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忍海の式内社/為志神社
奈良県葛城市林堂
祭神--伊古比都弊命
                                                                 2014.08.30参詣

 延喜式神名帳に、『大和国忍海郡 為志神社』とある式内社。 郡名は“オシミ”、社名は“ヰシ(イシ)”と読む。

 近鉄御所線・近鉄新庄駅の南西約1.1km、駅の南約600mを東西に走る県道245号線を西へ進んだ北側に鎮座する。

※由緒
 創建由緒・時期・沿革等不明。

 江戸中期の地誌・大和志(1734)には
  「林堂村に在り、今十二所権現と云ふ」
とあって、12柱の神々を祀っていたという。

 当社は今、林堂の県道254号線北側に鎮座するが、明治末期の神社統廃合に際して、維持困難として葛城市笛吹にある式内・葛木坐火雷神社の相殿に合祀され、旧社地(現在地)には木製鳥居と石灯籠数基が残るだけだったが、昭和57年10月、地元有志により現在地に再建されたという。

  その間の経緯について、境内に立つ「為志神社遺蹟」との石碑脇の由来には、
  「式内小社・為志神社は伊古比都弊尊を祭神として古く栄え、延喜式には忍界郡二社の筆頭に記載されている由緒正しい神社で、久しくその尊厳を発してきたが、明治39年の勅令・社寺合併令により明治43年2月8日(1月29日ともいう)をもって式内大社葛木坐火雷神社に合祀されて今日に至った。
 しかるに廃社の後、人々は社殿の跡に為志神社遺蹟の石碑を建て、あたかも神殿に対する如くこれを崇敬してきたのである。
 人々の志実って社殿を再建して祭神を還し、ここに式内小社為志神社の再興が成就したあと、なお為志神社遺蹟の碑を温存する所以である。
                        昭和57年10月17日 式内小社 為志神社 再興発起人一同」
とある。

 なお、社名の為志は、忍海の別称・飫斯(オシ)の転音とも、忍志(オシ)の誤写ではないかというが(奈良県史・1989)、いずれとも確認はできない。

※祭神
  伊古比都弊命(イコヒツベ)

 この神の出自は不明だが、神名帳考証(1733・度会延経)には
  「伊毘志都弊命 和泉国大鳥郡火雷神社、石津太杜神社、出雲国飯石神社、出雲風土記云、伊毘志都弊命。按食神・稚産霊命也」
とみえ、伊毘志都弊命(イヒシツベ)の誤とも考えられるという(式内社調査報告・1982)

 この記述は、伊毘志都弊命は和泉国火雷神社・同石津太杜神社の祭神で、出雲国風土記には出雲国飯石神社の祭神とあり、稚産霊命(ワクムスヒ)と思われる、という意味であろう。

 この神について、出雲国風土記(東洋文庫版)には
 ・飯石郡・飯石郷(イヒシノサト)
   「伊毘志都弊命の天降りなされた場所である。だから伊鼻志(イヒシ)という(神亀3年に字を飯石に改めた)
とあり、神名の注記には
   「飯石郡の守護神で、貝または握飯の形をした石を神体とする食料生産に関係する女神。飯石神社の祭神」
とあり(東洋文庫版)、食料生産に関係する女神ということから、考証がいう稚産霊命の別名とみてもおかしくはない。
 なお、稚産霊命とは、火の神・カグツチを生んで病臥したイザナミの尿から成り出た神で、その御子に豊穣神・トヨウケヒメがあることから(古事記)、この神も食物に関係する神とされている。

 ただ、考証がいう和泉国火雷神社(陶荒田神社-堺市中区上之に合祀)及び石津太杜神社(和泉国式内社にこの名の神社はない。堺市西区浜寺石津町にある石津太神社のことか)の祭神に、この神の名はみえない。

 なお、神国島根との書(島根県神社庁版・出版年不明)には
  「伊毘志都弊命  天照大神の御子・天穂日命(アメノホヒ)の御子で、亦の名を天夷鳥命・武夷鳥命・天照大人・大背飯三熊大人・武三熊大人・稲背脛命・武日照命という。出雲国造家の祖にして出雲伊波比神とも称す」
とあるという(ネット資料)

 別名とされる天夷鳥命(アメノヒナトリ、書紀では武夷鳥命)とは、古事記によれば、アマテラスの御子・アメノホヒの御子で、出雲国造・武蔵国造・・・の祖とある神で、葦原中国に対する国譲り交渉に際してタケミカツチ神に従って降臨したとあり、出雲国造神賀詞では、父・アメノホヒの命でフツヌシ神を伴って降臨し、荒ぶる神を平定し、オオナムチをなだめて国譲りを成就させた功労者という。
 天夷鳥命には幾つかの別名があるが、神国島根以外に伊毘志都弊命の名を挙げる資料はなく、伊毘志都弊命=天夷鳥命とする根拠は不明。

 資料の信憑度からみて、伊毘志都弊命は風土記にいう食物の女神と見るのが順当で、出雲系の神と思われるが、当地に出雲族が進出していたとする資料はみえない。

 なお、大和志がいう十二所権現当時の祭神として、
 ・和州忍海郡笛吹社氏子 枝社御神名記録(1870・明治3)--大彦命以下十二社
 ・大和国忍海郡八箇村神社取調書(1871・明治4)--
    祭神伊毘志都弊命、同社相殿坐大御神・国之底立神以下十一社
とあるというが(式内社調査報告)、詳細は不明。

 これらからみて、当社祭神は伊古比都弊命(伊毘志都弊命)とみるのが順当と思われるが確証はなく、神社覈録(1870・明治3)大和志料(1914・大正3)がいう祭神不詳が順当かもしれない。

※社殿等
 道路北側に鬱蒼たる叢林があり、道路脇に鳥居が立つ。
 境内正面に拝殿(入母屋造・瓦葺)、その裏、ブロック塀に囲まれたなかの一段と高くなった所に本殿(一間社流造・銅板葺)が南面して鎮座する。
 本殿域を囲む塀が高く、また2段に囲まれていて、本殿域詳細の実見は不能。
 境内には遺蹟石碑が立つ以外に末社等はない。


為志神社の森 
   為志神社・鳥居

同・拝殿
 
同・本殿

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