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糸 井 神 社
奈良県磯城郡川西町結崎
祭神--豊鋤入姫命
                                                              2014.04.17参詣

 延喜式神名帳に、『大和国城下郡 糸井神社 靱』とある式内社。古くは“結城大明神”とも呼ばれていた。

 近鉄橿原線・結崎駅の西約1km。駅の少し南を東西に走る道路を西へ、突き当たりの森を南(左)へ回り込んだ処に鳥居が立つ。

※由緒
 社頭に掲げる案内(川西町教育委員会)には、
  「祭神 豊鋤入姫命(トヨスキイリヒメ)
 延長5年(927)にまとめられた『延喜式神名帳』に記載されている式内社で、本殿も江戸時代に春日大社から移築されたものです。結城内の五垣内(市場・中村・井戸・辻・出屋敷)により祀られています」
とあり、
 社頭にある「川西町 町・村の歴史 大字結崎(ユウザキ)」との案内(同上)には、
  「中世結崎郷は、結崎大明神(現糸井神社)を鎮守として存在していた。・・・
 鎮守であった糸井神社は延喜式内社。その祭神は、大和志料に『本殿豊鋤入姫命、同二ノ宮猿田彦命、同三ノ宮綾羽明神(アヤハミョウジン)、同四ノ宮呉羽明神(クレハミョウジン)」と記されており、社伝中にも綾羽・呉羽の祭神があることから、機織(ハタオリ)の技術集団の神と推察される。
 本殿は、春日大社の古殿を移築したと伝えられ、室町期の春日曼荼羅を所蔵し、興福寺や春日大社との関係も深かったと考えられている」
とある。

 当社に関する古資料として
 ・大和志(1734・江戸中期)
   「糸井神社 鍫 結城市場にあり、今春日と称する」
 ・大和志料(1914・大正3)引用の式内社糸井社縁起(糸井神社旧25人衆の一﨟・広瀬家蔵)
   「(応神天皇の時)呉国(クレノクニ)より綾羽(アヤハ)・呉羽(クレハ)と云ふ織女来りて、河内国丹比野に蚕を飼ふことはじめ給ふて、織女、天皇(仁徳天皇)の勅掟をこうむり大和の黒田廬戸の宮(クロダイホドノミヤ・当社の南約2kmほどの田原本町黒田・宮古付近とされる第7代孝霊天皇の宮)の辺りにて始めて綾織を織らしむ。是を機織殿といふ、亦結崎の明神或は絹引神とも申すなり」(抄記)
がある。

 大和志料がいう“応神天皇の時云々”とは、書紀・応神天皇38年条の
  「春2月1日、阿知使主(アチノオミ)・都加使主(ツカノオミ)を呉に遣わして、縫工女を求めさせた。・・・呉の王は縫女(ヌイメ)の兄嬪(エヒメ)・弟嬪(オトヒメ)・呉織(クレハトリ)・穴織(アナハトリ)の四人を与えた。
 41年、阿知使主らば呉から筑紫に着いた。そのとき宗像大神が工女らを欲しいといわれ、兄嬪を大神に奉った。・・・
あとの3人をつれて摂津国に至り、武庫についたときに天皇が崩御されたので、この女たちを大鷦鷯尊(オオサザキ・後の仁徳天皇)に奉った」
との記事をいう。

 大和志料がいう綾羽・呉羽とは応神紀にいう穴織・呉織を指すと思われ、奈良県史(1989)
  「糸井とは本来結崎やその付近一円を総称した郷名とみられ、往古繊維紡績関係業の栄えた地域で、糸井郷に居を占めた豪族が糸井造(イトイノミヤツコ)である。姓氏録(815)に「大和国諸蕃(新羅) 糸井造 三宅連同祖 新羅国人天日槍命(アメノヒホコ)之後也」とある。
 社伝によると機織の技術集団の神とあって、綾羽・呉羽の祭神名からもうなづける。
 古来当社の祭神や創祀について諸説があって判然としない面もあるが、上記したように結崎や糸井の地名からも糸に関係した業種の氏族が祀った神社ではないかと考えられる」
という。

