トップページへ戻る

忍坂坐生根神社
奈良県桜井市忍坂
祭神--少彦名命・天津彦根命
                                                                   2014.07.24参詣

 延喜式神名帳に、『大和国城上郡 忍坂坐生根神社 大 月次新嘗』とある式内社。
 社名は一般に“オシサカニイマスイクネ”と読むが、神社覈録(1870・明治初年)には「忍坂は於佐加(オサカ)と訓むべし」とあり、オサカと読むのかもしれない。なお、地元では“オッサカ”と呼んでいる。

 近鉄大阪線・大和朝倉駅の南約900mに鎮座する。
 駅南へ出て、南に広がる朝倉台住宅地を迂回する道路を右へ、一般道(2車線道路・歩道あり)との交差点を右(西)へ進んだすぐ、小川(狭い人工水路で発見しにくい)を渡った小路を左(南東方)へ小川沿い(小川の東に醤油屋の円形看板、小川の西側角に“近畿自然歩道・石井寺”との標識あり)に進んだ先、宮山山麓を巡る道路左側(東側)に鎮座する。

 
醤油屋の看板(右が小川)
 
生根神社への小路
(左に醤油屋看板あり)
 
宮山(北方より)

※由緒
 境内に掲げる案内には、
  「当社は、天平2年(730)の『大倭国正税帳』に、また延長5年(927)撰『延喜式内社』にも名前がみえる古社で、本殿を持たず宮山をご神体とし、拝殿の北側に神が鎮座する『石神』と称する自然石十数個を並べた『岩蔵』があります。
 ここ忍坂の地は、隅田八幡宮所蔵の国宝・人物画像鏡に刻まれた意柴沙加宮(オシサカノミヤ)の地ともされ、第二十六代継体天皇が磐余玉穂宮に即位される以前におられた処とされています。
 また忍坂大中姫命や衣通姫(ソトオリヒメ)が居られたとも伝わり、大和志料には額田部氏(ヌカタベ)の祖・天津彦根命を祀るとも記され、平安時代の医書・大同類聚方に、当社相伝の“以久禍薬”(イクネノクスリ・額田部連上奏)のあるとも伝えています。・・・
 また額田部氏が居住したとするこの地は、額田王と鏡女王姉妹との繋がりや、息長足日広額天皇(オキナガタラシヒ ヒロヌカ・第二十三代舒明天皇)の陵墓があることから、息長氏の大和での拠点の一つであったとされています」
とあるが、その創建由緒・年代等には触れていない。

 近世以降の資料として
 ・大和志(1734・江戸中期)--忍坂坐生根神社 大月次新嘗 貞観元年正月授従五位上 忍坂村
 ・大和名所図会(1791・江戸後期)--思坂(オシサカ)坐生根神社 恩坂村(オシサカムラ)にあり 神名帳及び三代実録に出す
 ・大和志料(1914・大正3)--忍坂山の内字宮山を以て神体となし宝殿の設なし、其の故実を詳かにせず・・・
 ・奈良県史(1989・平成元)ーー近鉄大阪線朝倉駅の南方約1kmの字宮山の通称外鎌山(トカマヤマ、別称:忍坂山、当社の北東約500m、H=292m)を御神体(神奈備)とする神殿のない古代の祭祀形態そのものの神社である
等があるが、いずれも創建由緒には触れていない。


 当社の創建時期は不明だが、
 ・大倭国正税帳(730・奈良中期・正倉院文書)
   「生根神戸穀九斛五斗五升耗一斗九升 斛別二升 云々」
とあり、8世記初頭にあったのは確かといえる。

 その後の史料として
 ・新抄格勅符抄所収の大同元年牒(806、奈良時代以降の社寺に与えられた封戸・神戸の記録)
   「忍坂神三戸 伊勢一戸但馬二戸」
とあり、この忍坂神が当社のことという。
 なお、同じ大同元年牒に
   「生根神一戸 大和」
とあり、ここにいう生根神を当社とする説もあるが(式内社調査報告・1982)、ネットにみる大同元年牒では、この神を大阪の住吉大社に隣接する式内大社・生根神社(摂津国住吉郡)に充て、忍坂神が当社のこととしている。
 この忍坂神・生根神のいずれが当社を指すかはっきりしないが、いずれにしろ、正税帳にいう神戸を継続して9世記以降も三戸(あるいは一戸)の神戸が与えられていたらしい。

