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往馬坐伊古麻都比古神社
通称--往馬大社
奈良県生駒市壱分町
祭神--伊古麻都比古神・伊古麻都比売神
・気長足比売尊・足仲津比古尊・誉田別尊・葛城高顙姫命・気長宿祢王命

                                                              2015.02.15参詣

 延喜式神名帳に、『大和国平群郡 往馬坐伊古麻都比古神社二座 並大 月次新嘗』とある式内社で、今は往馬大社と称している。

 近鉄生駒線・一分駅の北西約400m、駅の西側を走る国道168号線へ出て北へ、大宮橋西交差点(信号あり)を左(西)へ、突き当たりを右(北)へ150mほど進んだ左側(西側)に鎮座する。

※由緒
 社務所で戴いた「往馬大社 御由緒書」(以下、由緒書という)によれば、
 「往馬大社の歴史はたいへん古く、創立年代は定かではありませんが、生駒谷17郷の氏神としてこの地に鎮座し、奈良県内では大神神社や石上神社と同様に神奈備(生駒山)を御神体として祀られた日本有数の古社であります。・・・
 神社で最も古い記述は総国風土記の雄略3年(458)で、この年を御鎮座としますと、平成21年に1550年を迎えます(ただし、雄略の在位時期は5世紀末とするのが通説)
 また、正倉院文書にも記載が見られ、奈良時代からすでに朝廷との関わりがありました。
 平安時代の延喜式(927)では、往馬坐伊古麻都比古神社二座が官幣大社(延喜式では大社、官幣大社は明治以降の社各)に列せられ、その一座は祈雨(アマゴイ)の弊も賜っていました。
 この時代、本殿は産土神の二座でありましたが、鎌倉時代に武家の守護神である八幡信仰が興隆し、当社でも五座の八幡神を合せ祀り現在の七座となりました」
とある(括弧内は注記)

 当社に関する古資料(近世以降)として
 ・大和志(1734・江戸中期)
   一分村に在り、生駒谷共に祭祀に預かる。其の神宮寺と称するは凡そ十一坊・・・(以下、主要な寺名を列記)
 ・神名帳考証(1813・江戸後期)
   [臨時祭式]膽駒、[三實]貞観元年正月27日往馬坐伊古麻都比古神社従五位上、[大和志]一分村に在り、僧十一坊、今往馬大明神と曰す
 ・神祇志料(1871・明治4)
   今生駒谷都部村にあり、往馬大明神といふ。生駒谷17郷の氏神也。伊古麻都比古命伊古麻都比売命を祀る。
   聖武天皇天平2年(730)神戸稲租230余束を祭料及び雑用に充て(東大寺正倉院文書)、平城天皇大同元年(806)神封三戸を寄し(新抄格勅符)、清和天皇貞観元年(859)正月従五位上を授く(三代実録)、醍醐天皇延喜の制、二座並(共)に大社に預り、新年月次新嘗の案上官弊に預かり、其の一座は又祈雨の弊に預かる(延喜式)
   凡大嘗祭には膽駒社の神部をして火鑽木(ヒキリノキ)を奉らしむ(北山抄)。卜部氏此神を祭て、亀卜の火燧木(ヒキリキ)の神と云ふ、
 ・大和志料(1714・大正3)
   南生駒村大字一分にあり、神名帳に往馬坐伊古麻都比古神社二座と見ゆ。古へは大社にして月次新嘗の官弊に預れり。中世以来神宮寺と称する社坊十一院ありて祭事を掌り生駒谷の諸村これに預れり。今郷社たり。
   寛文寺社記に曰く、生駒明神の御社七所有り、本地神功皇后同母皇葛城高顙姫(カツラギタカヌカヒメ)の御社なるよし、生駒谷十七郷の氏神なりと、されども寛文元年(1661・江戸前期)正月2日の夜焼失す、天火なりと聞えし、楼門所々の小社残りて今に在り
などがある。
 
 当社の創建由緒・年次は不明。
 由緒書にいう「総国風土記云々」とは、同書(編纂時期不明)
  「平群郡 伊古麻津比古神社 圭田五六束
        所祭饒速日命也。雄略三年五月始奉神田行式祭有神家巫戸」
とあるのを指し、当社はこれを以て当社創建と仮定するが、雄略紀に神マツリに関する記述はなく、また総国風土記記事の出所など根拠不明で、この記述を以て当社の創建時期とするには疑問がある。