 当地に居たという糸井造が新羅からの渡来氏族とされることから、当時の先端技術であった綾織りの技を以て朝廷に仕え(造・ミヤツコとは、主に職能集団に与えられた姓・カバネ)、その糸井造一族が守護神として綾羽・呉羽の2神を祀ったのが当社の始まりであろう。

 ただ、綾羽・呉羽が機織りを始めたとする伝承地として、大阪府池田市にも、綾羽・呉羽の二人が仁徳天皇の命によりこの地に織殿・綾殿を設けて機織・裁縫の業を興したとする伝承があり、摂津国式内社・伊居太神社(池田市綾羽)は綾羽を、式外社・呉服神社(池田市室町)は呉羽を祀るという(別稿・伊居太神社参照)

※祭神
 社頭の案内には
  祭神 豊鋤入姫命(トヨウケイリヒメ)
とあるが、次の諸説がある。
 ・式内社糸井神社縁起
  --本殿豊鋤入姫命(是は大倭明神なり)同二ノ宮猿田彦命(是はチマタの神と申して春日の社若宮也)
     同三ノ宮綾羽明神、同四ノ宮呉羽明神
 ・奈良県史・案内大字結崎
  --本殿豊鋤入姫命、同二ノ宮猿田彦命、同三ノ宮綾羽明神、同四ノ宮呉羽明神
 ・大和志料
  --(上記4座を挙げ)之に拠れば当社は綾羽呉羽の霊を祭れるなり。
 ・糸井神社祭神考
  --天日矛命(糸井造の遠祖)
 ・神社明細帳
  --祭神不詳

 豊鋤入姫命とは崇神天皇の皇女で、崇神6年条に
  「是より先、天照大神と倭大国魂(ヤマトノオオクニタマ)の二神を天皇の御殿内に祀っていたが、その神の勢いを畏れ、共に住むには不安があった。そこで天照大神を豊鋤入姫に託し、倭の笠縫邑(カサヌイムラ)に祀った。よって堅固な石の神籬(ヒモロギ)を造った」
とある姫神だが、この姫を当社に祀る由縁はみえない。
 (姫がアマテラスを祀ったという笠縫邑とは、桜井の大神神社の摂社・桧原神社に比定されているが、多神社の近くにも候補地がある)

 また、糸井神社縁起は「豊鋤入姫命・是は大倭明神なり」というが、これについて大和志料は
  「豊鋤入姫を本宮として之を大倭明神とするは何に由るか知らず。渟名城入姫(ヌナキノイリヒメ)嘗て大倭大神を祭りしと国史に見ゆ、疑くは此等より誤り来れるものなるべし」
として、縁起の記述に疑問を呈している。
 ここでいう淳名城入姫とは、豊鋤入姫が天照大神を宮廷の外に祭ったとき、
  「また倭大国魂神は、淳名城入姫に預けて祀られたが、姫は髪が落ち体が痩せて祀ることができなかった」
とある姫神で、縁起がいう大倭明神は、この姫神が祀ろうとした大国魂神を指すと思われるが、この神と豊鋤入姫とは無関係で、縁起が豊鋤入姫=大倭明神というのは書紀記述の読み違えによるものであろう。

 二ノ宮・猿田彦命は、縁起に「是はチマタの神と申して」と注記していることからみて、結崎の地に法隆寺街道(古く法隆寺と飛鳥京を結んだ官道で太子道ともいう)が通っており(今の県道197号線がその跡らしい)、道中安全の守護神即ち道祖神として祀ったか、街道筋の何処かに祀られていた道祖神(衢の神・塞の神)を勧請したものかと思われる。
 ただ、注記に「春日の社若宮也」というのは解せない。春日若宮の祭神は天児屋根命の御子・天村雲命とするのが通説だが、春日の地主神とする説もあり、猿田彦も地主神とする俗説があることからではないかと思われる。

