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大兵主神社
付−−相撲神社
奈良県桜井市穴師
祭神−−御食津神・天鈿女命・若御魂神
                                                             2010.11.27参詣

 JR桜井線・巻向駅の東方約1.7kmの巻向山山麓に鎮座する古社で、延喜式神名帳に記す
 「大和国城上郡 穴師坐兵主神社(アナシニマスヒョウズ) 名神大 月次相嘗新嘗」(以下、兵主社or上社という)
 「大和国城上郡 穴師坐大兵主神社(アナシニマスダイヒョウズ)(以下、大兵主社or下社という)
 「大和国城上郡 巻向坐若御魂神社(マキムクニマスワカミタマ) 大 月次相嘗新嘗」(以下、巻向社という)
の3社を合祀した神社で、今、大兵主神社と称している。

 JR桜井線・巻向駅の東約1.3kmの巻向山西南山麓に鎮座する。
 巻向駅東側の道路を北へ少し進むと右側角に鳥居があり、傍らに“正一位穴師大明神”との石柱が立つ。旧大兵主社(下社)に係わる鳥居と思われるが不詳。何らかの祭祀施設があったようだが今は壊れた石材が積まれているだけ。
 この角を東へ、駅近傍の住宅地を抜け、家屋が点在する田畑の中を道なりに進むと、右側に相撲神社(鳥居と小祠のみ−後述)があり、横に当社の大鳥居が立ち、参道がはじまる。
 なお当社までの間、道沿いに“垂仁天皇纏向珠城宮跡”・“景行天皇纏向日代宮跡”(いずれも伝承地)・珠城古墳群(前方後円墳3基)などが点在する。

穴師大明神の鳥居
穴師大明神の鳥居
大兵主神社/二の鳥居
大兵主社・大鳥居
垂仁天皇珠城宮跡の石碑
垂仁天皇纏向珠城宮跡
景行天皇日代宮跡の石碑
景行天皇纏向日代宮跡
景行天皇日代宮跡/小祠
同・小祠

※創建由緒
 当社参詣の栞(1967)によれば、
 「元要記(平安時代)及び社記によると、崇神天皇60年、纏向穴師山に、皇女倭姫命が帝の御膳の守護神として、穴師兵主明神を祀られたとあるに創(ハジマ)るが、これが兵主神社の創建を伝える最も古い年記である」
とある(穴師坐兵主神社明細帳によれば“垂仁2年”という)
 崇神60年云々は後世つくられた伝承であって(明神号は神仏習合後の呼称)、ヤマトヒメ命はアマテラスの伊勢遷座には関係するものの兵主神には関係しない(また崇神紀60年には神祀りに関する記事はない)。何らかの伝承があったのかもしれないが、崇神紀7年条に、“(アマテラス・ヤマトオオクニタマの祭祀とは)別に八十万の群神を祀った。よって天つ社・国つ社・神地(カムトコロ)・神戸(カンベ)をきめた。ここで疫病が収まり、云々”とあることから、当社もその中に含まれるとして崇神朝まで溯らせたのかもしれない。

 当社にかかわる古史料として、正倉院文書(大倭国正税帳か、奈良時代中期)
  「天平2年(730)、神戸の租稲1,436束をもって、神祭・神嘗酒料に充てた」
とあり(式内社調査報告・1982)、奈良時代あるいはそれ以前の創建と思われる。
 しかし、
 ・新抄格勅符抄(平安時代)
  「大同2年(806)、穴師神に大和・和泉・播磨の地で52戸を神封に充てた」
とあるが、穴師神であって兵主神しは記していないこと、
 ・三代実録(901)・貞観元年(859)正月27日条に、
  「京畿七道諸神の階を進め新たに叙す。惣て267社。・・・従五位下勲八等穴師兵主神を正五位上・・・」
とあることから、古くは穴師神社であって、弘仁〜天安年間(810--859・平安前期)に穴師坐兵主神社になったともいう(日本の神々4所載・穴師神社・200)。

 今は式内3社が合祀されているが、合祀の経緯について、穴師神社由来書(成立期不明・室町末期以降か)
 「穴師大明神の儀、往古は巻向上下之社との由、兵主御神と称し奉り候
  人王百三代嘉吉年中応仁の乱に国中騒動、記録神宝等迄焼失仕り候。而今穴師社は下之社に御座候。上之宮御神体を相殿に祀る故に本社御殿三社なり。内一社は巻向社なり」
とあるように、巻向山(穴師山・H=567m)中の斎槻岳(弓月岳・ユヅキタケ)にあった上社・穴師坐兵主神社が、応仁の乱(1467--77)により焼失したため、そのご神体を下社・穴師坐大兵主神社に合祀したもので、山宮と里宮の関係にあった上社と下社とが合体したといえる。