 当社への神階綬叙記録としては、三代実録・貞観元年(859)正月27日条に
   「大和国従五位下・・・忍坂生根神・・・並に従五位上に叙す」
とあるのみで、その後の昇叙記録は見えない。

 なお、大和国郷村社取調帳(1874・明治7年)に「当社の創建は崇神天皇9年4月甲子朔」とあるというが(式内社調査報告)、これは書紀・崇神9年条に、
  「春3月15日、天皇の夢の中に神人が現れ、『赤い盾8枚と赤い矛8本で墨坂の神を祀れ、また黒い盾8枚と黒い矛8本で大坂の神を祀れ』と告げた。
  4月16日、夢の教えのままに墨坂神・大坂神を祀った」
とある大坂神(オオサカ)もオサカと読めることから、同音の忍坂神(オサカ)と誤認したもののようで、神名帳考証(伴信友・1813)
  「和名抄に、城上郡忍坂(於佐加)葛上郡大坂とあり、忍坂と大坂は別なるべし」
という。

 忍坂神・大坂神が別神だとしても、同9年条に、国内に疫病等を流行らせた大物主神と大國魂神を祀ったのにあわせて、
  「別に八十万の群神を祀った。よって天つ社・国つ社・神地・神戸を決めた。ここで疫病は収まった」
とあることを承けて、当社を天つ社・国つ社に含まれると解したのかもしれないが、古墳時代前期(4世記)とされる崇神朝では、必要の都度神マツリの場を設けての祭祀がおこなわれたとは思われるが、常設の神社があったとは思われない。

 いずれにしろ、当社は背後の神奈備山を御神体とする古い祭祀形態を今に残す古社であるには違いない。

※祭神
 境内の案内には、少彦名命・天津彦根命とあるが、延喜式には祭神一座とあり、どの神が主祭神なのかはっきりしない。
 なお、諸資料では
  ・少彦名命(スクナヒコナ)--当社・神社明細帳(1879)・磯城郡誌(1915)
  ・天津彦根命(アマツヒコネ)--大和志料(1914)
  ・生根神(イクネノカミ)--郷村社取調帳(1874)・特選神名帳(1876)
の3説がある。

 少彦名命とするのは、案内にもいう大同類聚方(808・平安初期、当時各地に伝承されていた薬をまとめたもの)
  「西乃久保薬  大和国城上伊久祢子の神社(生根神社)に所伝にて、額田部連等の家方(伝承薬)也」
とあり、当社に西の久保薬という薬が伝承されていたこと、また同じく
  「江田見薬  大和国城上郡生根の里民の家の方也」
とあって、当地付近に民間伝承の江田見薬があったことなどから、医薬の神とされる少彦名命を充てたものと思われ、これが当社本来の祭神だったという確証はない。

 天津彦根命とは、同じ大同類聚方後段の「額田部連の家方也」に注目した説で、大和志料は
  「今少彦名命を祭る、何に拠るを知らず。案ずるに、大同類聚方に当社相殿の生根薬(西の久保薬)と称するものを載せ、額田部氏の奏上せしものなりと。
 額田部氏何人ならしや詳かならざれども、同書を通読すれば総て神社の薬方は其の神職若くは氏人の奏上に係るもの甚多かれば、氏は当社の神職なるべし。・・・
 而して額田部氏は天津彦根命より出ず。彦根・生根、共に男子の美称にして義に於て相異なるなし。然らば即ち忍坂村に額田部氏の住するあり、其の祖・天津彦根命を祭りて生根社と称せしものなるべし」
として、生根薬を相伝していた当社の神職・額田部氏が、その祖神・天津彦根命を祀ったのでないかという。

 天津彦根命とは、アマテラスとスサノオの誓約(ウケヒ)によって成り出た5男神の一で(3番目)、古事記には、「凡川内国造・額田部湯坐連(ヌカタベノユエノムラジ)・・・・等が祖なり」とある。

 新撰姓氏録によれば、額田部を称するものとして9氏族が見えるが、大きく天津彦根命系4氏族、明日名門命(アスナド)系4氏族、神魂命系(カミムスヒ)1氏族に分かれ、大和国には、
  「大和国神別(天孫)  額田部河田連 天津彦根命三世孫意富伊我都命之後也
                  允恭天皇御代 献額田馬(額に巻き毛がある馬) 天皇勅 此馬額如田町 仍賜姓額田連也
がみえることから、当地に関係する額田部氏もその一族かと思われるが、それを証する史料はない(額田部河田連は、その河田との名から、天理市西部の嘉幡町-カバタマチ-付近が本拠ではなかったかというが、これも確証はない)