 当社の実在を証する最古の史料は、由緒書にもいう正倉院文書所収の大和国正税帳(730)で、そこには
  「往馬神戸 稲219束7把、租13束6把、合233束3把」
とあり、これによれば、当社が8世記初頭にあったのは確かといえるが、当時の祭神はイコマツヒコ・ヒメの2座であろう。

 その後の神階綬叙記録等は神祇志料にあるとおりで、由緒書にいう「一座は祈雨の弊を賜っていた」とは、延喜式・臨時祭の祈雨神祭(雨乞いの祭)八十五座の中に、「膽駒社一座」とあることを指す。

※祭神
 由緒書には
  「本殿御祭神
    伊古麻都比古神(イコマツヒコ)--産土大神
    伊古麻都比売神(イコマツヒメ)--産土大神
    気長足比売尊(オキナガタラシ)--神功皇后
    足仲津比古尊(タラシナカツヒコ)--仲哀天皇
    誉田別尊(ホンダワケ)--応神天皇
    葛城高顙姫命(カツラギタカヌンヒメ)--神功皇后の母君
    気長宿祢王命(オキナガスクネノキミ)--神功皇后の父君」
とある。

 当社本来の祭神は、延喜式に2座とあるようにイコマツヒコ・イコマツヒメの2座であって、オキナガタラシヒメ以下の5神は、平安時代に興隆した本地垂迹説とともに流行した八幡信仰によるものだろうが(八幡大菩薩と称するように仏教色が強い)、当社に八幡神が勧請された時期等は不明。

 イコマツヒコ・イコマツヒメとは、“生駒に坐す神”を意味する一般名称であって、特定の神を指すものではない。
 生駒に坐す神とは漠然としているが、当社が生駒山主峰(H=642m)の真東2km強に位置することから、当地一帯の神奈備として崇敬された生駒山に坐す神(山の神)ともとれ、当社由緒記(時期不明)には
  「生駒山の自然を神とした信仰が、人格神信仰に変わるにつれて、伊古麻都比古神・伊古麻都比売神として祀られた」
とあるという(式内社調査報告)

 古来からの信仰では、山の神は祖神でもあって、春になれば里に下り田の神・水神となって子孫等に豊かな稔りをもたらし、秋、豊穣を見とどけて山に帰るといわれ(山の神・田の神交代説)、イコマツヒコ・ヒメも生駒山東麓一帯に豊穣をもたらしてくれる祖神として奉祀されたと思われる。

 中世以降の八幡神信仰を描くものとして“生駒宮曼荼羅”2幅があり、それが鎌倉時代(奈良国立博物館所蔵)・室町時代(当社所蔵)の作とされることから、八幡神の勧請は鎌倉時代以前ではないかという。

◎往馬曼荼羅
 当社境内の右手に観音堂があり、本尊の十一面観音立像の右に曼荼羅図が掛かっている。
 これについて、由緒書には、
 「鎌倉時代の往馬曼荼羅(重要文化財)と室町時代の往馬曼荼羅(県指定文化財・1458年)の2幅は八幡神を合せ祀った当時の隆盛を物語っています。
 境内にはこの曼荼羅に描かれた神功皇后の本地仏である十一面観音像を安置する観音堂があります。仏像は鎌倉末期から室町初期頃のもので、社伝では運慶作と伝えられています」
とある。
 この曼荼羅は垂迹曼荼羅(祭神-垂迹神とその本地仏を対応して描いたもの)の類で、縦長の曼荼羅中央に社殿7宇が横に描かれ、その上に祭神七座に対応する本地仏が描かれている。

 この曼荼羅での祭神・本地仏の配置は不明だが、同じ構図をとる奈良国立博物館蔵のそれでは、左から
  ・葛城高額姫命--文殊菩薩
  ・気長宿祢王命--地蔵菩薩
  ・気長足比売尊--十一面観音菩薩
  ・足仲津比古尊--釈迦如来
  ・誉田別尊----阿弥陀如来
  ・伊古麻都比古神--薬師如来
  ・伊古麻都比売神--毘沙門天
と並ぶという(ネット資料)。 

 
往馬宮曼荼羅
 
同・部分拡大
 
観音堂

 ここで目を引くのは、社殿7宇の内、右の2宇のうち、左の一宇(イコマツヒコ)は正面を向いているものの右のそれ(イコマツヒメ)は左を向き、且つ2宇ともに他の5宇に比べて社殿が小さく描かれている(本地仏は右2仏が一段低く描かれている)