 また巻向坐若御魂神社は、創建時期・由緒など不明だが、もともと巻向山の都谷の地(所在地不明、当社の南を流れる穴師川を約2km強溯った都谷の北方の山中というが、異論もある)にあったといわれ、これも、応仁の乱などの争乱で荒廃したので、穴師上社と同じ頃に下社脇に遷したという。

 穴師坐兵主神社の旧社地は、斎槻岳山頂から南南東に少し下がったところある41×48m四方の台地と推測され、この地は箸墓古墳の中心線上に当たり、斎槻岳頂上と穴師上社跡・穴師下社・箸墓後円部中心・箸墓前方部中心が一直線に並んでいる、という。
 土地の人は、この台地を“ゲシノオオダイラ”と呼んでいるが、ゲシノオオダイラとは、おそらく“夏至の大平”で、古代の人々は、箸墓から見て、朝日が斎槻岳山頂から昇る日(旧暦5月上旬)を夏至として、稲の無事生育を祈る農耕祭祀をおこなったのではないかという(暦での夏至の日の出は8度北へ寄っているが、播種時期を知るには、これで充分だったろうという)(日本の神々4所載・穴師神社・2000、大和の原像・1980)

※祭神
 今の祭神は、上記3柱となっているが、大倭神社注進状(1167・平安末期)・裏書によれば、
 上社 社伝云 上社は御食津神(ミケツ)也 神体日矛
 下社 社伝云 下社天鈿女命(アメノウズメ)也 神体は鈴之矛也 両社共神体を矛と為す 故に兵主神と云う 
           亦天鈿女命 始めて笛を造り之を吹く 其神鎮座之地 仍て穴師と云う
とあり、参詣の栞には、これに追記して次のように記している。
 ・穴師坐兵主神社
   「更に大倭本紀によると、天照大神の始めて天降りし時(“天孫降臨の時”の誤記か)、護斎鏡三面の内の一面の鏡並鈴子を御食津神と称え奉りて、天皇の朝夕の御食、夜の護り・日の護りと斉ひ奉るのがこの大神である。要するに鏡に鈴をつけたいわゆる日矛を以て、御食津神の霊代としている。この神は俗に蟻通宮(アリトオシノミヤ)ともいい、智慧の神として崇敬が多い」

 御食津神は、“ミ・尊称+ケ・食物+ツ・の+神”すなわち食物の神・穀神を指す一般的神名で、トヨウケヒメ・オオゲツヒメ・ウカノミタマ・ウケモチ神などを集約した神名ともいえる。
 天皇を守護する八神の一座(食物の神)として宮中八神殿に祀られることから、当社でも、天皇の守護神として祀られたと思われるが、その御霊代が日矛というのは解せない。兵主神がもつ武神的神格が混入しているとみえる。

 ・穴師坐大兵主神社
   「大兵主神社は武の神であるので兵主神といったという説は、旧記に『垂仁帝27年、穴師社へ神弊として兵器を奉り給ふ』とあるによったと思われる。諸説はあるが、信仰の内容からみると、平安朝以来祈雨のような農業信仰を持っているので、武神よりも食饌(ミケ)を司る農業神・・・出雲系の神たる性格も強い」

 ここでいう垂仁帝27年云々とは、書紀・垂仁27年秋8月7日条にいう
 「神官に命じて、武器を神々に供えることの可否を占わせたら、吉とでた。そこで弓矢と太刀を諸々の神社に奉納した。・・・兵器を以て神祇を祀るのは、この時に始まった」
との伝承を承けたものだろうが、“諸々の神社”とあるように当社のみへの兵器奉納ではない。
 ただ、兵主神は武神的神格が強いので、当社も兵器奉納をうけた諸々の神社の一社であるのは確かであろう。出雲系の神とは、何を意味するのか不詳。

 なお上記の大倭神社注進状は、平安末期・仁安2年(1167)に大倭神社から国司へ提出した書付とされるが、室町末あるいは江戸中期の宝永年間(1704--11)に書かれた偽書との説もある。しかし偽書とはいえ、このような記述があることをみると、少なくとも江戸時代中期には、上社はミケツカミを下社はアメノウズメを祀るとされていたとみられる、という(日本の神々4・2000)