 これらからみて、豊鋤知姫命・猿田彦命を祭神とする積極的な理由はなく、由緒からみて綾羽・呉羽の2座とするのが順当であろう。

※社殿等
 鳥居を入った境内正面に拝殿(入母屋造・瓦葺)、その奥、ブロック塀に囲まれた本殿域中央に朱塗りの本殿(一間社春日造・桧皮葺)が南面して鎮座する。

 今、本殿は1宇のみとなっているが、糸井神社縁起に本殿・二ノ宮・三ノ宮・四ノ宮とあることから、嘗ては4宇の社殿が並んでいたのかもしれない。

 
糸井神社・鳥居
 
同・拝殿
 
同・本殿
◎境内社
 本殿の右に境内社4宇がある。各小祠に社名(祭神名)の記載なく詳細は不詳だが、式内社調査報告によれば、
 ・春日神社--天児屋根命
 ・大国主・事代主相殿社--大国主命・事代主命
 ・住吉神社--表筒男命・中筒男命・底筒男命 (以上3社は南面して鎮座)
 ・稲荷神社--保食神 (3社の右前に西面して鎮座)
という。勧請由緒・年代等不明。 

 
春日社・大国主事代主相殿社・住吉社
(稲荷社は、この右に西面してある)

◎絵馬
 拝殿内に数枚の絵馬が奉納されており、社頭の案内には
  「神社の拝殿には様々な絵馬が飾られていますが、中でも、
 多くの人たちが雨乞いの願を掛けるために太鼓踊りをしている様子を描いた天保13年(1842)のものや、
 おかげ踊りを踊る様子を描いた慶応4年(1868)のもの
がひときわ目につき、それぞれ「太鼓踊り絵馬」「おかげ踊り絵馬」と呼ばれております。
 「太鼓踊り絵馬」の中には西瓜を切り売りしている様子(右下)や、僧侶が灯籠に火をともしている様子(中央上)などが描かれて、当時の生活や、神仏習合の一端が垣間見られる良好な資料となっています」
とあり、この両絵馬は奈良県文化財に指定されている。

 なお、これ以外に“雨乞い神事”を描いたとおぼしき絵馬(祈祷の様子・持ち込んだ釣鐘を池に投げ込んでいる様子などが見える、明治27)、武者絵馬(2枚、天保2・慶応元)・奉納相撲絵馬(明治21)他がある。

 
太鼓踊り絵馬(天保13)
 
おかげ踊り絵馬(慶応4)
 
雨乞い絵馬(明治27)
 
相撲絵馬(明治21)
 
武者絵馬(天保2)
 
武者絵馬(慶応元)

◎面塚
 当社鳥居の正面・宮前橋を渡った左手の寺川右岸堤防下に“面塚記念公園”と称する小公園があり、その一画に「面塚」「観世発祥の地」と刻した石碑2基が立つ。
 堤防脇に立つ“面塚 観世発祥の地”との案内(川西市教育委員会)には、
 「この地には『天から翁面と葱が降ってきた』との伝承があり、面塚と称した。
 伊賀国小波多(オバタ)に座を創った観阿弥・世阿弥父子がこの地に移り、結崎座と称して芸道に精進した本拠の地である。(中略)
 大和には、この結崎座の他に、円満井『金春』外山『宝生』板戸『金剛』の三座があり、これらを大和猿楽四座という。
 面塚伝承の地は、ここから北へ約10mの処にあったが、昭和11年観世流24世観世左近師の揮毫による『面塚』『観世発祥の地』の2碑が建立されたが、その後、昭和30年の寺川改修工事のため、現在の地に移された」(概略)
とある。

 この面塚或いは能楽と当社との関係は不詳だが、拝殿には、当社への能楽奉納を記念する額2面(昭和26年・同60年)が掲げてある。

 
面塚正面
 
面塚の碑
 
観世発祥の地の碑
 
能楽奉納の額(昭和26年)

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