 額田部氏の性格ははっきりしないが、谷川健一氏は
  「額田部湯坐連は、新撰姓氏録によると天津彦根命の子・明立天御影命の後とあって、天御影命=天目一箇命のゆえに、天目一箇命を祖神として奉齋して金属の鋳造を専業とした技術者の氏族とみられる」(青銅の神の足跡・1989)
とし、更に湯坐(ユエ)について
  「湯坐とは貴人の嬰児が入浴するときに奉仕する婦人を意味するが、湯が金属の溶融した状態を意味することから、蹈鞴炉から出る溶けた金属(湯)を鍛えるという作業は、女胎からとりだした子供を育てることと同じであり、そこから皇子らを養育することを大湯坐とか若湯坐という名で呼んだとおもわれる」(同上・大意)
として、天目一箇命を祖神とする鍛冶氏族は金属器製造を業とするとともに、貴人の子の出産・養育に係わったのではなかったかという。

 生根神とは当社の社名・生根からのものと思われるが、詳細不明。

※社殿等
 当社は、当社の東北方約500mに聳える外鎌山(トカマヤマ・忍坂山ともいう、H=292m)から西南に延びた先端にある宮山をご神体と崇める古い祭祀形態を残す神社で、拝殿のみで本殿はない。

 石垣を積んで道路から一段高くなった長方形の区域が境内で、その東側には宮山山麓が迫っている。
 その山麓に築かれた石垣の上が社殿域で、その中央部の石段を登った上に小さな鳥居が、その奥に拝殿(切妻造妻入・銅板葺)が西面して建ち、背後には山麓が迫っている。


忍坂坐生根神社・社頭 
 
同・境内東側の社殿域全景
(左の石段は天満社への石段)
 
同・拝殿への石段

同・拝殿正面 
 
同・拝殿側面

  拝殿の左手裏に、人頭大の自然石を円形に並べた一画がある(右写真)

 案内に
  「神が鎮座する石神(イシガミ)と称する自然石十数個を並べた磐座(イワクラ)
という一画だが、見たところでは、神が降臨する磐座というより、神マツリの場・磐境(イワサカ)の跡かと思われる(結界石か)
 磐座・磐境、いずれにしても古代の神マツリの跡であることに違いはないが、如何なる祭祀がおこなわれたかは不明。

 案内には「十数個」と、式内社調査報告には「普通21箇といわれるが、昭和50年の調査では19箇を確認した」とある。
 今は、平石9箇ほどが半ば土に埋もれた状態で確認できるだけで、周囲には、ここが祭祀施設跡であることを示す注連縄もなく、また何らの案内表示もない。

磐座(磐境)跡か

◎境内社
 ・天満神社(祭神:菅原道真)
   拝殿の左端(北側)に鎮座する朱塗りの社殿--春日造・銅板葺
 ・神女神社(シンニョ、祭神:大宮女命)
   石垣下の向かって左側に鎮座。
 ・愛宕神社(アタゴ、祭神:火産霊神-ホムスビ)
   石垣下の向かって右側に鎮座
 いずれも、勧請由緒・時期等不明。

 
境内社・天満神社

境内社・神女神社 
 
境内社・愛宕神社

 当社には石灯籠が多く、社殿域石垣下拝殿前の左右及び境内西側(道路側)に別れて林立しており、社頭案内には
  「24基があり、最古のものは拝殿下左右の延宝2年(1674)のもの」
という。殆どが刻文摩耗のため判読不能だが、生根社と刻したものが多い。

 境内道路側の石灯籠の右手(北側)に陽石とおぼしき自然石一基があるが、対となる陰石は見受けない。年代不詳。

 境内右端(南側)に「隠来之泊瀬山・・・」と万葉仮名で刻した万葉歌碑がある。
  (歌詞)  こもりくの 泊瀬の山 青旗の 忍坂の山は 走り出の 宜しき山の 
              出で立ちの くはしき山ぞ あたらしき 山の 荒れまく惜しも--15巻3331、読み人知らず
  (歌意  泊瀬の山の青旗の忍坂の山は、流れぐあいの好ましい山で、聳えぐあいの見事な山だ、もったいない、この山の荒れていくのは惜しいことだ)

 
石垣下(左側)の石灯籠
 
陽 石
 
万葉歌碑

トップページへ戻る