 ・巻向坐若御魂神社
   「祭神は若御魂(ワカミタマ)すなわち稚産霊(ワクムスヒ)であって、上社の御食津神(食物の神)の父神である」

 ワクムスヒは、火の神・カグツチを産んで病んだイザナミの尿から生まれた神で、この神の子に食物の神・トヨウケヒメがあること(古事記)から、同じ食物の神であるミケツカミの父神とするのであろう。なお、若(ワカ)・稚(ワク・ワカ)とは、若々しい生命力を意味する雅称で、産霊(ムスヒ)は生命を生み出し育てる霊力をいう。

 当社本来の祭神は日矛をご神体とすることからみると兵主神と思われ、それをミケツ神あるいはアメノウズメとするのは解せないが、
 「穴師兵主神の前身は素朴な山の神であって、山の神は日の神・水の神・田の神(農作・穀物の神)でもあったところに、砂鉄が発見されて、出雲系・帰化人系の鍛冶部族が住むようになって、武器神・軍神としての性格が付加された」(大意・土橋寛)
とする見方がある。

 わが国で広く知られる民俗信仰では、山の神は春になると里に下り、田の神となって稲の生育を見守り、秋の収穫を見届けて山に帰るという。山の神は水の神であり田の神・穀物の神でもあるわけで、上社の祭神を穀神・食の神であるミケツ神とするのは、その本姿が山の神(穴師神の前身)に通じるからであって、下社の祭神は、春に下りてくる山の神を迎えて御子(豊饒)を産む巫女・神妻といえる。しかし、これをアメノウズメとする必然性は薄い。天の岩屋前で矛を持って舞ったためか。
 4月8日におこなわれる春の大祭は、斎槻岳から下りてくる山の神を迎え、その年の豊饒を祈願する祭典といえる。

◎穴師(アナシ)
 当社社名の“穴師”とは地名を指すが、本来のアナシ(穴師・穴磯)とは、穴を掘って鉄鉱石や砂鉄を採取する部族を指す呼称といわれ、そういう穴師部族が当地附近に居たことから、“穴師”の地名が付いたという。
 当社附近では、三輪山周辺の弥生遺跡から製鉄用のタタラにかかわる遺物が出土し、巻向川上流部や当社の辺りにも何ケ所かの廃坑が残っているなど、鍛冶を業とする穴師部族の居住を示唆するという。

 この穴師と兵主神との関連について、穴師(穴磯)の徒が、鋭利な鉄製兵器などの製造に従事したことから(垂仁紀39年条によれば、イニシキ皇子が石上神社に納める太刀一千口を造ったとき、これにかかわった品部−トモノミヤツコ−の中に“大穴磯部”−オオアナシベ−の名がある)、鉄の霊すなわち武器・利器の霊を守護神として奉斎し、後に、同じ兵器の神である渡来神・兵主神と称するようになったのではないか、という。

 これに対して、アナシを“風の吹く処”とみる説があり、柳田国男は
 「アナジ・アナセが西北(乾・戌亥)の風、東南(巽・辰巳)の風を指す。・・・大和・巻向の穴師山(巻向山)は、しばしば荒い風を吹起こす山である故に、之を穴師の山と呼ぶようになったもので、もと風の神を祀った山らしい」(大意)
といい、穴師神を風神とみている。
 農民にとって、稔りの頃の強風は迷惑な風だが、鍛冶師にとって、タタラ炉に吹き込む一定方向からの強風は有難い風であるといえる。当地の穴師族の人々は、この風をタタラ鍛冶に利用し、兵器の神である兵主神を風の神ともして祀っていたと思われる。(以上、穴師神社・1989)

◎兵主神 (ヒョウズ)
 上記大倭注進状には、“両社ともご神体を矛とするから、兵主神という”とある。

 兵主神の初見は、三代実録(901)・貞観元年(859)正月条の「穴師兵主神」「壱岐嶋兵主神」といわれ、9世紀までには伝来していたらしく、延喜式神名帳(927)によれば、兵主神社は三河国(愛知県東部)から壱岐国(長崎県)といった広い範囲に19社がある(神社と古代民間祭祀所載・兵主神社・1989、以下同じ)

 兵主とは、漢の高祖が兵を挙げたとき(BC200頃)、蚩尤(シユウ)を祀って勝利を祈ったことに由来するというが、中国の史記・封禅書に、泰山における封禅の儀を終えた秦始皇帝が
 「そのまま東へ進んで海岸地帯を旅行し、道すがら名山・大川および八神を礼をもって祀った。・・・八神の第一は天主といって天斉で祀る。第二は地主といって泰山・梁父山で祀る。第三は兵主といって蚩尤(の冢・墓−山東省・斉国の西境にあったという)でお祀りする。(以下、陰主・陽主・月主・日主・四時主と続く)(大意)
とある伝説上の神で、特に山東地方の斉国(BC386--221・戦国時代)では篤く崇敬されたという。
 始皇帝が、兵主を蚩尤の墓に祀ったというように、蚩尤は兵主の別名とされる。

