】(オオミヤノメ)
 記紀に、この女神の名はみえないが、古語拾遺・天岩屋段には
  「(天岩屋から出てきたアマテラスを新殿に遷し座させ)大宮売神をして(アマテラスの)御前に侍はしむ。[是、太玉命が子なり]」
とあり、また、同・神武天皇段には
  「皇天(アマツカミ)二柱の祖(アマテラス・タカミムスヒ)の詔(ミコトノリ)に従って、神籬(ヒモロギ)を建て神々を祀る。所謂高皇産霊(タカミムスヒ)・神産霊(カミムスヒ)・魂留産霊(タマツメムスヒ)・生産霊(イクムスヒ)・足産霊(タルムスヒ)大宮売神・事代主神(コトシロヌシ)・御膳神(ミケツカミ)--巳上、今御巫(ミカンナギ)の斎ひ奉れるなり」とある。
 ここでいう“今御巫の斎ひ・・・”とは、この八座の神々が宮中の神祇官西院にあって、御巫(巫女)等からの祭祀を受ける神々であることをさす。
 宮中に、記紀に登場しないオオミヤノメが祀られるのは、その出自が宮中祭祀に携わる忌部氏の遠祖・フトタマ命の御子ということからであろう。

 オオミヤノメの神格ははっきりしないが、延喜式・大殿祭祝詞(オオトノホカイノノリト)の後段には
  「大宮売命と申します神は、皇孫命と同じ御殿の内部の戸口の辺りに居て
  ・宮殿に出入りする人々の善悪を見分けて、その出入りの可否を判断し
  ・荒れている神があったときは、その心を和らげるように言葉をかけ
  ・皇孫命に奉祀する人々が、過ちを起こさないように注意し
  ・親王諸王諸官等が、勝手気まま振る舞うことをやめさせ、真心を以てお仕えられるように取り計らい
  ・もし、咎や過ちがあった場合には、これを正させ
  人々が平安のうちに皇孫命にご奉仕できますよう気を配って下さいますので、その恩恵に報いるために、御名を称えてお祀り申し上げます」(大意)
とあり、宮殿に出入りする人々や荒ぶる神々を和らげて、宮殿内の平安をもたらしてくれる神という(一般に、皇孫の御前に侍って、君と臣との間を取り持つ神というが、祝詞にいう神格と同意ともいえる)
 因みに大殿祭祝詞とは、元は宮殿新造の際に、それを寿ぎ宮殿の平安長久を願って奏上されたものだが、後には重大な儀式がおこなわれる折にも、儀式がおこなわれる宮殿を鎮めるために奏上されたという(以上、延喜式祝詞教本・1959)

 なお、資料の中には、オオミヤメ命はウメノウズメ命の別名とするものがあるが、これは根拠のない俗説であって、両神を結ぶものは何一つない。

【豊石窓命・櫛石窓命】(トヨイワマト・クシイワマト)
 この両神は一対の神で、門の神という。

 古事記・天孫降臨段には、天孫・ニニギに従って天下った神(フトタマ命ら五伴緒の神とは別)のなかに
  「天石戸別神(アメノイワトワケ)  亦の名は櫛石窓神と謂い、亦の名は豊石窓神と謂う。この神は御門(ミカド)の神なり」
とあり、アメノイワトワケ・トヨイワマト・クシイワマトの3神は異名同神という。
  (アメノイワトワケ--天孫降臨に際してニニギに従って降臨した神で、門の神という)

 これに対して、古語拾遺・天岩屋段には
  「(アマテラスの新殿を造ったとき)豊磐間戸命・櫛磐間戸命の二柱の神をして、殿門を守衛らしむ [是 太玉命が子也]」
として、別神としている(天石戸別神の名はない)
 また、延喜式神名帳には、
  「神祇官西院坐御門巫祭神八座
    櫛石窓神 豊石窓神 四面門各一座(計八座)
とあり、ここでも別神としている。

 この両神は、宮殿等の門を護る神で、、延喜式の御門祭祝詞(ミカドノマツリノノリト)には
  「クシイワマト・トヨイワマトと御名を申し上げるのは、大宮の四面の御門に呪力のある盤石のように塞ぎ居られて、
   ・天のマガツヒという邪神が大宮に侵入しようとするのを、待ち受けて防ぎ止め、追っ払って近寄せず、言い退けられて、
   ・朝には門を開け、夕には門を閉じて、大宮に出入りする人々の名を問い糺され
  大宮が平安であるように、人々を皇孫命に仕えさせて下さるので、念を入れて御名を称えてお祀りする次第です」(大意)
とあり、宮殿の四方にある門に坐して、出入りする人々や神々を質して宮殿の平安を護るという。