 この曼荼羅による限り、当社の主祭神は誉田別尊を中心とする八幡神5座であって、本来の祭神であるイコマツヒコ・ヒメは脇に追いやられたようにみえる。

 また曼荼羅の上半分には、生駒山を越えて海が広がり、海辺に社殿と鳥居が描かれ、衣冠束帯の神人(八幡神か)が随身2人を伴い雲に乗って生駒山に降臨する様が描かれている。
 これについて日本の神々4(1985)は、この海は難波津の海で社殿は住吉大社を表し、この図は当地への住吉信仰の浸透を示唆するものだという。

 これに関連して、住吉神代記(平安初期成立)所収の「膽駒神奈備山本記」との古文書に、
  「現生駒山地と山麓一帯の地は、住吉大神の本誓により垂仁天皇と仲哀天皇が大神に寄進したもので、大神は長柄泊から膽馬山に登って、天皇に天下の太平を約束した」
  (原文-山本記者、昔依大神本誓 所奉寄 巻向玉木宮御宇天皇(垂仁)、橿日宮御宇天皇(仲哀)也。・・・
       自長柄泊登於膽駒嶺、賜宣賜 『斎祀吾山本實、天皇天下平奉守、若有荒振梟者、不血刃挙足誅』・・・)

とあり、曼荼羅の降臨部分は、この本記を絵画化したものではないかという(日本の神々4)

 これらを承けて日本の神々4は
  「往馬坐伊古麻都比古神社の祭神は、少なくともこの曼荼羅が成立した鎌倉以前に古代の二座から七座へと増加し、しかも主客転倒した形で祀られたことがわかる。
 磐船峠越が大和から淀川へ出るルートとして開かれてすぐに、住吉信仰がこれに沿って入り込み、当社もその隆盛におされてしまったことは想像に難くない。
 そして航海神である住吉神が、中世の武士の台頭によって、軍神である八幡神へと変貌するのは自然の成り行きであったと思われる」
という。


 当社の主祭神を伊古麻都比古・伊古麻都比売とするのに、諸資料ともに異論はないが、総国風土記のみは饒速日命(ニギハヤヒ)という(由緒書)
 その根拠は不明だが、多分に、東征してきた神武天皇が、生駒山越の道をとって大和へ入ろうとしたとき、鳥見の長髄彦が孔舎衙(クサカエ)によって抵抗したため失敗したという伝承をもとに、長髄彦が主君として仕えた饒速日を祭神としたのだろうが、それを証する史料はない。
 なお、大和志料は、
  「日本総国風土記には饒速日命を祭るというが、他に徴すべき証左なければ未だ確説となすに足らず。
   考証(度会延経編1733か)には伊弉諾伊弉冉の二神とするも亦拠なし」
として、イコマツヒコ・ヒメ以外の説は傍証なしとして排している。

 当社祭神が本来の二座から七座へと増えたことについて、
 ・由緒書には、鎌倉時代、八幡信仰の興隆により二座から七座になったとあり(上記)
 ・往馬坐伊古麻都比古神社由緒記(時期不明)には
 「現在応神天皇・仲哀天皇と神功皇后、伊古麻都比古・姫神・気長宿祢王神・葛城高顙姫神であるが、元来の主神である伊古麻都比古・同姫神は、江戸中期に於いては全くその影を消し、之に代へるに牛頭天王(ゴズテンノウ)と八王子を以てし、生駒八幡大菩薩と称したこともある。
 従って、応神・仲哀・神功皇后の三神が重んぜられて、神社の縁起さへも誤って伝へられたが、明治の世になって探求が進むにつれて、伊古麻都比古と同姫神が歴史上正しい神であることが知られ、復活して中央の正座に遷された」
とあり(式内社調査報告)、江戸時代には、当時流行していた防疫神・牛頭天王を祀る社とされていたが、明治になって伊古麻都比古・比女に復したという。

 ここで、「明治になって探求が進むにつれ云々」というが、それが如何なるものかは不明で、明治初年の神仏分離令によってゴズテンノウが排除されたことにかかわってのことであろう

※社殿等
 道路脇に立つ鳥居を入ると、広場の左奥に長い石段があり唐破風で飾られた楼門が建つ。
 そこから又短い石段を登った上が境内で、その中央に唐破風で飾られた横長の拝殿(入母屋造・瓦葺)が、その背後、少し離れた低い石壇上の透塀に囲まれたなかが本殿域で、祭神七座に対応する本殿(春日造・桧皮葺、中央1宇のみは唐破風付向拝あり)が、いずれも東面して並ぶ。