 その蚩尤について、貝塚茂樹氏(1904--87・東洋史学者)
 「蚩尤は、獣の身体で人の言葉を解するという半獣半人の怪物兄弟(81人とも72人ともいう)の一人で、秦漢以後の伝説によれば、両鬢は逆立って剣の切先のように鋭く、頭の真ん中には角が生えていて、これで頭突きするのが得意であり、角力では誰も相手になる者はなかった。
 この怪物兄弟の食べ物は変わっていて、世の常の人が食する穀物・野菜・魚肉などではなく、ただ砂と石、ある説によると鉄石を食っていたという。
 砂を食物としていたとは、砂鉄を材料として兵器を鍛造することを擬人化したもので、そのような職業に従事していた部族を指すものであろう。
 中国古代の系譜集である“世本”のなかには『蚩尤が兵つまり武器を創造した』とあり、新鋭の武器を製造し、その武力によって中国を制覇したともいわれる。
 秦漢の頃には、物凄い形相をした蚩尤の画像が、五月の節句にかける鍾馗の掛物のように民間に普及し、蚩尤は鬼を退治した鍾馗と同様、悪魔を追い払う守護神と観念されていた。
 さらに、風を支配してきた蚩尤は、フイゴ技術によって青銅兵器鋳造をおこなった部族の代表者、フイゴ技術の発明者であり、古代において神秘的なフイゴの用法、青銅器製造の秘密を知っている巫師の祖先と仰がれる人物であった」(大意)
という。

 これらからみると、兵主神(蚩尤)の本姿は兵器の神・兵器製造の神であり、兵器製造工人にとっては鍛冶の神でもある。このことから、鍛冶工人らが奉斎していた在地の穴師神と新来の鍛冶神である兵主神とが習合したのが当社の祭神ともいえる。

 上記のように、式内社のなかで兵主を名乗る神社は中部地方以西9ヶ国に19社があり(式内社以外でも20数社を数える)、そのうち但馬国に7社と集中している。
 この但馬国に係わって、書紀・垂仁紀3年条に、
 「新羅の王子・天日槍(アメノヒホコ)は、初め播磨国にいたが、天皇の許しを得て、近江国・若狭国を経て但馬国に至り居所を定めた」(大意)
とあり、天日槍の根拠地は但馬国とされ、兵主神祭祀の中心地と重なる。
 その天日槍に象徴される渡来人が鍛冶の技を伝えたとされることから、この天日槍を祖とする渡来系氏族が祀っていたのが、兵器製造ひいては鍛冶の神である兵主神ではなかったかと推測されている。

 因みに、当社の南を流れる巻向川上流の山中に白木という集落があったが、この地に、中世に天日槍の後裔・白木武蔵が築いたシラキ城に依ったとの伝承があることから、白木は新羅→白城→白木と転じたものともいわれ、また、斎槻岳(弓月岳)が秦氏の祖神・弓月君に係わると推測されていること、大和の鏡作郷周辺(鏡作の鍛冶工人が居住したという)にも、天日槍に係わる神社・地名・伝承があることともあわせて、当地附近には新羅からの渡来人の影が濃いという。

 この他、鍛冶には一定の方角から吹く風や大量の水が必要とすることから、風・水を支配する風の神・水の神といった神格も併せもっている。


※社殿等

 角力神社横の大鳥居を入って参道を進んだ先、境内北寄りの石積基壇上に唐風破風を有する拝殿(入母屋造)が、その奥、石積基壇上に透塀に囲まれて唐風向拝をもつ3棟の本殿(流造)が、西面して並ぶ。
 中央本殿−−兵主社
 右本殿  −−若御魂社
 左本殿  −−大兵主社

大兵主神社/鳥居
大兵主神社・鳥居
大兵主神社/拝殿
同・拝殿
大兵主神社/本殿域
同・本殿域
大兵主神社/本殿
同・本殿

◎末社
 拝殿右に続くブロック塀内に稲田姫社(クシイナダヒメ)・須勢理姫社(スセリヒメ)の2社が、その横の山裾に水神社(ミズハノメ)・橘社(不詳)・稲荷社の3社が並び、その前に須佐之男社(スサノヲ)が建つ。
 拝殿左に八王子社(不詳)が、その奥に祖霊社(氏子の祖霊)が、境内西側の疎林のなかに天王社(不詳)が、また、境内入口の手水舎の横に祓戸社(オオマガツヒ・オオナオビ・カムナオビ)、その横に社名不明の小祠があるが、いずれの小祠も、だいぶ古くなっている。

