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巨勢山坐石椋孫神社
奈良県橿原市鳥坂町ウルシハラ
祭神--石椋孫神
                                                            2013.06.08参詣

 延喜式神名帳に、『大和国高市郡 巨勢山坐石椋孫神社』とある式内社だが、今、春日神社と呼ばれている(市販の地図にも春日神社とある)
 社名は“コセノヤマニマス イワクラヒコ”と読む。

 近鉄・橿原神宮前駅の東南約1km、西口から西へ伸びる県道133号線を西へ、二つ目の信号・久米南口を左折、次の信号を右折すると、左手に当社の社葬がある。当社へは、社叢を北・西・南と回りこんだ農道脇に細い石段がある。
 今、当社の東側一帯は高層を含む住宅地となっているが、嘗ては益田池という大きな農耕用の池(9世紀初頭築造)があったという。

※由緒
 境内には何らの案内もなく、且つ古資料も少ないため創建由来・沿革等は不明。

 江戸中期の地誌・大和志(1734)には
 「巨勢山坐石椋神社 鳥屋村東南に在り 今巨勢谷春日と称す」
とあるが、現鎮座地は鳥屋町の東側北寄りにあり、ここでいう鳥屋村東南がどの辺りを指すのか不明。

 一方、ネット資料が引用する寺院神社事典(大和・紀伊)には
 「当社は、もと倭彦命身狭桃花鳥坂墓の上にあったが、明治20年(1887)の陵墓治定により、現在地であった八王子社の社地に移して八王子社を摂社とした」
とあるという。
 ここでいう倭彦命身狭桃花鳥坂墓(ヤマトヒコノミコト ムサツキサカノハカ)とは、当社の西南西約1km・新池の西にある倭彦命陵を指す(倭彦命--崇神天皇の第3皇子、垂仁紀28年条に死亡記事あり)
 今の当社が陵墓上からの遷座とすれば、江戸中期の当社は陵墓付近にあったとみるべきだが、大和志がいう鳥屋村東南とは整合しない。大和志が西南を東南と誤記したのかもしれない。

 また、当社社名に“巨勢山坐”と冠することからみて巨勢山との関連が窺われるが、通常、巨勢山とは現御所市古瀬の辺り(JR和歌山線・吉野口駅の西方一帯)にあると思われる(巨勢寺塔跡・巨勢山口神社あり)
 古代の巨勢郷の範囲がはっきりしないため、当社のある鳥坂町付近が巨勢郷に含まれたのかどうかは判然とせず、当社の旧鎮座地についても確たることはわからない。

※祭神
 祭神を石椋彦命(イワクラヒコ)とするが、命の出自・経歴、当社にまつられる由緒など一切不明。
 社名に“巨勢山坐”とあることから巨勢郷あるいは巨勢氏との関係も窺われるが、それを示唆するものはない。

 ただ、室町初期の古書・和州五郡神社神名帳大略注解(通称・五郡神社記、1446)によれば、まず
 「巨勢山坐石椋媛普通本孫に作るは否神社一座」
として、社名は巨勢山坐石椋媛神社(祭神:石椋媛命)であるとし、
続いて
 「愚考するに、大物主神は三穂津姫を連れて天の高市より巨勢山中に天降り、然る後、三穂津姫を娶りて男子を生む。天八現津命(読み不明)と号す亦巨勢津彦命と云う。・・・
 又妣・三穂津姫命永く巨勢山中の石陰に盤石を以て窟を造り拝祭、三穂津姫命神(を祀る)故に石椋神社と云う也」(漢文意訳)
とあり、祭神・イワクラヒメとはタカミムスヒの娘・ミホツヒメのことという。

 これは、書紀・国譲り段一書2のみに記す
 「(天の高市に於いて、天つ神への帰順を表明したオオモノヌシに対して)タカミムスヒが『お前が国つ神を妻とするなら、吾はお前がなお心を許していないと考える。それで、吾が娘のミホツヒメをお前に娶せたい』といわれた」
とあるのを承けたものだろうが、そこには巨勢山中に天降ったとはない。
 大和国が三輪山信仰・オオモノヌシ信仰の地であることから、記紀に何らの事蹟も記されていない后・ミホツヒメと結びつけたとも思われるが、根拠となるものはない。
(最終段原文、又妣三穂津姫命永石陰于巨勢山中 以盤石窟拝祭 三穂津姫命神故曰石椋神社の読みは難しい)

 なお資料によれば、石椋彦命以外に天児屋根命(アメノコヤネ・中臣氏の祖神)及び倭彦命(ヤマトヒコ)を合祀するという。
 アメノコヤネは当社が春日神社と呼ばれることからだろうが、その勧請由緒・時期等は不明。
 また、ヤマトヒコは当社旧鎮座地との関係からであろう。

※社殿等
 社叢を北・西・南へと回りこんだ農道脇に、草に覆われて狭い急勾配の石段がある。案内表示なし。
 やや荒れた狭い石段の途中に鳥居(明治18年建立)が立ち、更に石段を登った上が境内。
 境内正面に拝殿(切妻造平入りの割拝殿、瓦葺)、その奥、ブロック塀に囲まれた中に本殿(二間社流造・銅板葺)が、西南方に向かって鎮座する。ブロック塀が高く、神域内の詳細は実見不能。



 巨勢山坐石椋孫神社
石段入口

同・鳥居
 
同・拝殿
 
同・本殿

 寺院神社事典には、元あった八王子社を摂社としたというが、それらしき小祠は見当たらない。

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