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畝火山口坐神社
奈良県橿原市大谷町
祭神--気長足姫命・豊受日売命・表筒男命
                                                                 2013.06.08参詣

 延喜式神名帳に、『大和国高市郡 畝火山口坐神社 大 月次新嘗』とある式内社。社名は“ウネヒノヤマグチニマス”と読む。

 近鉄南大阪線・橿原神宮西口駅の北約1.7km、畝傍山(H=199m)の西麓に鎮座する。畝火山山頂の西約400mにあたる。
 駅南口から西へ進み高取川に突き当たって川沿いに西北進、最初の角を右へ曲がり、踏切を越え安寧天皇陵を左に見て北進し、大谷の集落に入って右(東)へ、山裾の叢林中に赤い鳥居がある。

※由緒
 社頭に掲げる由緒には、
  「飛鳥・奈良時代から朝廷の尊崇篤いと伝承されている当神社が記録に見えるのは、大同元年(806・平安初頭)『新抄勅格符抄』に神封一戸を寄せられた、とあるのが最初である。

 貞観元年(859・平安前期)正五位下を授かり、延喜の制(927・平安中期初頭)では明神大社として官弊及び祈雨の弊に預かったことが三代実録に、又、延喜式祝詞に皇室の御料林守護の為山麓に山神の霊を祀るとあり、大山祇命を御祭神としていたことが伺える。

 文安3年(1446・室町初期)の『五郡神社記』に、畝傍山口神社在久米郷畝火山西山尾とあり、当時は西麓にあったとされている。天正3年(1575・室町末期)の畝傍山古図では山頂に社殿が描かれており、この間に山頂に遷座されたことが明らかで、口碑に当時の豪族越智氏が貝吹山に築城の際、真北に神社を見下すことを恐れて山頂に遷座したとあるのと符合する。

 大和名所図絵(1791・江戸後期)にも、昔畝火山頂にあり、今山頂に遷す。祭る所神功皇后にてまします、畝火明神となづく、とあり、当神社の御祭神神功皇后が朝鮮出兵の際、応神天皇をご安産になられたとの記紀の伝承により、今安産の守神として信仰されている。

 主神であった大山祇命を境内社に祀り、本殿に気長足姫命・豊受比咩命・表筒男命の三神を奉祀したのも、この頃かと思われる。

 神社名も畝火坐山口神社から畝火明神・畝火山神功社・大鳥山などと呼ばれてきたが、明治に入って郷社『畝火山口神社』と定められ、俗にお峯山と呼ばれてきた。

 現在の社殿は、昭和15年(1940)の皇紀二千六百年祭で、橿原神宮・神武天皇陵を見下し神威をけがすということで、当局の命により、山頂から遷座した。皇国史観全盛期の時勢を映した下山遷座であった」
とある。

 この由緒は、当社の沿革を史料などを踏まえながら要領よくまとめたもので(創建年代の記述なし)、諸資料にいう由緒・沿革もこれと略同意という珍しいものだが、以下気づいたことを補足する。

・大同元年新抄勅格符抄云々
  平安時代の法制書・新抄勅格符抄が引く大同元年牒(太政官符・806、奈良時代以降の神社寺院に与えられた封戸の記録)に、
    「畝火山口神 一戸大和
とあり、これによって当社が9世紀初頭以前からあったことが確かめられる。
・貞観元年の神階授与
  三代実録(901)清和天皇貞観元年正月27日条--大和国従五位下・・・畝火山口神・・・正五位下を授け奉る
                  同    9月8日条--大和国・・・畝火山口神・・・神等に遣使して奉幣、風雨の為に祈りしなり
・延喜式祝詞--祈年祭(トシゴヒノマツリ・2月4日)祝詞のうち山口神条
  山口にお鎮まりの神々に謹んで、「飛鳥・石寸(イハレ)・忍坂・長谷・畝火・耳無と申してお祭りします所以は、遠近の山々に生育している大小の木材の、本と末とを切った中程を持ってきて、それを料材として皇御孫命の瑞々しい宮殿を造営し、それを以て天空を覆い翳し太陽を覆い翳すための宮殿として、その殿内にお籠もりになって四方の国々を安穏な国として平和に治められている故、その神々等の恩恵に対するお礼として、ここに皇御孫命の立派な幣帛を献ります」と申し上げます(意訳)
 この祝詞にみるように、山口に祀られる神とは、山の入口(麓)にあって、宮殿を造る用材としての樹木を守護する神をいうが、山は水瓶でもあることから、日常生活や農耕に必要な水を司る水神としても崇拝されたという(風雨の為に祈ったのは、この神格によるもの)
 また、祝詞にいう山口神社6社の分布から、その創建は飛鳥・藤原京時代(6世紀中葉から7世紀初頭)に遡るのではないかという。