大兵主神社・末社/稲田姫社
末社・稲田姫社
大兵主社・末社/橘社
末社・橘社
大兵主社・末社/須佐之男社
末社・須佐之男社
大兵主社・末社/八王子社
末社・八王子社


【相撲神社】
 
祭神−−野見宿禰

 JR桜井線・巻向駅の東約1.3kmにある小社。駅から大兵主神社への道が穴師の地に入った右側(南側)に鳥居が、傍らに“祭神野見宿禰云々”と刻した石標(摩耗して判読困難)が立つ。境内といっても何もなく、樹木が雑然と生えた疎林のなかに、土俵跡といわれる白い区画が目を引く程度。
 境内左手・やや小高い処の石積基壇の上に春日造の社殿(小祠)が建つが、雑木林に囲まれていて注意しないと見過ごす。今、大兵主神社の末社とされているようだが、境内・社殿ともに荒れている。

 鳥居の右に立つ“カタヤケシ由緒”との案内には、
 「今を去る上古約二千年前垂仁天皇7年7月乙亥(7日)、大兵主神社神域内小字カタヤケシにおいて、野見宿禰(ノミノスクネ)・当麻蹴速(タイマノケハヤ)による日本最初の勅命天覧相撲が催された。これが世界に誇るわが国国技相撲の燭光である」
とある。カタヤケシとは地名らしいが、その意味は不明。

 これは、垂仁紀7年条にある伝承、
 「当麻邑に居た当麻蹴速という力持ちが、力比べして吾に勝つ人はいないだろうと自慢していた。これを聞いた天皇が、出雲から野見宿禰を呼び寄せて闘わせたところ、野見宿禰が当麻蹴速を踏みくじいて殺してしまった。・・・」(大意)
をうけたもので、大兵主神社・参詣の栞には、
 「最初の相撲がおこなわれた場所は、景行帝の皇居趾たる日代宮より少し上、大兵主神社参道の南側・カタヤケシという土地で、現在相撲神社のある所である」
とある。垂仁紀の上記伝承には相撲催行の場所を示唆する記述はなく、また最初の相撲が当地で行われたとする史料もないが、兵主神が相撲の神といわれることから、兵主神を祀る当地を相撲発祥の地としたのかもしれない。
 (日本事物原始・1885に「黄帝時蚩尤に角有り、人に觝るに角を以てす。而後人角觝之戯という」とあり、角觝とは相撲の異名という。ここから頭突きの技を得意とした蚩尤=兵主神は相撲の神ともされる)

 史実としての相撲の初見は、
 皇極天皇元年(642)、来朝した百済の使者を饗応するため、力の強い者を集めて、使者の前で相撲をとらせた(日本書紀)
との記事で、天覧相撲については
 聖武天皇が天平6年(734)秋7月7日、相撲の技をご覧になった(続日本紀)
とあるのが初見という。

 相撲は単に力比べによって勝敗を競うのはなく、その年の稔りの豊凶を占う神事(年占・トシウラ)であって、古く、朝廷でおこなわれた相撲節会(7月7日)では、諸国から集めた東西各20名の力士によって、その年の稔りの豊凶を占う相撲がおこなわれたという。
 相撲の開催時期に関連して、朝鮮では5月5日に、「蚩尤戯(=角觝戯=相撲)の神は銅の頭・鉄の額・赤い口・赤い舌をしている。よって名を聞いただけでも四百四病がただちに消え失せなければ、律によって加罰する」と記した赤符を、門口に貼って災厄を払うという。
 また中国・抱朴子には「5月5日に赤霊符を胸に着ける」とあり、荊楚歳時記(六朝時代・5・6世紀頃か)には、「5月5日に相撲をとる」とあるという。
 垂仁紀には7月7日となっているが、本来は魔除けの行事として夏至におこなわれていたのが、夏至節(旧暦5月前半)にある5月5日に移行したとされ、そこから、穴師坐兵主神社の旧蹟を“夏至の大平”というのは、穴師→蚩尤→相撲→5月5日と無関係ではなかろう、という(日本の神々4・2000)

 昭和37年(1962)10月6日、時の相撲協会理事長(元横綱二葉山)を祭主に、2横綱(大鵬・柏戸)・5大関以下全力士が参加した相撲発祥地顕彰大祭が、当地で行われている。

相撲神社/鳥居
相撲神社・鳥居
相撲神社/社殿
同・社殿
相撲神社/境内
同・境内
(中央・白い処が土俵跡)

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