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五百立神社
奈良市雑司町(東大寺大仏殿南西前)
祭神--不詳
                                                            2014.01.12参詣

 延喜式神名帳にいう、『大和国添上郡 五百立神社』に比定されているが、確証はない。社名は“イホタチ”又は“イホタテ”と読む。

 東大寺南大門から大仏殿に向かう参道左側にある低い丘(五百立山)の東麓、勧学院(真言院)の北から左へ入る緩やかな坂道(石畳)を100mほど進んだ左手にある朱塗りの小さな祠が当社。

 入口右手に
  「五百立神社・鉄道供養塔 参道」
と自然石に刻した石碑が立つが、目立つものではない。

 背後(西側)は五百立山と称する低い雑木に覆われた丘で、頂上に十三重塔(鉄道職員殉職者供養塔)が立つ。

 
    五百立山(北側より)

※由緒
 簡単な朱塗りの板壁の右側に掲げる案内によれば、
  「当社は五百余所社とか五百立神社と称せらる。
 五百余所社の社名は天喜4年(1056)5月の東大寺文書に二十五所社・気比気多神社などと共にその名が見える。
 中世の絵巻物などには、大仏殿創建に従事した五百人の工匠が、工事が完成すると五百羅漢になって天空高く飛び立ち、姿を消したとの説話がみえる。本来の祭神は定かでない。
 大仏殿江戸期再建の祭にも、五百余所社は大工・小工の崇敬を集めたようで、番匠社とも呼ばれ、宝永6年(1709)3月の大仏殿落慶法要を前にした正月6日に、大工頭領堀内筑前守(若狭)が新建寄進している」
とある。

 管見した当社に関する古資料は、延喜式神名帳を除けば、江戸中期の地誌・大和志(1734)のみで、そこには
  「五百立神社 南都東大寺真言院北に在り。今、五百余社と称す」
とある。

 この五百余社とは、古く、手向山八幡宮の末社であった五百余所社(読み不明)を指し(ただし、ネットで見た八幡宮末社にこの名はみえない)、これを式内・五百立神社に比定する説が有力という(式内社調査報告・1982、以下同じ)

 この五百余所社については、
 ・東大寺起請案(1056・平安中期)--八幡大菩薩・気比・気多の諸神社と共に五百余所社とあり
 ・東大寺要録(1106・平安後期)--社名の記載あり
 ・東大寺続要録(鎌倉時代)
     --正倉院宝物盗難事件(1230・鎌倉前期)に際し、犯人が鏡8面を一時大仏殿前の五百余所社に隠匿したとの記載あり
 ・東大寺修理新造等注文(1289)--弘安9年(1286)頃に拝殿一宇を修理したとある
などがあり、平安時代からの古社であることは確かといえる。

 その後、前後2回にわたる大仏殿の焼失(1180・南都焼討-平重衡、1567・東大寺大仏殿の戦い-松永久秀対三好三人衆)のときに当社も類焼したようで、宝永6年(1709・江戸中期)の大仏殿再興に際して、大工頭領堀内筑前守により再興寄進されたという。

 明治に入っての神社報告書(明治7年・1874)
  奈良県第一大区一小区大和国添上郡奈良
    鎮座  東大寺ノ内真言院後山原
  五百立神社 式内
    祭神 天冨命
    由緒 不分明 神官別段無之 往古ヨリ手向山神社付属
とあるといわれ、この時点で当社を以て式内・五百立神社に比定していたらしい。

 また、大正4年(1915)には、手向山神社社掌上司延実などから、当社他7社の社格変更願が提出され、(手向山八幡宮末社から)村社に変更されたという(今、八幡宮末社に当社の名が見えないのは、このためであろう)

 当社鎮座地について、大和志は東大寺真言院の北とあり、その位置は、今、五百立山上の供養塔が立っている地だったといわれ、昭和5年(1930-供養塔案内)、東大寺によって、その地に鉄道殉職者供養のための石造十三重塔が建立されたため、丘の東麓に移築されたという。
 今の当社は小さな祠が参道の脇にひっそりと鎮座しているが、その脇を通って登った先の供養塔が立つ平地はけっこう広く、嘗ての当社は、それ相応の社殿を有していたと思われる。

 なお、当社の別名を“番匠社”(バンショウ)とする資料が散見されるが、これは、東大寺大仏縁起(1536・戦国時代)にいう
  「天平年の大仏殿修造の時、五百余人の番匠(造営に従事した工人)による修造が終わった後、五百羅漢が現れ南方に飛び去った。仍って社を造り五百余所明神と曰」(漢文意訳)
との伝承(案内はこれを承けたもの)、及び東大寺縁起絵図(鎌倉末~南北朝頃)にある
  「当寺造営の五百人の木匠は五百人の羅漢なり。後に神明として、南中門の前に社を立て、五百余所と云う」
によるもので(大仏縁起絵巻-1536-にも同意文ありという)、五百立という社名から附会捏造された伝承でしかないという。


※祭神
 案内がいうように、祭神名は不明だが、式内社調査報告によれば次の説があるという。
 ・建五百建命(タケイホタツ)--神名帳考証(1733又は1813)・神社覈録(1870)
    神武天皇の皇子・神八井耳命(カムヤイミミ)の孫で、先代旧事本紀(9世記前半・物部氏系史書)に崇神朝に科野国造(長野県)に任じられたとあり、建磐龍命・建五百連命とも記す。
   当社祭神である確証はなく、社名・五百立と神名・五百建の読みが同じこと(イホタツ)からの附会であろうという。
 ・天冨命(アメノトミ)--神社報告書(1874)
   忌部氏(後の齋部氏)の祖・天太玉命の孫で、書紀に、神武即位時に宮殿を建てたという伝承がある。
   これを当社祭神とすることは、当社と忌部氏との間に何らかの関係があったことを伺わせるが、管見のかぎりでは、当社あるいは当地に忌部氏が関与していたとの資料はみえない(忌部氏の本拠は当社西南方の橿原市忌部町付近といわれ、式内・天太玉命神社がある)
 ・五百人の番匠(木匠)--上記の通り

 これらは、いずれも祭神とするには根拠薄弱で、祭神不詳とする他はない。

※社殿等
 当社は今、大仏殿参道の西側、五百立山の東麓に鎮座するが、周りの樹木に遮られて参道からは殆ど見えない(帰路、注意すれば朱色の祠が見えるか)

 朱色の鳥居の先、三方を朱塗りの板塀に囲まれた中に、朱塗りの社殿が鎮座する。色鮮やかなことから、それなりの管理がおこなわれているらしい。

 
五百立神社・全景

同・社殿
 
同・参道入口
(中央部、樹木の先に朱色の社殿がある)

 当社横の参道を登った先、丘の上に「鉄道職員殉職者供養塔」(十三重塔)が立つ。
 昭和5年、この地にあった五百立社を丘の麓に遷し、その跡に建てられたものという。

     

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