 なお、この両神を同一神とみて、これを天手力男神(アメノタジカラオ)の別称とする資料が散見される。
 タジカラオが天岩屋段で天岩戸を開けてアマテラスを引き出したことから、門に関係ありとしてトヨイワマトと同一神とみたのだろうが、トヨイワマトはアマテラスが岩屋が出た後の神殿守護のために登場する神であって、別々の神とみるべきであろう。

 これらからみると、当社祭神は、忌部氏の始祖・フトタマ命を主祭神に、古後拾遺にいう御子神3座を祀ったもので、忌部氏が奉斎する神社の祭神として順当といえる。

 因みに、当社祭神を上記4座としたのは、元禄6年(1695)に当社を参詣した松下見林が、その参詣記・太玉命社記に、
  「余高市郡太玉命神社を訪ねし時、・・・荊棘の中に二小社有り。之を問えば春日神と云う。之を沈思するに是太玉神なり。俗に謂う春日神は誤り也。・・・所謂高市郡太玉命神は正しく是也。」
として、その祭神を天太玉命・大宮売命・豊磐間戸命・櫛磐間戸命としたことによるという。


 一方、和州五郡神社大略注解(略称:五郡神社記・1446、室町初期)には、
  「忌部氏記録に曰 天太玉命神社四座 第一天太玉命、第二大宮乃売命、第三忌部祖太玉命、第四天比乃理咩命也
  愚僕、当社に参詣再拝して之を見るに 第一と第二は合殿、博風造両扉有也、第三と第四は合殿、同前也、各南向、東方但し西向に一座有り、所謂天津石門別神社也
 帳に云う 天津石門別神社一座 在所向上」
とあり、現在の祭神とは第三座・第四座の神名が異なっている。

 第三座の忌部岨太玉命と第一座の天太玉命とは、同じフトタマを名乗ることから紛らわしいが、式内社調査報告は、
  「太玉の語は大玉串を神々に捧げる意味で、忌部氏の家職であるから、忌部氏の後裔はみな太玉の尊称を得たものである」
とあり、忌部祖太玉命とはフトタマ命の孫・天富命(アメノトミ・古後拾遺に神武天皇のために橿原に宮殿を建てたとある)を指すという。
 第四座の天比乃理咩命(アメノヒリノメ)とは、フトタマ命の后神というが(新撰姓氏録考証・1900)、詳細不詳。

 この4座は、フトタマの命の后と御子及び孫ということで一応のまとまりはあるが、現在の祭神に比べて絆は弱い。ただ、現祭神のトヨイワマド・クシイワマドを異名同神とみれば一座少なくなり、この4座が浮上してくることになる。

※社殿等
 道路脇の一の鳥居を入り参道を進むと、二の鳥居が立ち境内へ入る。
 境内正面に拝殿(切妻造割拝殿・瓦葺)、その奥、正面を玉垣、三面を土塀で囲まれた中に本殿、その左右に境内社2祠が、いずれも南面して鎮座する。
 ただ、土塀が高く、拝殿正面の格子の間から覗き見するだけで、本殿域全体は見えない。

 本殿は、正面に千鳥破風を有する流造・銅板葺。社殿正面には四つの扉が付き、4座一宇として祀られている。

 本殿の左右に小祠(春日造・銅板葺)二宇が鎮座する。付近に案内はないが、資料(式内社調査報告)によれば、左:春日社(天児屋根命、江戸時代春日神社と称していた名残か)、右:玉依姫社(玉依姫)で、室町以降に祀られたものであろうという。

 境内左手、玉垣に囲まれた小区画に小祠(春日造・トタン葺)一宇が東面して建つ。資料では岡本天王社というが表示なく、天王と称することから防疫神・牛頭天王を祀った祠かと思われるが、詳細は不明。

 
太玉命神社・一の鳥居
 
同・二の鳥居
 
同・拝殿

同・本殿(左右の小祠は境内社) 
 
同・末社(岡本天王社か)

トップページへ戻る