 当社は今畝傍山の西に位置するが、文安3年(1446・五郡神社記)から天正3年(1575・畝火山古図・ネットでみた古図には山頂に社殿がある)の100年あまりの間に山麓から山頂へ遷ったのは確かで、これらの資料以外にも、江戸中期の地誌・大和志(1734)に、
  「畝火山口坐神社 昔畝火山腹に在り、今山頂に遷す」
と、また大和名所図会にも
  「畝火山口坐神社 むかしは畝火山腹にあり、今山頂に遷す」
とある。
 ただ、その遷座理由として、由緒は越智氏の貝吹山城築城に関わるというが、ネット資料によれば、築城は南北朝時代(14世紀)ではないかといわれ(古文書上での初見は、天文15年-1546、筒井順昭に攻められて開城との記録という)、とすれば、口碑がいう貝吹山城築城の際云々との整合性は薄い。
 また、貝吹山は当社の南約2.7km(高取町与楽、橿原市との境界近く)付近にある山(H=210m)で、“真北に神社を見下ろすことを恐れて云々”というには離れすぎている感がある。

 今、当社の旧鎮座地である畝傍山頂へは、当社鳥居の右手から登ることができる(営林局の畝傍山案内板あり)
 ほぼ整備された登山路を登り(丸太で土止めした階段あり、途中の分岐点では左の道をとること)山頂に達すると、ちょっとした平場に、切石2段を巡らした四角い区画があり、数本の低木が生え、「畝火山口神社社殿跡」との石標が立っている。
 また、社殿跡の右手、石垣を巡らせた壇の中に根元から幹別れした大木(白梼という)が茂っている。下記する埴使(ハニツカイ)神事の場所という。
 (山頂へは、東側の橿原神宮側からも登頂可能だが、山路は未整備で荒れている)

 
畝火山口神社社殿跡
 
同・石標
 
同・埴使神事の場

◎当社の鎮座地について
 当社の鎮座地について記載している古資料として
 ①五郡神社記(1446・室町初期)--久米郷畝火山西山尾に在り
 ②神名帳考証(度会延経・1733・江戸中期)--八木村南一里許 今俗に慈明寺と云う 今畝火山の神功社と称す 山口神社か疑う
 また間接的なものとして
 ③大和志(1734・江戸中期)--大谷・吉田・慈明寺・山本・大窪・四條・小世堂村共に祭祀に預かる
などがある(いずれも漢文意訳)

 今、当社の鎮座地を畝火山の西とするのは、①によるもので、
 ②にいう“八木村”とは、当社の東南約2.5kmにある現橿原市八木町(近鉄・大和八木駅付近)を指すと思われる(距離的には大きく異なる)
 また、“俗に慈明寺という”とは、畝火山を俗に慈明寺山と呼んだ(大和名所図会)ことから、既に山頂へ遷座していた当社を慈明寺と呼んだのであろう。
 ③にいう村名は、所謂氏子圏を指すもので、今の町名から検すれば、畝火山の西から北へ広がっており(四條・小世堂は不明)、当社が畝火山の西北辺にあったことを示唆している。