 資料によれば、現在の本殿配置は右から葛城高額姫命・足仲津比古尊(仲哀天皇)・伊古麻都比売神・伊古麻都比古神・誉田別尊(応神天皇)・気長足比売尊(神功皇后)・気長宿祢命とあり、主祭神・伊古麻都比古社が中央となっている。

 この社殿配置は往馬宮曼荼羅のそれとは異なっている。
 曼荼羅の社殿配置が当時のそれを写したものかどうかは不明だが、大和志料に“寛文元年(江戸前期)正月の火災で、楼門・小祠を覗いて焼失”とあることから、それ以降、現在の配置に変えられたのかもしれない。


往馬坐伊古麻都比古神社・鳥居 
 
同・楼門
 
同・拝殿
 
同・本殿(左側)
 
同・本殿(右側)

◎境内社
 由緒書には
 「7座の他、境内に13社の攝末社と、境外地に別院春日社4社と高良社2社が祀られている」
とあり、今、境内には次の境内社がある。
*本殿域の右側(北側)
 ・北末社合祀殿--5社
    右から豊受比売社(豊受比売神)・仁徳天皇社(大雀命)・神明社(天照大神)・春日社(天児屋根神)・大山祇社(大山祇神)
*本殿域の左側(南側)
 ・生駒戎社(事代主神)
 ・南末社合祀殿--4社
    右から伊弉諾社(伊弉諾神・伊弉冉神)・住吉社(筒之男3神)・猿田彦社(猿田彦神)・稲荷社(宇迦之御魂神)
 ・稲荷社--改築工事中
 ・水神社(水分神)

 なお、攝末社には含まれないが、北末社合祀殿の横に英霊殿(攝末社には含まれない)があり、由緒書は
 「現在英霊殿が祀られている場所には、幕末まで八角の宝壇が設けられ、称徳天皇(718--70)の黄金の位牌が埋めた処と伝える」
という。


北末社合祀殿 
 
住吉社(合祀社の一)
 
英霊殿
 
生駒戎社
 
南末社合祀殿
 
水神社

 上記13社の他に、境内南側に祓戸社(瀬織津比売神)があり、その左前、簡単な柵の中に上溝桜(ウワミズサクラ)と呼ばれる木が生えている。

 
祓戸社
 
上溝桜
(冬で落葉している)

 この上溝桜にかかわって、由緒書は
 「往馬大社は古くから“火の神”としても崇敬厚く、平安時代の北山抄や亀相記という書物には、天皇の大嘗祭に関わる“火きり木”を当社より納めた歴史が記されており、昭和や平成の大嘗祭の斎田点定(ザイデンテンテイ)の儀にも御神木の上溝桜が使用されました」
という。

 この上溝桜とは、古事記・天岩屋戸条に
  「次にアメノコヤネ命とフトタマ命を召して、天の香山の真男鹿(マオシカ)の肩骨を抜きて、天香山の天の波波迦(カカハ)を取りて、卜合(ウラナ)ひまかなはしめて(神意を占わしめて)・・・」
とある“ハハカの木”を指し(ウワミズサクラとはハハカの別名)、大嘗祭に用いる稲を栽培奉献する悠紀田(ユキデン)・主基田(スキデン)の地(斎田)を卜定するとき、こハハカの木の皮を以て亀の甲を灼いて占った(亀卜)という。

 当社奉納のウワミズサクラにかかわって
 ・新撰亀相記(830・平安前期)--卜部坊に祭る 行馬社一名膽馬社在大和国平群郡 火燧木神也・・・
 ・北山抄(平安中期)--火鑽木を召す事二具大和国膽駒社神主に仰す
 ・元要記(平安らしいが時期不明)--往馬坐伊古麻都比古神社二座 火燧大神
との史料があり、式内社調査報告は
  「大嘗祭の悠紀・主基奉仕の二国定めの時の浄火をおこす火鑽杵・火燧臼として使用された」
という。

 当社から奉納されたウワミズサクラが亀の甲羅を灼く材としてに用いられたのか、浄火をおこす火燧具として用いられたのかははっきりしないが、いずれにしろ大嘗祭にかかわって奉納されたことは確かであろう。

 なお、由緒書は、当社のウワミズサクラを以て斎田の卜定(亀卜)に用いたというが、天香山坐櫛真命神社(橿原市南浦町)・葛木坐火雷神社(葛城市笛吹)でも、それぞれ、その境内にあるハハカの木を以て之に充てたという。
 因みにウワミズサクラとはバラ科の落葉高木で、桜とはいうものの所謂桜花とは異なる。

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