 これらの資料からみて、畝火山上への遷座以前の当社が畝火山の西にあったということは、当時の一般的認識だったことを示唆している。

 しかし問題は②の末尾で、そこでは「今畝火山称神功社 疑山口神社歟(原文)」として、畝火山神功社(山頂にある当社・祭神神功皇后)を式内・畝火山口坐神社とすることに疑義を呈している。
 また、伴信友著の神名帳考証(1813・江戸後期)にも
  「今畝火山の神功社と称す 山口神社か疑う 昔畝火山腹に在り 今山頂に遷る [頓阿自筆神名帳に]宇禰美(ウネビ)大明神(畝火山口坐神社の別称)トアルコレカ 信友
とあり、ここでも疑義が呈されているが、両書とも、その疑義の内容については記していない。

 この“疑義あり”を踏まえて、日本の神々4(2000)は概略( )内は私見
 ・(当社は飛鳥・藤原京時代に創始されたと推察され、)その鎮座地は、当時の宮処から見ての山ノ口、つまり畝火山の東側ではなかったかと思われる(宮処から畝火山を拝するには東側にあるのが自然)
 ・あるいは、山の東南麓、畝傍町唐院にある現在の東大谷日女神(ヤマトオオタニヒメ・姫蹈鞴五十鈴姫-ヒメタタライスズヒメを祀る)の辺りであったかもしれない。
 ・東大谷日女神社の東はヤマトの意であろうから、山の東・西は問題でなく、大和であれば山の西側にあってもよいことになる。
 ・現在の当社の地は、畝火山に深く入り込んだ谷あい、まさに大谷である(地名も大谷村)
  (東大谷日女が“ヤマトの大谷に坐す姫神”という意であれば、その鎮座地は、山の西側にある大谷の地が似つかわしい
 ・五郡神社記に、「畝火山口神社、在久米郷畝火山西山尾」とあり、「東大谷日女神社一座 久米郷今井村宮森」とあるが、両社に関する記述はまったく簡単なもので、両社は一緒に現在地で山口神社として祀られていた可能性もある。
 ・当社鎮座地の地名が大谷、社家が大谷氏であることから、(そこに鎮座する神社は)本来は高市郡の式内社・東大谷日女神社であったと考えられる
といっている。

 今、当社本来の鎮座地が畝火山の東西どちらにあったかとか、東大谷日女神社との関係を詮索しても仕方がないことだが、当社本来の姿を検証する意味で、これもひとつの識見かもしれない。

※祭神
 今の祭神は、
  気長足姫命(オキナガタラシヒメ:神功皇后)
  豊受日売命(トヨウケヒメ:食物神)
  表筒御命(ウワツツノオ:住吉三神の一)
とあるが、当社が大和に坐す山口神6座の一であること、延喜式に祭神一座とあることから、本来の祭神は
  大山祇神(オオヤマツミ)
とみるのが妥当であろう。

 因みに、オオヤマツミとは、古事記ではイザナギ・イザナミの国生みのときに生まれた御子、書紀ではイザナギがカグツチを三段に切ったとき、その一段に生じた神で、山を司る神という。

 このオオヤマツミから現在は神功皇后以下の三座となっているが、その時期について
 ・五社神社記(1446)--祭神名の記載なし
 ・神名帳考証(度会延経・1733)--今畝火山神功社と称す
 ・大和志(1734)--祭神名記載なし
 ・大和名所図会(1791)--祭る所神功皇后にてまします
 ・神名帳考証(伴信友・1813)--今畝火山神功社と称す
などの資料からみて、遅くとも、江戸中期頃には神功皇后とされていたらしい。

 現祭神三座のうちトヨウケヒメとは、火の神・カグツチを産んで病臥中のイザナミが産んだ子・ワクムスヒの子で、降臨する天孫ニニギに随伴する神々の一とある(古事記)
 トヨウケの“ウケ”(又は“ケ”)とは食物を指すことから、トヨウケヒメは豊穣をもたらす食物神とされるが、それが山の神を祀っていた当社の祭神とされた理由は不明。食物神であることから、伊勢外宮の祭神・豊受大神、あるいはウケモチ・ウカノミタマ(所謂・稲荷神)と同じともいわれ、豊穣神・食物神として祀られたものであろう。
 ただ、山の神は水の神・農耕神的神格を併せもつことから、トヨウケヒメは食物神=農耕神として、オオヤマツミの神格を引くとも解される。

 残るオキナガタラシヒメ(神功皇后)とウワツツノオは大阪・住吉大社の祭神四座のなかの二座だが、当社に祀られた由緒など不明。ただ、当社に伝わる埴使の神事(下記)が住吉大社の神官により執りおこなわれることから、両社の間には何らかの関係があったのかもしれない。
 またウワツツノオは、ナカツツノオ・ソコツツノオとともに三座の神として祀られるのが普通なのに、当社はウワツツノオ一座とされているのも解せない。

※社殿
 朱塗りの鳥居を入り、参道を進んだ先が境内。
 境内東側、石垣を積んだ上に朱塗りの拝殿(入母屋造平入・瓦葺)が、その奥、弊殿を介して同じく朱塗りの本殿(三間社流造・銅板葺)が、それぞれ西面して鎮座する。平成23年に彩色の補修がおこなわれたそうで、毒々しいほどの朱色で塗られている。 


畝火山口坐神社・鳥居 
 
同・拝殿

同・本殿

 拝殿前の左手(北側)に合祀舎(三社合祀・銅板葺)2社が並び、その左に社名不明の小祠(一村民が持ち込んだものというが、詳細不明)がある。
 合祀舎(右側)--右より大山祇命社・埴安彦命社・春日社
    大山祇命社--当社本来の祭神が、新来の神によって境内社に貶められたもので、こういった事例は多い。
    埴安彦命社--土の神・陶土の神で、埴取神事に関わるものか
 合祀舎(左側)--右より厳島社・八幡社・高良社
  
 この他、参道の途中に祓戸社(穢れを祓う神、木製鳥居の奥・瑞垣内に樹木1本あるのみ)および陰陽石がある。

 
合祀舎(右側)
 
合祀舎(左側)
 
不明社
 
陰陽石

※埴使の神事(ハニツカイノシンジ)
 大阪・住吉大社で毎年の祈年祭(2月)・新嘗祭(11月)に用いる平瓮(ヒラカ・皿状の祭祀用土器)を造るための埴土(ハニツチ)を畝傍山山頂(上記社壇)に求める神事で、書紀・神武東征段にいう、
 「大和への行く手を賊軍に阻まれた神武が神に祈ったところ、『天香具山の頂の土をとって平瓮を造り、これに供物を盛って天神地祇を祀れば、敵は自ずと降伏するであろう』との夢告をうけ、命をうけて老翁・老婆に変装した椎根津彦(シイネツヒコ)と弟猾(オトウカシ)が敵中を突破して天香具山の土を採って帰り、それで平瓮を造って神を祀り賊を平定した」(大意)
との神話を承けたものという。

 大和名所図会・畝火山口坐神社項に
 「毎歳二月朔日・霜月初子日、摂州住吉社より禰宜一人・土持一人・僕二人・馬一匹を牽きて来たり、此の山の土を取ること旧例となれり。何れの代より始まりしことを知らず」
とあり、また摂津名所図会(1796)の住吉大社項には
 「埴使 祈年祭また11月新嘗祭両度に、神人大和国へ行く、・・・天香具山を去ること半里、畝火山口神社・祭神神功皇后。埴使ここに於いて装束を改め、香山の社司とともに祓いを修し、かの山に入って埴を取る。・・・土を取ること三掴み半、・・・其の翌日住吉に帰りて天平瓮を造り、大神へ備え奉る。云々」
とある。

 この神事が何時から始まるのかは不詳。また、この神事を住吉大社が執りおこなう由緒、採土の場が本来の香具山から畝傍山に変わった理由など、はっきりしない点が多い。

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